(3)初めてのデート

「正直、あそこに居続けるより、やめた方が良かったと思う。それまでは担任とか養護の先生とか限られた人しか俺の性別を知らなかったのに、事件があってから、オメガだってバレちゃって、皆にいろいろ言われてね。実はお前の方から誘ったんだろとか、オメガだったら襲われても仕方がないとか。それに加えて保健室での件があって、余計に面白おかしく言われるようになっちゃって。恐ろしくて学校には通い続けられなくなった。それじゃ単位足りなくて卒業できない、いっそのこと退学して通信制で頑張る方がいいって思った。そっちの方が良くて選んだだけなんだから、高塚くんが気にすることじゃないんだ。君は優しい人なんだね」
 智咲のことを責めないだけではなくて、身を案じてくれていたなんて。きっと純粋で心が綺麗なのだろう。感動して、胸がじんとして、じっと視線を離せずにいると、彼の方から逸らされた。
「優しくない。全然、優しくない」
「高塚くんは大丈夫なの? 嫌なこと言われたりしてない?」
「俺は大丈夫だよ。嶋野くんに比べれば全然。何か言われても、俺能天気だから気にしないし」
 智咲に比べれば全然、ということは、少しは言われているということだ。今日は「ちょっといろいろ疲れて自主休校」しているらしいが、彼を疲れさせているのはこういったことなのかもしれない。
 自分に関してあること無いこと噂される環境に居続けるつらさは、痛いほどわかる。
「そりゃあいろいろあるよね。逃げないでやめずにいる方がつらいよ、きっと。大変だよね」
「……優しいのは嶋野くんだ」
 ぽつりと呟くようにもらした文紀の頬は、エアコンの風に当たりすぎたのか赤かった。
 彼は二個目のパンに勢いよくかぶりつき、お茶で流し込むようにして飲み込んだ。そして、再びパンを置いて、背筋をただす。まだひどく思い詰めた表情だ。
「次に嶋野くんに会えたら言いたいって考えてたこと、他にもあるんだ」
「なに?」
「もしよければ、だけど、ちゃんと俺と付き合わない?」
「付き合うって……、恋人になるっていう意味の付き合う?」
 違っていたら恥ずかしい、と口にした瞬間に後悔しかけたが、彼は頷く。
「うん。嫌? 駄目?」
「それって番になっちゃったからだよね? 高塚くんはそれでいいの? ほら、彼女とか好きな人とか……。俺と番になったせいで嫌がられた? もしそうなら、ほんとに悪かったと」
「いないよ! 彼女も好きな人も。というか、俺がずっと気になってたのは嶋野くんなんだ。入学式の時に見かけて、可愛いなって」
 何だって彼は智咲がすんなり飲み込めないことばかり言うのだろう。デートとか付き合うとか、可愛い、とか。
 祖父母には今でも可愛い可愛いと言われるが、親は中学生になった頃から言わなくなった。自分で鏡を見たって、そんな風に思ったことはない。ただただ凡庸で特徴のない顔立ちだと思う。
「可愛い? 俺が? ……どこが?」
「ぱっと見で顔。すごく可愛くてドストライクだったんだ。でも、男だし、アタックしに行っても気持ち悪がられるかなって思って、こっそり見てるだけにしたんだ。嶋野くん、いつもすごくいい匂いするし、仕草とか愛くるしいし、全体的にほわほわしてるし、体操服の短パンの時の足、白くて綺麗だし、膝とか肘とかほんのり赤いし……って、そんな不純な目でばかり見てたわけじゃなくて、その……。ああ、こんなこと言うはずじゃなかったのに! 上手くいかない!」
 彼は頭を抱えて立ち上がり、部屋の中をぐるぐる回り出す。一体どうしてしまったのだろう。
 しばらく呆然と眺めていたが、放っておくわけにもいかず、控えめに言う。
「あの、落ち着いて。ね?」
「引いてるよね? ストーカーみたいで気持ち悪いって」
「引いてないよ。引いてないから」
「つまり、言いたいのは、ずっと嶋野くんにときめいてたってことです」
