(3)初めてのデート

 発車してしばらく、特に会話も無く時間が過ぎた。そのうちだんだん冷静になってくる。なぜ彼はあそこにいた? なぜ学校にいない? なぜ智咲を遊びに誘った? なぜ水族館? なぜ何事もなかったような態度なのか? なぜ——。
 沈黙が苦痛で、一番聞きやすい質問を口にする。
「高塚くん、学校は? 今日平日だよね?」
 意図せず責めるような口調になってしまうが、彼は気にしていないようだ。
「ちょっといろいろ疲れてさ。自主休校。最近土日にしか行ってなかったから、平日なら会えるかなーって思って来てみた」
「……ん?」
 土日にしか「どこに」行っていなくて、平日なら「誰と」会えるかなと思ったのだろう。首をひねる智咲に、彼は説明を付け足す。
「嶋野くんちに直接行ったことあるんだけどさ。お父さんお母さんに追い返されちゃって。近所うろうろしてたらばったり会えるかもって思って、よくあの辺歩き回ってたんだよね。夏休みには平日も土日も関係なく行けたんだけど、学校あるときは土日しか無理でさあ。久しぶりに平日行ったたら、ビンゴ。やっと会えた」
 驚いたことに、彼はこの再会を望んでいたらしい。やっと会えたというくらいだから、切実に望んでいたとも取れる。眩しいくらいの満面の笑みで、智咲を見つめている。智咲は彼を発情期という面倒事に巻き込んだ張本人だというのに、おかしなことだ。
 智咲と番になったことで苦悩しているところは想像していたが、これは予想外すぎる。頭が混乱する。
「あの、高塚くん……」
「引いた? 自分でもわかってるよ。ストーカーみたいだって」
「引いてなんかないけど。なんで? 俺だって会って話し合わないとって思ってたけど、なんでそこまで……」
「嶋野くんと会いたかったから。このまま終わりって絶対嫌だったから。てか、終わりになんてできないよね。だってもう俺たち、繋がってるもん」
 繋がっている。番という名の鎖で。文紀にとってそれは不本意で、容易に受け入れられないことのはずで、こんなあっけらかんと話すのはおかしいのだ。
 全く親しくもない、華も才気もない地味な相手と番になって、それを受け入れられるとでもいうのか。隠れてこっそり見つめていたことのある智咲とでは、話が違うだろう。
 智咲が押し黙っているのをどう解釈したのか、彼は見当違いの言い訳を始める。
「いや、その、カラダ的な意味じゃなくて、目に見えない繋がり的なね? ああ、もう何言ってんだろ」
「……全然違う」
「え、何が?」
「想像と違う。高塚くん、もう俺の顔なんか見たくないだろうって思ってて……。きっと後悔しているだろうって。でも、このまま会わないでいるわけにはいかないだろうし、どうしたらいいんだろうってずっと苦しくて」
 押し殺す間もなく涙がぼろぼろ溢れてくる。そうだ。ずっと智咲は泣きたかったのだ。でも、泣けなかった。智咲のせいで巻き込まれた文紀の方が、きっとつらいだろうから。でも、彼はそんな素振りなど全く見せず、智咲と普通に接してくれた。会いたかったなんて、夢のようなことを言ってくれた。
「後悔なんかしてないよ! してないから……。どうしよう」
 文紀を困惑させてしまうことも、他の乗客の注目集めてしまうこともわかってはいたが、涙が止まらない。苦しくてマスクを外す。泣いて体温が上がったせいで暑く、ニット帽も取る。
 目的の駅に着いても、まだ智咲はべそべそと鼻をすすっていた。文紀が貸してくれたタオルからは、彼の匂いがほんのりして、なぜだか少し心が落ち着いた。
「嶋野くん、着いたよ」
「……うん」
「とりあえず降りよ」
「うん」
 両腕を持って立たされ、手を引かれて降りる。電車が行ってしまってから、彼は智咲の手を放した。
「どうする? 今日は帰る?」
「ううん。行く」
「そう。じゃあ、ゆっくり行こ」
「うん」
 話さねばならないことを全く話せていなかったし、ただ単純にまだ別れたくなかった。自分に悪意も敵意もないと思える人間に出会うのは、とても久しぶりのことだった。水族館へと歩いているうち、涙は完全に引っ込んだ。

