(番外編)似た者同士の十年ちょっと

 クリニックを受診した後、現実逃避するように、車であちこち無意味な寄り道をしてから伊崎邸へ戻る。
 誠一は仕事に出ている。帰ってきてからまた相談に乗ってもらおう。とはいえ、真実を包み隠さずに告げる勇気はない。相手が充で、しかもかなり以前から関係を持っていたことを知られたくない。知られるにしても、番になったのが充、ということだけに抑えたい。
 まだ愛人をしていたとき、「君は私に一途なところが大変好ましいね」と言われたことがあり、平行して充と関係を持っていた時期があることが分かるときっと嫌われる。それは避けたい。都合が良すぎると言われようが、嫌なものは嫌なのだ。誠一には嫌われたくない。
 番になんてならなければこんな心配しなくてすんだのに。本当に何をやってくれたんだ、あいつは。
 郵便、書類整理など家でできる雑事をこなしてから、離れの自室に行きネットでオメガ専門医について調べる。普段かかりつけにしている医師は番関係解消の方法はないと言っていたが、もっと見識の広い著名な医師なら何か情報を持っているかもしれない。諦めない。
 現地に放ってきた充はどうしているだろう。現地で雇われたもう一人の秘書クレアに、空港でメールを送り、取り急ぎ一日分の引き継ぎはしていた。今日はそう重要な予定もないし、業務に支障はないだろう。
 翌日以降についてメールを送っておこうと、パソコンでメールボックスを開くと、クレアからメールが届いていた。もう何時間も前だ。普段なら絶対に見逃すことはないが、自分のことで手一杯で気付かなかった。
『伊崎氏がミスター・ジョーンズに仕事を任せ、逃亡しました。飛行機のチケットの手配を頼まれましたが、あなたに止められていたのでお断りしました。空港に向かわれたものと思われますが、その後どうされたのか不明です』
 不明ですじゃない。追いかけろ。無能め。明日以降は勝手に困れとメールを送るのをやめた。
 さて、どうしたものか。帰ってくるつもりだ。あいつは。顔を合わせたくない。逃げなければ。いや、逃げてどうする。向こうに送り返さないと。誠一が帰ってくる前になんとかしなければ、余計なことをべらべら喋りかねない。どうにかここに来る前に拾えないか?
 車の鍵を握って離れの外に出ると、古参の家政婦がこちらにやって来るところだった。
「ああ、竹司さん。ちょうど呼びに行くところだったんです」
「どうしました、清子さん」
「それが、充さんがお帰りになったようで……。もし帰ってきても家に入れるなと旦那様から言われておりますので、今玄関先でもめてらして」
 あの馬鹿息子め。ぐっと歯を食いしばって怒りを堪える。
「私が対応します」
 母屋の玄関前では、若い通いの家政婦と充がいた。家政婦は困り切って泣きそうな顔になっている。充は薫を見つけると、輝く笑顔で手を振った。その手を掴んで背負い投げしてやりたい。
「かおるー! やっぱりいるんじゃん。どうして急に出てったの?」
「そのお話なら中でゆっくりと」
 問答無用で充の腕を掴み、母屋の中へ引っ張っていく。家政婦たちは薫の説教が始まると思っているのだろう、充を中に入れるのを止めない。
 奥まった空き部屋に連れて行って内側からしっかり鍵をかける。元は使用人のための家事室だったが、別室に移動したため、現在は使われていない部屋だ。屋敷内は空調が効いているので快適だが、ここは空き部屋のため空調を切っているので少々蒸し暑く感じる。
 薫は充に向き直り、腕を組む。
「仕事に戻ってください。今すぐ」
「お前も一緒だよね?」
「私はこちらに残ります。新たな秘書は早急に手配しますので、当面はクレアが対応します」
「あの子気が利かないから嫌なんだよね。僕の専属じゃないし」