「……う、うん」
 そうは言ったものの、すんなり飲み込めないワードが溜まっていく一方なので、納得できたわけではない。気になっていたとか、こっそり見ていたとか、智咲が彼にしていたことみたいだ。
 文紀は智咲を置いてきぼりにして、早口でまくしたてる。
「それで、好きだなってはっきり自覚したのは去年の今頃のことで、校舎裏の壊れかけのベンチ、あるでしょ? そこで、昼休みに嶋野くん、寒い中じーっと座ってて、スマホ見つめて泣いてたんだ。覚えてる?」
「ああ、それ、多分、飼ってたフェレットが死んだ次の日か何かじゃないかな。恥ずかしい……。写真見てたらこみ上げてくるものがあって、教室抜け出したんだと思う」
「そうだったんだね。あの時嶋野くんが泣いてるの見て、泣かなくていいようにしてあげたい、守りたいって思った。それって好きだからなんだってことも自覚した。声かけようと思ったけど、予鈴が鳴って、嶋野くん行っちゃって。結局その後も勇気が出ずに見てるだけ状態が続いたんだ。でも、まあ、今日だって泣かせちゃったんだけど。情けないよね」
 そこで足を止めて、大きく深呼吸をする。
 全てを充分に飲み込めはしなかったものの、彼が真剣な思いを智咲に伝えようとしているのは理解できた。黙って耳を傾ける。
「でさ、わかってるんだ。嶋野くんが俺のこと特別何も思ってないって。でも、もし、俺に引いてるとかすごく嫌とかじゃなかったら、付き合ってみてほしい。番になって良かったって思ってもらえるように、俺頑張るから」
「うん、えっと……」
 頭の中で文紀の発言を整理する。付き合ってほしい、と彼は言っている。付き合うということは恋人になるということだから、つまり恋人になってほしいと言われたわけだ。なぜかというと、番になってしまったから仕方なく、ということではなくて、以前から智咲のことが好きだったから。
 好きだから恋人になりたい、至極単純でわかりやすいことのはずだ。だが、智咲には他人に恋愛感情を寄せられた経験が無く、誰かが自分を好きになるというのは、現実として受け止めづらかった。真剣な相手に嘘をつくのは不誠実なので、そのままを伝えるしかない。
「いまいちよくわかんなくて……。付き合うとか好きだとか」
「いっぱい遊びに行って、いっぱい喋って、仲良くなろう。まずはそこからだよ!」
「でも、頻繁に遊びに行けるほどお金ないんだ」
「じゃあ、ここは? 兄ちゃん土日も家空けること多いから、ここで会うんだ。ここなら学校のやつらには会わないし、お金もかかんないし、ちょうどいいじゃん。そうだ、そうしよう!」
「勝手に決めていいの? お兄さんに聞いてみないと」
「多分大丈夫。兄ちゃん、俺のこと応援してくれてるから。親はもう嶋野くんに会うなって言ってて、いっつもケンカになるんだけど、兄ちゃんは毎回俺のこと庇ってくれるんだ。相談にも乗ってくれるし」
「良いお兄さんなんだ」
「そうだね」
 話が逸れかけている。文紀はカーペットの上に座り直すと、智咲と正面から目を合わせた。透明で、力強くて、どこか熱っぽくて、胸が高鳴る。文紀のがうつったのか、頬が紅潮してくる。
「で、返事は?」
 無論、付き合うかどうかの返事だろう。恋人になって、いっぱい遊びに行って、いっぱい喋って、仲良くなる。それを受け入れるかどうかだ。
 今日の「デート」は楽しかった。取るに足らない会話をたくさん交わす中で、日々降り積もっていく鬱屈とした思いが、きれいさっぱり消えて、隙間だらけの心が満たされていくようだった。それがこれからも「いっぱい」あるのだとしたら、とても素晴らしいことだ。
 引いているとかすごく嫌とかでなければ、付き合ってみてほしい、と彼は言った。どちらも当てはまらないから、返事はこれでいいだろう。
「……うん。俺、上手くできないかもしれないけど、それでもいいなら」