 ——くらげの森水族館。色とりどりにライトアップされたクラゲの水槽の展示が人気らしい。小規模ながら見応えはあった。
 平日で少ない入館者は皆人気展示に流れ、ペンギン水槽の前は独占状態だ。スマホのカメラでは追い切れないスピードで泳ぐペンギンたちを、並んで眺める。
 いい年をして人前で大泣きするという醜態を晒したせいか、緊張が消え、変に構えることなく隣に立つことが出来た。
 文紀は写真撮影を諦め、スマホをポケットにしまう。
「これはジェンツーペンギンだけど、嶋野くんはコウテイペンギンって生で見たことある?」
「ううん」
「すごくでかくてびっくりするよ。写真で見たら可愛いけど、あれだけでかかったら縫いぐるみ感全然無くて、めっちゃ強そうなの」
「へえ。コツメカワウソもそうだったよ。小学生の時、旅行で行った先で見たんだ。フェレットサイズを想像してたら全然違った。可愛いけど、家では絶対飼えない」
「飼いたかったの?」
「フェレット飼ってたから、同じようなものかなって思ってたんだ。似てるし。でも、無理だってわかってショックだった」
「フェレット可愛いよね。友達も飼ってた」
「うん。根気強く教えてたらお手とかも覚えるんだよ。高塚くんちは何かいる?」
「うちは犬。柴がいる。豆じゃない方ね」
「あ、うん、そんな感じ」
「そんな感じって?」
「そのまま。犬飼ってそうって感じ」
「よくわかんないけど、悪口じゃなさそうだからいいや」
 他愛ない話をたくさんした。口数少なく過ごした日々が嘘のように、言葉がどんどん溢れてくる。素直に楽しかった。それまでどんよりかかっていた雲が、ぱーっと晴れていく。
 文紀も楽しそうに見えた。よく喋ったし、よく笑っていた。番になってしまったから、仕方なく仲良くしようとしているのかも、とも考えたが、彼はとても自然体で、そういう風にはとても思えない。智咲に会いたかったという言葉を信じてもいいのだろうか。そうだったらどんなに素敵だろうと思った。
 一通り見終わって、トイレに行く。戻ると、文紀は誰かに電話をかけているところだった。すぐに終わったようで、彼はこちらを振り返る。
「お腹すいてない? どっか食べに行く?」
「俺、今日はあんまりお金持ってきてなくて。帰りの電車代もいるし、ちょっと厳しいかな」
「そんなの、俺が誘ったんだし、俺が出すよ」
「いいよ、そんなの。悪いよ。コンビニでパン買って、その辺で食べるくらいなら大丈夫だけど」
 このままお別れなんて惜しくて、提案を付け足す。連絡先も聞き出したい。また会うための手段がほしいから。自分からこんな積極的なことを思ったのは初めてだ。
 祈るように彼を窺うと、彼は別の提案をしてきた。
「じゃあ……、俺の兄ちゃんち行かない?」
「お兄さん?」
「今年から家出て一人暮らししてるんだ。平日の昼間は仕事でいない。さっき電話したら、部屋使っていいって」
「……」
 友達の家に行くのもそう経験が無いのに、兄の家なんて初めてだ。一気に親しくなったようで、胸がどきどきする。
 また何を勘違いしたのか、文紀は慌てて両手を左右に振る。
「いや、違うよ! 変な目的じゃなくて、今後のこと、ちゃんと話した方がいいって思うんだ。でも、外じゃ話しにくい内容だろ? だから……」
「いいよ。俺もちゃんと話さなきゃって思ってた」
「そっか。よかった。俺、大丈夫だよ。普段は紳士だから。大丈夫……、多分。ああ、いや、絶対!」
「うん」
 最後に土産物コーナーを冷やかし程度にのぞいて、水族館を後にした。

 水族館と智咲の自宅の中間あたりの駅で下車する。駅前のコンビニでパンと飲み物を買って、歩くこと十分。表通りから外れた静かな住宅街に、そのマンションはあった。
 合鍵を使って入る。1LDKで、文紀によると、不動産屋に知り合いがいて、一人暮らしにしては広めのところが借りられたらしい。真新しくはないが、よく整理整頓されていて、綺麗な部屋だった。
 エアコンを付けてから、彼はボディバッグをカーペットの上に投げ出すと、居間のテーブルにコンビニの袋を置く。
「兄ちゃんちにはよく来ててさあ」
「仲良いんだね」
「まあ、良い方かな。年離れてるし、あんまケンカとかはないよ」
「俺、一人っ子だからうらやましいな、お兄ちゃんって」
 自宅を弟のために使わせてくれるなんて、きっと弟思いで優しいのだろう。智咲も家庭内にそういう人がいれば、居づらさも変わったのではないかと思う。
 洗面所を借りて手を洗ってから、居間のカーペットに座り、昼食を取りはじめる。文紀が焼きそばパンとコロッケパン、智咲がウィンナードッグと卵サンドで、どちらも惣菜パンばかり。これでは足りないだろうと言って、文紀は兄の買い置きのカップ麺を勝手に開けて作っていた。智咲も勧められたが、さすがに遠慮した。
 左手にパン、右手に箸を持って、文紀はもりもり平らげていく。パン一個とカップ麺半分を食べ終わったとき、彼は箸を置き、急に神妙な面持ちになった。
「俺さ、嶋野くんに謝りたくて」
 それだけで彼の言わんとしていることを察し、智咲は先回りして答える。
「あの時も言ってたよね。ごめんって。でも、謝ることない。元はといえば俺が」
「それもだよ。あの時全然優しくできなかったし、歯止め利かなくて噛んじゃったし、それも謝りたい。ごめん」
「だからね、あれは」
「自分が発情期になったのがいけなかった、って言いたいんだろ? でも、事情があったんだって、養護の先生から聞いた。あのクズ担任の事件の後遺症で、抑制剤が効きづらい体質になっちゃったんだって」
「……うん」
 わかってくれていたのだ。だから、邪険な態度を取らずにいてくれたのだろうか。安心して肩が軽くなった気がする。
 ペットボトルのお茶を握りしめながら、文紀は続ける。
「謝りたいのはその後のこともなんだ。このことは二人の問題なのに、嶋野くん一人が抱えて学校やめなきゃいけなくなっちゃって、悪かったって思ってる。今日みたいな平日に休みってことは、やめてから高校行ってないんだよね? それとも俺みたいにサボり?」
「今はほとんど家にいるけど、通信制高校だからだよ。普通の高校と同じ年で卒業できる予定。勉強はちゃんと真面目にやってるよ」
「そっか……」

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