「ほんの数日ですよ。それぐらい我慢できませんか」
 誰のせいで薫がこちらに帰ることになったと思っている。大袈裟にため息をついてやると、充は唇を尖らせる。幼稚な仕草だ。やめろと教えているのに。
「なんでそんなにつれないの。僕たち番になったんじゃ」
「何ですか、それは」
「僕、噛んだよね? 確か」
「夢でも見ていたのでは」
「へえ、そう来る。じゃあ、見せてよ、首筋」
「お断りします」
 伸びてきた手を払いのける。充は叩かれた手をさすってむくれる。
「なにそれ。番になったのが嫌みたいじゃん」
「なぜ私が喜ぶと? なんでこんなこと……。前々からろくなことをしない馬鹿息子だと思っていましたが、散々世話を焼いてもらった私にまで」
 業務外の用事をどれだけ引き受けてやったと思っている。亨に関する調査をしているときには、無様な写真まで撮られ、警察に突き出されそうになった。
 彼は机に手を突いて、床を踵で打つ。靴が傷む。子供はすぐ物に当たるから困ったものだ。
「なんだよ。僕が悪者なわけ? 薫ってさ、いつもそうだよね。被害者面してさ。あのときは噛むことを受け入れてたよね? というより、噛んでって誘うみたいに首筋さらして、すごい匂いさせて。父さんより僕を選んでくれたんだと思ってうれしかったのに」
「そんなことしていません」
「してたよ。そもそも、薫が発情期をコントロールできていたら、こんなことにならなかったよね。逆に僕が文句言ってもいいくらいだと思うけど」
「薬が合わなかったんだから仕方ないでしょう」
「それ、僕を悪者にする理由になる?」
「あなたが噛まなければこんなことには……」
「薫が発情期にならなければ僕は噛まなかった。堂々巡りだよね、この話」
「……」
 答えなかったのは、言い負かされたわけではなくて、言っても無駄だと思ったからだ。それなのにいい気になって、馬鹿息子は続ける。実に小憎らしい。
「薫はもしかして、父さんの番になりたかったの? 母さんはアルファだから、番にはなれないよね。妻はすでにいるけど、番の席は空いてる」
「そんな大それたこと考えたこともない」
「本当に? 実は期待してたんじゃないの? 残念だったね。父さんが愛しているのは母さんだから、妻も番も、二人も伴侶を持つようなことはしないよ。薫は都合よく身体を利用されてただけ。今は身体も用済み。可哀想にねえ。もう何年抱いてもらってないの?」
 黙れ。聞きたくない。薫の顔つきが険悪になっていくのに気づかないわけではないだろうに、お喋りな充の口は止まらない。
「もう三十六だっけ? それじゃあ仕方ないね。父さん、若い子が好きだから。僕の知る限りで、薫の後二人変わったかな。今は大学生らしいよ。それもいつまで続くか」
 気づいたら、目の前の男の頬を張っていた。彼は頬を押さえて口端を上げる。
「痛いなあ。図星突かれてキレるのやめてよ」
「……謝りませんよ」
「なりたかった番に僕がしてあげたんだから、もっと喜んでよ」
「あなたの番なんて」
「大好きな桜さんにも振られちゃったみたいだしさあ。せっかく番になったことだし、僕と結婚しよ。僕たち、付き合って十年以上になるんだから、そろそろ良い頃かも」
 殴られた後に殴った相手に言う台詞ではない。ちゃんちゃらおかしいと鼻で笑う。
「付き合っていた覚えはありませんよ。私たちはセックスしかしていない」
「熱く溶け合うようなね」
 うっかり発情の熱を思い出しそうになってしまい、握りしめた自分の腕に爪を立てる。また殴ってやろうか。
「……とにかく、私は嫌です」
「番関係って、法的には夫婦と同等なんだから、結婚しても一緒じゃない? 正式に籍を入れといた方が、後々ややこしくなくていいよ」
「嫌なものは嫌です。番関係を解消する方法を調べます」
