(番外編)似た者同士の十年ちょっと

 こんな男、薫は嫌いだった。何でも自分の思い通りにしたい子供で、面倒くさいことは人任せ、気まぐれで気分屋で、セックスの趣味は変態。父親はあんなに偉大な人間なのに、なぜこんなクズが生まれてきたのか。なぜ、なぜ——。
「嘘だ……」
 鏡で確認してみたところ、薫の首筋にはくっきりと歯形が残っていた。彼が付けた痕。一生消えない契約印。
 いや、一生、ではない。どちらかが先に死ねば契約は無効になるから、無防備にベッドで眠る男を殺してしまえばなかったことになる。そうだ。それがいい。いい考えだ。——しかし、この男が死ねば、薫が尊敬するあの人が悲しむ。
 とにかく、まずこの男と距離を置くことだ。そして、あの人のところに帰ろう。そうすれば、何かいい案を授けてくれるはず。
 薫は取り急ぎ飛行機のチケットの手配をして、必要最低限の荷物だけ持って家を出た。
 嫌だ。あんな男が薫の番だなんて。
 番関係は、アルファとオメガの間にだけ成立する、特別な契約。共に生き、決して離れぬという。自分には縁のないものだと思っていたのに。よりにもよってあんな男と。オメガに生まれたことをこんなに恨んだことはない。
 ——絶対に認めない。絶対に。

 出向先から帰国したのは、翌日早朝のこと。空港からタクシーで伊崎邸へと急いだ。
 ここに戻ってくるのは三ヶ月ぶりだ。この時間だと、まだ誰も起きていないかもしれないので、勝手に鍵を開けて入る。台所の方で音がしているから、住み込みの家政婦がもう朝食の支度に取りかかっているのだろう。
 薫は足音を忍ばせて階段を上り、この屋敷の主人、伊崎誠一の寝室へ向かう。誠一には妻の時子がいるが、お互い仕事が忙しく、寝る時間もばらばらであるため、寝室は別れている。
 控え目にノックすると、返事はない。そっとドアを開けて中に入る。誠一はまだぐっすり眠っていた。彼のこんな姿を見るのは何年ぶりだろう。かつては共に朝を迎えたことが何度もあったのに。いや、今は感傷に浸っている場合ではない。
 迷惑とわかっていながら起こしにかかる。
「旦那様、旦那様、お話が……」
 軽く肩を揺すると、男の目が薄く開く。
「ああ、君か。いったい……」
「こんな時間に申し訳ありません。大変なことになりまして、急遽私だけ帰国してきました」
「なんだね」
 誠一が身体を起こし、ベッドに腰掛けるのを待ってから、薫は説明を始める。突然発情期が来て、『知人の』アルファの番にされてしまったことを。そのアルファが誠一の息子であることは伏せておく。薫には余計な説明を追加する精神的余裕はなかったし、ただ単純に彼に打ち明ける勇気がまだ持てなかったから。
 彼は真剣な面持ちでその話を聞いてくれた。
「それは本当の話なのか」
「はい……。どうしたらいいでしょうか。私は……」
「しかし、なぜ発情期が? お前はいつも自己管理は徹底していたではないか」
「それが……。現地で処方してもらった薬が身体に合わなかったようで」
 現地に着いたばかりで発情期予定日を迎えたときは、持ち込んでいたいつもの発情抑制剤を飲んだ。そのときはそれで何事もなかった。今回も同じものを取り寄せられればよかったのだが、抑制剤を処方してもらうには医師の診察が必要で、帰国する時間もなかったため、現地の病院に行った。ここに来る移動中にネットで調べただけだが、海外の薬は身体に合わず、効果が見られない場合もあるという。
「では、避妊薬は?」
「それは取り寄せしていましたから、大丈夫かと」
「だが、避妊薬の種類によっては発情期に効果のないものもある。確認はしたか?」
「……いえ」
 冗談じゃない。あの男の子供なんて。混乱していてそこまで考えられなかった。
 誠一は立ち上がり、薫の肩をたたく。
「とりあえず一度病院に行って調べてもらいなさい。これからのことはそれから考えよう」
 そう、それが次にすべきこととしては最善だ。
 かかりつけのクリニックが診療を開始すると同時に一番乗りした。
 番解消の方法を聞いたが、ないと断言された。妊娠しているかどうかは、まだ判定できる時期ではないそうだが、薫の飲んでいた避妊薬は発情期には効果のないものと言われた。発情期の妊娠率は極めて高い。時間的にアフターピルは今から飲んでも効果が薄い。飲むには飲んだが、できていれば産むか堕胎するかの二択。勿論後者に決まっている。