「本当に? やったー! 今日はとてもいい日だ! あ、そうだ。忘れないうちにアドレス教えて。いつでも連絡取れるように」
「うん」
 お互いにスマホを取り出し、連絡先を教え合った。
 話が一段落したので、昼食の残りを平らげてしまうことにした。文紀は冷めて伸びきったカップ麺を、不味そうにしながらも食べきっていた。
 テレビを見ながら、昼下がりのひとときをまったりと過ごす。視線を感じて彼の方へ目をやると、彼はびくっとして俯いた。また頬が赤い。
「どうしたの?」
「あのさ、嶋野くん」
「はい」
「一つお願いがあって……」
「なに?」
「いや、まだ早いかなあ。引いちゃうかな。どうしよう」
 もじもじして足を抱えている。よほど言いづらい「お願い」らしい。これからお世話になるであろう人なので、智咲に出来ることはしたい。首を傾げて促す。
「気になる。なに?」
「あの……、首筋のとこ見せてほしいんだ。噛み跡残ってるやつ。駄目かな」
「いいよ、別にそれくらいなら」
 もっと深刻な話なのかと思ったら、存外簡単な内容だった。注目されるのが嫌なので、家の外では隠すようにしているが、文紀は当事者であるため、当然これが付いた経緯を知っている。見られて困るものではない。
 シャツのボタンを外し、がばっと襟を広げる。首筋にはっきり残る傷跡を、彼は身を乗り出してまじまじと見つめる。
「本当についてる。これ、痛くない?」
「初めはお風呂の時しみたりしたけど、今は全然、何ともない」
「触ってみてもいい? ちょっと撫でるだけ」
「まあ、うん、どうぞ」
 彼はこちらににじり寄ってきて、膝立ちになり、指先でそっと跡をなぞる。なんともこそばゆい。
 物理的距離が近づいて、彼の匂いをより強く感じる。頭がくらくらするほど甘い匂い。
 こんなに近くで嗅いだのは、保健室で発情期になったあの日以来——。濃密な交接の記憶が、感覚ごと明瞭に思い出されて、うっとりとため息をつく。また、あんな風に出来たら。そんなはしたない考えが浮かんでしまう。
「高塚くんの匂い、お腹がもやもやしてくる……」
「もやもやっていうかむらむらじゃない? 番同士ってね、うつるんだって、むらむら。嶋野くんの匂い、強くなってる」
 彼は顔を寄せ、首筋をくんくんと嗅ぐ。鋭敏な肌に鼻息がかかり、さざ波のような震えが広がる。
「それ、熱い……」
「ほんとにいい匂いだね。ずっと嗅いでたい」
 文紀の匂いもますます強くなっている。ということは、「むらむら」が強くなっているということか。有り体に言うと性的に興奮しているということだ。ちらりと彼のズボンの前に目をやると、ただそれだけで推測が当たっていることが確認できてしまった。男は実にわかりやすい。
 そうか。「好き」というのはこういうことも含めてのことなのか。デートをしたり、喋ったりして仲良なりたい、というだけではなく、生々しい性の欲求や本能に結びついているものなのだ。
 彼は今もしかして、智咲を裸にして、発情期にしたようなことをしたいと思っているのか? そういう欲を向けられるのが嫌かと言えば、全く嫌悪感は湧かない。
 番だから? 智咲もこの人のことが「好き」だから? 即答はしづらいけれど、智咲の中でも一つの欲が生まれた。——触ってみたい。彼の股ぐらに手を伸ばし、そっと撫で上げる。
「うわっ」
 彼はびくっとして背後に傾き、尻餅をつく。過剰反応で面白い。しきりに瞬きして、こちらを見返している。
「なに、なになに、どうしたの?」
「だってすごく元気になってるから」
 ズボンの前を指してやると、彼はさっと足を閉じる。
「え? あ、これは、その……。嶋野くんの匂い久しぶりで……。ごめん」

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