(番外編)似た者同士の十年ちょっと

 目を覚ますと、ベッドの上だった。住み慣れた離れの自室だ。傍らには家政婦の清子がいた。彼女は気遣わしげな様子で薫をのぞき込む。
「気分はどうですか」
「私は……」
 身体を起こしかけるが、まだ頭が重い。清子は首を振ってそれを制止する。
「まだ寝てらしたほうがいいですよ。お話し合いの最中に倒れられたんですから。お医者様が先ほど来られましたが、軽い熱中症ではないかということで、点滴していただきました」
 お話し合い、か。あの馬鹿のせいでとんでもないことになった。思い出して胃が痛む。
 不倫の件が時子に知られた以上、薫はこの屋敷から追い出されるだろうし、仕事も続けられるかわからない。世間的に特殊な、あのふざけた家族の秘書ぐらいしかやったことのない薫に、再就職する先が見つかるかどうか。見つかったとしても、今と同程度の待遇は到底期待できまい。
 いや、それより重大な問題は、誠一にすべてを知られてしまったことだ。時子からかばってくれなかったし、きっと嫌われた。もう側には置いてもらえないだろう。これまで十年以上、誠一のために働き、積み上げてきたものが、ガラガラと崩れ落ちていく気がした。
 あの騒々しい『お話し合い』は、屋敷内にいた清子にも聞こえていたはずだが、彼女は何も聞かない。
「お腹はすきませんか? お粥でもいかがですか」
「いえ、結構です」
 気持ちはありがたいが、胸が悪くて何も喉を通りそうにない。
「でも、何か食べないと。もう一人の身体じゃないんでしょう」
「……どこでそれを」
「旦那様が仰せでした。その可能性があると。充さんも心配しておいででしたよ」
 あの充が? 絶対に嘘だと思った。薫の心配をするぐらいなら、あんな暴露話はしない。
「果物でもむいてきますね。今はゆっくり休んで」
 清子はそう言い置いて、部屋を出て行く。
 ここには甲高い時子の声は届かない。静けさに安堵して、再び目を閉じる。
 ノックの音がしたが、おそらく清子であろう、温厚な彼女なら寝ていても許してくれるだろうと思い、返事をせずにいた。
 そっとドアを開ける音がする。足音がこちらに近寄ってきて、すぐ側で止まる。そこからまた元のように静かになる。しばらくその状態が続く。つまり、部屋に入ってきた人物は、ベッドの側に立ったまま物音をたてず動いていない。清子なら、寝ているとわかれば出て行くか、付き添うつもりであれば椅子に座るなりなんなり、次の動作をするだろう。なぜ音がしない。なぜ動かない。入ってきたのは清子ではないのか。
 苦しくなり、緊張で詰めていた息を吐き出す。鼻から吸い込むと、嗅ぎ慣れた匂いが空気とともに取り込まれる。
 ——なんだ、まぎらわしい……。
 目を開けると、そこにいたのは充だった。真顔でじっとこちらを見つめている。いつもへらへらしている男が笑っていないとなんだか不気味だ。
「……何しに来たんですか」
 出た声は自分が思った以上に冷たい。充はすぐに相好を崩す。
「お見舞い以外にある?」
「必要ありません」
「ごめんね? 意地悪しちゃって。まさか倒れるなんて思わなくてさ。全部ばらしちゃったら、薫も父さんへの未練を断ち切れるかなって思ったんだ」
 なんだそれは。安直すぎて返事をする気にもならない。薫が不機嫌に押し黙っていても、充は気にしない。いつものことだ。
「ねえねえ、妊娠したなんて知らなかったんだけど」
「まだ確定ではないです。でも、いいんです。できていても堕ろしますから」
「なんで? 父さん、喜ぶと思うよ。初孫だし」
「仮に産むとしても、誰も私のことを知らないどこかに行って、一人で産みます」
「僕も一緒だよね?」
「一人でって言いましたよね」
 薫は身体を起こし、清子が置いてくれたのであろうペットボトルをサイドテーブルから取る。うまく手に力が入らずにキャップを開けられないでいると、充が取って開けてくれた。何でもないようなことだが、このワガママ坊ちゃんが人のために何かやるというのは驚く。コップに入れるのは面倒で、そのまま口に含んだ。
 充はその様子を見守っている。居心地が悪くなるから、あまり見ないでほしい。
「ねえ、薫は僕のこと嫌い?」
「はい」
 今さら隠すことでもないだろう。これからは誠一の側にはいられなくなるだろうから、誠一の息子だからと彼にしてやっていた気遣いは、すべて排除していく。
 彼はベッドの端に腰掛けて、息をつく。
「僕は好きなんだけどなー。僕たち、似た者同士でお似合いだと思うよ」
「欠片も似てませんよ」
「そうかな? 薫はさ、母さんに申し訳ないとか思ったことないでしょ」
「何に対してですか?」
「主に父さんとの不倫関係について」
「ええ、まったく」
 薫から無理に迫ったのならともかく、望まれて関係を持っていたのに、何が悪いのだ。ばれたら怒るだろうという認識はあったが、勝手に怒ればいい。薫は知らない。
「僕もあんまりそういうこと思わない方だけど、普通は思うんだって。奥さんに申し訳ないとか。だから、やっぱり薫は変わってる。どっかおかしい。僕たち二人とも」
「あなたの方が百倍くらいおかしいと思いますよ」
 一緒にしないでほしい。薫は充のように子供でもないし、馬鹿でもないし、非常識でもないし、奇行にも走らない。
 充はしばし考え込んだあと、両手をたたき合わせて頷く。
「じゃあ、妥協する。結婚しなくていいから、どこか知らないとこに行くとかはナシで、子供産もう。ほら、薫、もういい年だし、この先子供できるかわかんないよ」
 全く妥協できていない上に余計なお世話だ。
 彼がごちゃごちゃ喋っている間に、名案を思いついた。少々勿体を付けて切り出す。
「そうですね……。課題をクリアできたら、結婚も子供も考えてあげてもいいです」
「え、課題? めんどくさい」
「では、結婚も子供もなしです」
「どんなこと?」
「玉木桜に土下座してきてください。そして、番ができたからあなたとは結婚できない、ごめんなさい、と謝ってください。その様子を証拠に残るように動画で残すこと。どうですか。できるでしょう、このくらい」
 もちろん、できないのはわかっている。見栄っ張りで自信家のこの男が土下座なんて。どうせ一時の感情で物を言っているだけなのだから、これで諦めるだろう。薫の方が一枚も二枚も上手なのだ。思い知れ。

