(3)初めてのデート

 憂鬱な発情期が終わり、気晴らしにどこかに遊びに行こうと誘われ、智咲(ちさき)は迷わず水族館がいいと答えた。文紀(ふみのり)との初めてのデートで訪れたのが水族館で、それ以来お決まりのお出かけスポットになっている。
 初めてのデートに誘われたあの頃、毎日全くいいことなんてなかった。暗い沼の底にうずくまり、息を潜めるようにして暮らしていた。——文紀が智咲を再び見つけ出してくれるまで。

 高校の校内で番になった後、「担任教師に襲われかけたオメガが、今度は同級生のアルファに襲われた」という噂は、瞬く間に学校中に広がった。担任に強制発情剤を飲まされた事件があってから、智咲は恐怖で保健室登校がやっとの状態になっており、ますます容赦が無くなった他の生徒たちの好奇の目には、とても耐えきれなかった。そのため、学校をやめて通信制高校に編入した。
 噂話が好きなのは学校の生徒たちだけではない。自宅の近所の主婦たちもだ。
「ほら、嶋野(しまの)さんとこの息子さん、学校で乱暴されたって」
「オメガなんですってね。知らなかったわ」
「学校で発情期になったんでしょう? なら相手のお子さんを責めるのはかわいそう。発情期を管理するのはオメガの義務でしょう」
「そうよねえ。親御さんも何をやっていたのかしら」
「発情期なんて迷惑なもの……、犬猫のようだわ」
 口さがないご近所の目も気になり、智咲はすっかり引きこもりがちになって、滅多に外に出なくなった。両親共働きで日中一人のため、一日人とほとんど会話しないという日も多かった。
 番になったあの日から、文紀には会っていない。お互いの両親が止めたからだ。智咲の両親は、子供が暴行を受け、一生残る傷をつけられた、と激怒していた。文紀の両親は、担任教師も誘惑したオメガに陥れられ、番などというややこしい枷をはめられた、と憤慨しているらしい。自分の両親の話を盗み聞いて知った。
 しかし、智咲は番になったあの時の出来事を思い返しても、それ自体に不思議と恐怖は感じなかった。たしかにお互いが望んで行為を始めたわけではない。発情の熱に流されて止められなかっただけだ。だが、欲が剥き出しの手荒な交わりの中に、ふと素顔の彼を感じる瞬間があったのも事実だ。
 あれから何度も思い出す——、担任教師の起こした事件の後、初めての発情期予定日が近づいてきていたその日、智咲はいつものように保健室に登校してきていた。朝から熱っぽかったので、抑制剤は服用済みだ。飲んだ割には身体が重いので、発情期に関係なく風邪でも引いたのかもしれない。養護教諭は一時的に不在で、戻ってきたら早退の許可をもらおうと思った。
 与えられた課題を黙々とこなしていると、ガラガラと保健室のドアが開く。
「すみませーん」
 入ってきたのは養護教諭ではなく、同学年別クラスの男子生徒だった。
 華やかなグループにいる目立つ生徒だったし、つけている香水、あるいは制汗剤だろうか、とてもいい匂いがしていたので、名前は知っていた。高塚(たかつか)文紀。確かアルファだったはず。
 特に接点は無かったため、一度も話したことはないが、不思議と気になり、そこにいれば視線で追ってしまう、そんな存在だった。憧れと言うと大袈裟だけれど、あんなに明るくて楽しそうな人と仲良くなれたら素敵だなとは思ったことがある。
 彼自身に悪感情があったわけでは決してないが、担任の事件以降、アルファには身構えてしまう。目が合うと、背筋がゾクッとした。
 智咲の内心には気づかず、彼は曇りのない朗らかな笑みを向けてくる。
「あれ、先生はいないの?」
「さあ、すぐ戻ってくるって言ってたけど」
 うつむいてぼそぼそ答える。
 智咲が噂の的になっているオメガだと気づいていないのだろうか。文紀の態度は至って自然だ。
「階段でこけて擦りむいた奴がいて、絆創膏もらえないかなって思ってさ」
「職員室にいるかも」
「勝手にもらってっちゃ駄目かな」
「……わかんない。急ぎじゃないなら、言ってからの方がいいんじゃない」
「そうだね。……あの、嶋野くん、大丈夫? なんかずいぶん調子悪そうだよ」
 嶋野くん、ということは、智咲が誰だか、彼は知っているのだ。知っているにもか関わらず、どうして声をかけてきたんだろう。どうして心配するようなことを言うのだろう。あのオメガに優しくしたら誘惑される、などと言われているようだから、智咲と話したことが知られれば、彼はきっとからかわれるはず。
 動揺を押し隠し、何とか絞り出す。
「え、うん……、休んでれば平気」
 文紀が一歩近づいてくるごとに心臓の音が早くなる。怖い。やはりアルファは怖い。立ち止まって肩に手を置かれたとき、先ほど感じたゾクゾクが十倍になって全身を貫く。
「あ……、あ」
 身体が急激に熱を持ち始める。風邪で熱が上がってきたのか? いや、違う。本能的にわかる。腹の底に熱が集まり、火を焚きつけ、それがまた全身に火の粉を散らす。この感じは——。
 自分で自分を抱きしめて震え始めた智咲を見て、彼は戸惑っているようだった。
「え、なに? やっぱ大丈夫じゃないんじゃ……」
「離れて! ごめん……、だめ」
「……匂い、なに? すごい、甘い……」
「離れて。出てって。お願い。俺をここに閉じ込めて!」
 彼が感じる智咲の匂いは、フェロモンに違いない。アルファに抑えの効かない激しい性衝動を起こさせる、オメガだけが発するフェロモン。
 智咲も彼の匂いを感じる。すれ違ったときに嗅いだものより、はるかに強い匂い。それもどんどん強くなっている。智咲の匂いに影響されているのだ。
「高塚くん……」
 彼から気遣いの表情が消える。獲物を見下ろす支配者のような冷たい目をした男がそこにいた。
 抑制剤を飲んでいたはずなのに発情期が来てしまった。運悪く目の前にアルファがいる。そのアルファも発情状態に入りつつある。自分では対処しきれない問題が一気に起こってパニックになった。
 加えて、発情の波に理性をさらわれ、ベッドに投げ出されるのにも、乗りかかってこられるのにも、千切り取るように制服を脱がされるのにも、一切抵抗できなかった。
 智咲の上で腰を振りながら、ごめん、ごめんと彼は泣いていた。なぜだかひどく胸が痛くなり、智咲は彼の手を握りしめた。
 発情期のオメガのフェロモンに影響されないアルファはいないし、発情期のアルファの性衝動とオメガを噛みたいという欲求は切っても切れないものらしい。だから、番にされたことで文紀を責める気は毛頭無かった。クリニックに駆け込んで処方してもらったアフターピルのおかげで、妊娠もしていない。
 むしろ謝るべきは智咲だ。彼の前で発情期になって、巻き込んでしまった智咲が悪い。
 ごめんと言った彼の声が耳から離れない。もしかしたら、文紀が謝りたいのは智咲ではないのかもしれない。彼には番になりたい誰かがいて、本能に抗えずに、ろくに喋ったこともない相手を番にしようとしていることを、その「誰か」に謝りたかったのかも。
 番関係の特別さは、本で読んで知っていた。それは結婚と同等か、結婚より重いという人もいて、消えない噛み跡を残し、フェロモンの性質を変えるだけではなくて、精神的にも深い繋がりを生むもの。番の席は一つしか無く、一度結んでしまった関係は死ぬまで切れない。
 そんな大切な伴侶をよく知りもしない相手にしてしまったことを、文紀はきっと後悔しているだろう。智咲の顔なんてもう見たくないかもしれない。お互いの両親も会うなと言っている。
 しかし、それで済むものだろうか。番がいることを見て見ぬ振りをして、あの時のことを無かったことにして、残りの長い人生を過ごしていけるものなのか。番関係とはそんなに軽いものなのか。
 一度彼と会って、きっちり話をせねばなるまい。しかし、会うといっても、智咲にはその手段がない。彼の連絡先は知らないし、学校に会いに行くのは怖い。
 もう会えないのだと考えるほど、会わねばという焦燥に駆られた。特に発情期が来て、部屋にこもって一人で耐えているときには、あの時ぶつけられた情欲がどうしようもなく恋しくなってしまい、惨めな思いになるのだった。