 伊崎誠一と初めて出会ったのは、薫が高校生の時だ。当時は夢も希望もない、つまらない人生を送っていた。中学生の時に事故で両親を失ってからというもの、親戚の家をたらい回しにされてきた。薫はどこに行っても厄介者で、当然大学には行かせてもらえそうになく、働いてこれまでかかった金を返せと言われていた。感情のない目をした子供で、あのとき家族と一緒に死にたかったとそんなことばかり考えていた。
 だが、誠一が薫を変えた。昔実父の世話になったという彼は、実父と共通の知り合いから、親を失った薫の話を聞いたと言い、薫の援助を申し出た。大学に行かせ、一人暮らしのマンションも与えてくれた。それだけではなく、ときどき二人で食事をして豊富な話題で楽しませてくれたり、あちこち遊びに連れて行ってくれたりした。
 世界で唯一自分に優しくしてくれる人。新しい父できたよう——というわけではなく、薫が誠一に募らせていったのは恋情。彼に妻子があるのはわかっていたが、止められなかった。
 薫が大学を卒業する少し前から、求められて身体の関係を持った。彼に抱かれていると本当に幸せな気持ちになった。愛されていると実感が持てるのは、とても心地がいい。
 大学卒業後は、誠一の仕事を手伝うようになった。恩返しのため誠心誠意働いて、彼に尽くす日々。その努力が実り、彼の信頼を勝ち取り、数年後には彼の自宅の離れに住み込んで家庭内の雑事も行うようになった。
 その当時、誠一には大学生と高校生の息子がいた。あるとき、長男の充が声をかけてきた。人を小馬鹿にするような目で見てくるし、すれ違うたびおかしな匂いを漂わせているので、薫は彼が好きではなかったが、大事な誠一の息子なので表に出さずにいた。
「竹司、僕、見ちゃったんだけど」
「……何をです」
「これ」
 充がトランプのように広げて見せてきたのは、数枚の写真。どれにも情事にふける薫と誠一が写っている。隠し撮りか。趣味の悪い。
「プリントしてないけどまだあるよ」
「……」
「これって不倫だよね? いけないんだー。母さんはこのこと知ってるの?」
「……」
「僕、今悩んでてね。母さんに教えてもいいんだけど、そうなると父さんが困るよなって。どうすればいいと思う?」
 生意気なガキだ。にこにこと上から見下ろしてくる。大して焦りもしなかった。ガキの要求なんてわかりきっている。
「何が言いたいんです」
「黙っててあげてもいいよ。そのかわり、僕にもやらせてよ。父さんと同じこと」
「私を脅すんですか」
「これは取り引きだよ。お前には選択の自由がある」
 自由なんてない。誠一を困らせることは絶対にしたくない。
「お前、オメガなんでしょ? なんかすごくいい匂いするもんね。嗅ぐたびにむらむらする。僕、女の子のオメガとはやったことあるけど、男のオメガとはないんだ。一回やってみたいって思ってたんだよねー」
 一回だけ。一回だけだ。それで満足する。相手はただの興味本位なのだから。
「わかりました」
 その夜に充の寝室へ行った。
 充のセックスは誠一とは全く違った。誠一はひたすら優しく薫を愛してくれたが、充とはただただ激しい欲求を乱暴にぶつけ合った。愛される幸福感なんてまるでない。しかし、充の発する蠱惑的な匂いが薫の理性をかき乱し、がむしゃらに欲望を打ち付けられるたび、肉体はかつてない悦楽に喜んだ。
 充は薫の身体を気に入り、その後誠一に隠れて何度も関係を持った。事が露見すると誠一に嫌われ、捨てられるかもしれないのはわかっていたが、やめられなかった。妻にばらされると誠一が困るから仕方なくやっていること、いつもそう自分に言い訳していた。
 一晩で父と息子の二人に抱かれたこともあった。そんな日の充は、決まっていつもよりしつこく、なかなか薫を離さなかった。平行して関係を持っていた期間は、その後何年か続いた。
 薫が三十になる何日か前、誠一から言われた。
「私たちの関係はこれまでにしよう。君ももう私のようなおじさんではなく、別の人を探した方がいい。もちろん君のことは頼りにしているから、仕事は今まで通りお願いしたい」
 充とのことがばれたわけではないらしい。愛人を続けるには、薫はもう年を取り過ぎた、そういうことだ。
 誠一の愛人をやめてからも、充との関係は続いた。寝室に一ヶ月以上呼ばれないこともあれば、一週間続けて毎日、ということもあった。充はたいがい満足するまで好き勝手に薫を抱いた。こちらが疲れていようがお構いなしだ。面倒がってスキンを付けなかったから、避妊薬は必須だった。
 もちろん、彼には薫だけだったわけではない。ガールフレンドを何人も作っていたが、誰とも長続きせず、結局は薫のところへ帰ってくるのだった。相手の女を好きだの結婚したいだのと散々惚気た口で、「やっぱり薫が一番だった」なんて調子のいいことを言って。
 このころになると、誠一との関係を妻にばらすと脅されることもなくなっていたので、嫌なら彼の部屋に行かなければいい話だ。しかし、薫の意思など関係なしに、薫の身体は彼を求めた。あの匂いだ。発情期ではないのに薫の身体に火を付ける、あの匂いが悪い。全部、全部、そのせい。