 だが、充は薫が思っていたより一枚も二枚も馬鹿だった。
 出て行けと言われなかったので、離れでおとなしくして過ごしていた翌日昼過ぎ。警察から電話がかかってきたと清子が青い顔をしてやって来た。充は玉木桜をソラタリ本社前で待ち伏せし、警察に突き出されたらしい。誠一が迎えに行った。
 帰ってきて事情を聞いた時子は、居間でまたヒステリックに怒鳴り散らした。連日うんざりだ。
「どういうことよ、竹司! あんた充に何てことさせようとしたの!」
「私だって本気でこんな馬鹿げたことをしようとするとは思いませんでしたよ。本当、馬鹿ですね。呆れて物も言えません」
「あんたがやれって言ったんでしょ! 得体の知れないところはあるけど、あなたはもっとまともだと思ってたわ」
「私はまともです。あなたの息子が馬鹿すぎるんです」
「なんですって!」
 金切り声が耳に突き刺さる。耳を押さえて露骨に顔をしかめてやると、時子は大きく息を吸い込む。さて、今度はどんな大声だ。
 しかし、彼女が話し出す前に、充が口を開く。
「ねえ、薫。僕、ちゃんと行ってきたよ。結婚して」
「何言ってるんですか。全然課題をクリアできてないでしょう」
「えー。じゃあ、めんどくさいけど、明日もう一回行ってくる」
 ほら、やっぱり馬鹿だ。薫は間違ったことは言っていない。時子は薫を睨みつけてから、馬鹿息子に向かって叫ぶ。
「もうやめなさい! 竹司、責任持って止めて」
「また警察に捕まりたければ行けばいいんじゃないですか。旦那様ももう迎えに行かなくていいと思います。留置場で今までの人生について反省してください」
「竹司!」
「全部ばれたんです。私にもう怖い物はありません」
「充、若くて可愛らしいお嬢さんをいくらでも見つけてきてあげるから、こんな年増の性悪のあばずれはやめておきなさい」
 年増とあばずれは認めてもいいが、薫は性悪ではない。失礼な。
 一番の当事者であるのに、充はソファで清子の入れた茶を飲んでくつろぎ始めていた。薫もそろそろ座りたい。疲れた。
「えー。だから、もう番になっちゃってるんだってば」
「こんなののどこがいいの!」
「誰と付き合っても、結局薫のとこに戻っちゃうし、発情期エッチして、やっぱり薫が一番相性いいなって改めて実感したんだよね」
 親の前で下ネタ。やはりこの男はおかしい。
 時子は怒りで声も出なくなったらしい。目を見開いて肩で息をしている。ホラー映画に出てきそうだ。このときになってようやく、一家の主人が口を挟んだ。
「充、竹司、私は君たちの結婚には反対しないよ。もう番になった後なのだしね」
「あなた! やめて! 何を言ってるの!」
 時子が噛みつく勢いで抗議するが、誠一は取り合わない。
「あとは君たちで話し合いなさい」
「ありがとう、父さん! 僕たち幸せになります」
 誠一の発言に喜んだのは、この場で充のみだ。薫にとってはいい迷惑だ。充を調子に乗せるのはやめてほしい。
「勝手に決めないでください」
 薫の言葉は当然のように聞き流された。
 誠一を攻撃対象に変えた時子と、それに茶々を入れる充。こうなるともう収拾が付かない。これが修羅場か、と薫は妙に冷静にそれを眺めていた。

 話は決着しないまま、充はその日の夜、出向先のホテルへ戻ることになった。翌日急遽重要な面会が入ったためだ。付いてきてと頼み込まれたが頑として断った。隙を見つけてすぐに戻ってくると言っていたけれども、もう会うつもりはない。翌日には新しいスマートフォンを別キャリアで契約し、電話番号もメールアドレスも変え、これまでのものは解約して処分した。
 時子は案の定、薫が屋敷に居座ることを拒絶した。仕事についても、誠一の秘書に戻るなどもってのほかで、クビか離島送りか選べと騒ぎ立てたので、辞めて暴露本でも出してやると応戦すると、誠一が間に入ってくれた。新幹線の距離の地方都市へ転勤ということで収まった。ここでも総支配人秘書だ。
 従業員のために契約しているマンションがあるので、転勤が決まってすぐそこに引っ越した。実際働き始めてみると、やることは同じようなものだし、今度の上司は誠一のように有能ではないものの、充よりはるかに聞き分けがいいので楽だった。

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