 願いが叶わぬまま半年経った。その日、居間のシーリングライトの蛍光灯が切れ、買いに行こうと思い立ったのは全くの偶然だった。家事の他に何か家族の役に立つことをして、引きこもりであることの引け目や居づらさを減らしたかったこと、寒い日が続く中、この日は珍しいぽかぽか陽気だったこと、理由としてはそんなものだ。
 近所の目対策で、ニット帽とマスクを装着して出かける。
 駅前の商店街にある電気屋は最近閉店したらしいので、隣駅の家電量販店まで行かねばならない。片道三十分の高校に通っていたというのに、今は一駅だけでも長い冒険のように思われた。
 駅の階段を上っていると、ふわりと甘い匂いがする。なぜか涙が出そうになるほど懐かしい。
 振り向いたのはほぼ同時だ。階段を下りる途中だったその人——高塚文紀がこちらを凝視していた。
「嶋野くん? 嶋野くんだ!」
「高塚くん……」
「どうしたの? なにそれ、風邪?」
 彼は軽やかに階段を駆け上がってくる。緊張で堅くなりながらも、智咲は首を振る。
「違う。これはその、俺は寒がりで。マスクは顔が冷たくならないから」
「今日、わりとあったかくない?」
「あったかくても、冬は冬だし」
「まあそうだね」
「うん……」
 なぜ彼はこんなところにいるのだろう。ご近所さんだったのか? 通学中に電車で会ったことはないが。そもそも今日は平日で学校のある日ではないのか。
 仲のいいクラスメートとの普段の会話のように彼は問う。
「これからどっか行くの?」
「うん。ちょっと買い物」
「それって急ぎ?」
「急ぎってわけでもないけど」
「じゃあさ、これからデートしない?」
「……デート?」
 智咲にとっては非現実的な単語過ぎて、飲み込むのに時間がかかる。デートとは何のことだろうか。智咲が知っている意味とはおそらく違うだろう。そんなことをする間柄ではない。文紀はとても晴れやかな表情で、意地の悪い雰囲気は微塵も感じなかったから、悪い意味ではない、と思いたい。
「そう、デート。どっか遊びに行きたいとこある?」
「特には……」
「それなら水族館行こ。くらげの森水族館。優待券持ってるんだ」
「ああ、……うん」
 なぜ頷いてしまったのか——、会いたいと思っていた人に会えたこの機会を、逃したくなかったのだと思う。それと、ほんの短い時間だが、彼と接して、悪い人ではないという確信のようなものを持っていたこともある。保健室で智咲の不調に気づいて心配してくれた。智咲の真の性別を知った途端態度を変えた他の生徒たちとは違う。
 文紀は小さくガッツポーズを取る。
「やった! じゃあ行こ。すぐ行こ」
 智咲の背をぽんと叩くと、彼はすたすたと駅の中へ入ってしまう。あの発情期の出来事は夢だったのかと思うほど気さくな態度だった。
 その後すぐ来た電車に乗り込む。最寄り駅へはだいたい四十分くらいある。すいているので席は確保できた。

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