 悲劇の始まりは、充が海外にあるIZKグループの提携ホテルへ、出向を命じられたことだった。四月からだいたい半年の予定だ。充が薫に命じて、弟へのまどろっこしい嫌がらせを行ったことに対する罰だ。命じられたため薫が厭々やった調査が不完全で、無関係の他人に迷惑をかけてしまったらしい。
 あの時は誠一が私用で海外滞在しており、薫は一時的に充の秘書業務についていた。本来の業務は元からいる秘書と分担で行い、それが終了してから亨について連日の調査。体力的にきつかったが、誠一に充の面倒を頼まれていたため、何とかこなした。亨と愉快な仲間たちが乗り込んできて、このことが露見したのは、誠一が帰国した数日後のことだ。
 充の出向を聞いて、離れられてせいせいすると思っていたのだが、充が余計なことをしてくれた。
「竹司を僕に貸してよ。あっちには知り合いいないし、頼れる人がほしいんだよ」
 息子に甘い誠一は、それを許可した。
 出向先では、一つ屋根の下の生活。これまでも敷地内の母屋と離れが生活拠点ではあったが、ここでは誠一やその妻の目がない。毎日のように求められた。出会ってから十年以上経つが、こんなに濃密な時間を過ごしたのは初めてかもしれない。
 異国で処方された抑制剤があわず、発情期が来てしまったのは、行為にふけっている真っ最中のことだった。何度か気を失いながら、丸一日ベッドの上で繋がっていた。
 それから半日ほど眠りにつき、目を覚ましたとき、発情の熱は一時的に引いていたから、急ぎ緊急抑制剤を注射した。最中のおぼろげな記憶では、充に恐ろしいことをされた覚えがある。そして、薫もそれを喜んで受け入れていたのだった。鏡で確認すると、はっきりと彼の歯形が残っていた。

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