「往生際が悪いなあ」
「あなたはなぜすんなり開き直っているんですか」
「僕たち長く続いてるし、結婚しても上手くいくと思うけどな」
 軽すぎる。ほんの数ヶ月前に別のオメガ女にプロポーズしていたくせに。
 どうやって諦めさせるか——。策をひねり出そうとしていたところ、ドンドンドン、と強く扉を叩く音がする。
「ちょっと、充、いるの? 開けてちょうだい」
 充の母、時子の声だ。なぜこんな早い時間に? 充が帰ってきたと家政婦が連絡したのか? まずい。いつまでも子離れできず、息子を甘やかしてばかりいる女なので、番の件がばれるとややこしいことになる。先に誠一に相談したかったのに。
 薫の気も知らず、充は安易に応じる。
「ああ、母さん、ちょうどいいや。話があってねー」
「待ってください。まさか、言うつもりですか?」
「当たり前じゃない。家族なんだよ」
「その前に旦那様に相談を……」
「相談されたって、父さん、困惑するだけだと思うけど。もうどうしようもないことじゃん」
 どうしようもないかはまだわからない。どうしたらいい。どうしたら充を止められる? 混乱しすぎて思いつかない。
 苛立った時子が急かす。
「ちょっと、二人で何を話しているの。いいから開けて」
「わかった」
「充さん!」
 腕を掴むのが間に合わなかった。充は内鍵を開けてドアを押す。そこには時子と、後ろに誠一もいた。充は彼らに向かって高らかに宣言した。
「僕たち番になったから、結婚します。いいよね?」

 案の定屋敷内は大騒ぎになった。時子は半狂乱だ。
 十年以上前から関係を持っていたことや、その前から薫と誠一が不倫関係にあったこと、出向先で薫とどんな風に過ごしていたかなど、充は一切合切ぶちまけた。
 薫は茫然自失の状態で、人形のように突っ立っていた。誠一は何も言わないが、きっと呆れている。嫌われた? 軽蔑された? 表情からは読み取れない。
 怒れる時子の攻撃対象は、不倫をしていた夫でもなく、不用意に番を持った息子でもなく、当然薫だった。
「竹司! あなたは私の夫と大事な息子に手を出しておいて、平然とここに居座ってたってこと!? やっぱりオメガなんてろくなもんじゃない!」
「母さん、それは性別差別だよ。薫がビッチなだけだって」
 充はへらへらとして、口調はどこまでも軽い。それがまた時子の怒りに油を注いでいく。
「あなたはそのビッチと結婚するって正気なの?」
「だって番になっちゃったしー」
「発情期が来たのだってきっとわざとよ。うちの財産目当てね! とんでもないのが我が家に入り込んでいたもんだわ。汚らわしい!」
「父さんは賛成してくれるよね? ほらほら、言ってあげて。薫がどんなにいい子か。あんなに愛し合ってたわけだし、いろいろ知ってるよね、いいとこ。あ、セックス以外で」
「充! いい加減にしなさいよ。そんな話聞きたくないの!」
「いいじゃん、母さん。僕は聞きたいなー。僕の知らない薫のこと」
 だんだん、親子の会話が小さく聞こえるようになってくる。視界が揺らぐ。気が遠くなってくる、というのはこんな感じだ。そういえば、機内食を食べたきり、今日は何も口にしていなかった。
 薫の四肢は力を失い、その場に倒れ込む。
「……薫?」
 薄れる意識の中で、温かな腕に抱き起こされたのがわかった。いい匂いがする。とても。——とても。
 周囲で飛び交う会話も、上手く聞き取れなくなっていく。
「……触らないで。一人で連れて行ける」
 ただ、耳元で聞こえたその声だけは、やたらとはっきりしていた。
「やめて。父さんは薫を捨てたくせに」
 暗く低い、薫の知らない誰かの声だった。

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