(番外編1)片隅のグラジオラス

 アデュタイン王国王都、王宮のほど近く。旧王弟邸のあった広大な土地に建てられたスーイ王子邸は、主人が帰り着き、ほぼ全ての使用人たちも仕事を終え、夜の休息の時間に入っていた。
 邸で働くカロ・トルルは、飲みに出かけた同僚たちを窓から見送ったあと、使用人棟の自室をこっそり抜け出す。残っている同僚たちに気づかれぬよう、細心の注意を払いながら、本館へと急ぐ。
 目指すのは、本館の中で最も重要な部屋、ご主人様の私室。十二日ぶりにあの人に会える。カロの足取りは軽く、笑みをこぼすのを止められない。
 だが、いくら心逸っても、無事に辿り着くまで決して気は抜けない。数多い使用人たちのトップに立つ家令が、この時間よく本館内の見回りをしているのだ。
 通い慣れたその部屋の、美しく磨かれたドアの前。再度周囲を確認してから、小さくノックする。わずか二、三秒後、中からドアが開いた。
「よく来たな。入れ」
 現れたのはカロの愛しい人。導かれて入室し、後ろ手でしっかりとドアを閉める。これでもう他人の目を気にしなくてもよくなる。
「スーイ様!」
 体当たりの勢いで抱きつくカロを、彼は大きな身体でしっかり受け止めてくれた。
「……ただいま、カロ」
「お帰りなさい」
 実在を確かめるように、きつく抱きしめる。
 スーイは、父の代理として出向いた、泊まりがけの公務から今日戻ったばかり。その前にはカロの発情期があったため、いつもより長く会えなかった。
 発情期中は毎回スーイの別邸で過ごさせてもらっている。前のご主人様であるヒノワの夫、薬剤調合師のサヤから、発情抑制剤を送ってもらい、毎回きっちり服用してはいるのだが、邸にはスーイの他にもアルファがいる。万が一のことがあってはいけない。
 久しぶりに直接感じるスーイの匂いは、とても芳しく、まるで彼自身の心のように穏やかで優しい。頭上から振ってくる彼の声も、いたわりに満ちて温かだ。
「発情期は何事もなく過ごせたのか」
「はい」
「一緒にいてやれればいいんだが、すまないな」
「いいえ。お仕事がお忙しいのはわかっています。僕ももうそんな我が儘は言いません。スーイ様の匂いのする物をたくさんお借りしていきましたので、それを慰めにしておりました。いい匂いに包まれて、まるでスーイ様が側にいらっしゃるようでしたよ」
「そうか、それはよかった」
 首筋に添えられた手に促されて顔を上げ、キスを受ける。胸の内側がほかほかする。ああ、こんなにも自分はこの人が好きだ。
 共に過ごせる、この限られた時間を有効に使おう。話したいことがたくさんあるのだ。一秒だって無駄にしたくない。
「あのね、ヒノワ様からいただいたお手紙を持ってきたんです」
「ああ、見せてもらうよ。こちらにおいで」
 手を取って連れられ、ソファへ並んで座る。
 距離など空けず、ぴったりとくっつきに行くのはいつものこと。懐から取り出した手紙を渡し、肩と腕にもたれかかる。
「ラナちゃん、とっても元気で、背も大分伸びたそうです。お腹の赤ちゃんも順調だそうで」
「そうだった。二人目を授かったと言っていたな」
「産まれたら、またお祝いを持ってドンディナに行きましょうよ。久しぶりに会いたいです」
「いい考えだ」
 こめかみへの口づけに浮かれて、彼の腕に腕を回し、戯れついて甘える。
 こういう二人の時間はとても貴重だ。なるだけたくさん喋りたいし、できる限り触れ合っていたい。
 二人の関係を知るのは、邸には母くらいしかいない。同僚たちには内緒の関係を、この邸で働き始めてから三年ほど続けている。大切に大切に温め続けた関係。
 共に時を過ごすにつけ、尊敬の思いは増していくし、恋い慕う気持ちは募っていく。カロの世界は、今やスーイを中心に回っていると言っても過言ではなかった。
 彼と一緒に、便箋の美しい水茎を目で辿っていく。
「この前、ヒノワ様への手紙と共に、例のあの本を送ったでしょう。あれ、読んでくださったって。大分脚色されていて恥ずかしいと。ほら、ここに」
 該当箇所を指差す。
「確かにあれの脚色はひどいな。だが、いい話だろう」
 二年前のことだ。とある作家の手によって、異国に嫁いだアデュタインの王子を題材に、長い物語が創作された。その小説が一部の人々の間でたいそう評判となり、あれよあれよという間に国中に広まって、多くの国民が読むところとなった。
 結婚当初は、国を捨てたようにも見えるヒノワの行動を、自分勝手だと非難する者も少なからずいたが、それのおかげで人々はヒノワに概ね好意的になった。
 彼らを追い詰めた隣国の執政の馬鹿息子が登場しなかったり、その代わり架空の人物が三人も恋のライバルとして活躍したり、謎の怪盗とそれを追う探偵が出てきたり、現実との違いは多々あるものの、物語としては面白く仕立てられていた。
「そう、とてもいいお話です。僕も夢中になっちゃいました。あれからヒノワ様の悪口を言う人がいなくなって、あの作者の方にはとても感謝しています。『愛しき秘密』さん……、変わったペンネームだけが表に出ていて、本名も性別もわからない。正体不明なんでしたっけ。だから余計に小説が話題になったというのもあるんでしょうね」
「そうだろうな」
「気になるなあ。誰なんだろう」
「わからない方が楽しいということも世の中には多いぞ」
「それもそうですね。正体がわかってしまえば、あれこれ想像を膨らませることができなくなりますから。僕もまた読み返してみようかな。ああ、そうだ、それからね、話は変わりますけど、お庭の巣箱のことで……」
 話は弾み、途切れることはなかった。
 そして、夜も更け、終業後に出かけていった使用人たちの門限も疾うに過ぎたころ。スーイはカロの肩をたたく。
「カロ、もうそろそろ」
「……部屋に戻らなきゃ駄目ですか?」
 どちらにも明日仕事がある。いつまでもこうして会話に花を咲かせているわけにはいかない。眠るべき時間は来る。
 眠るなら、カロは使用人棟の自室ではなく、彼の側で眠りたい。できるだけ長く一緒にいたいから。
 恋仲の相手の部屋に泊まるのはどういうことなのか、この年になればさすがにカロもわかっている。ずっと前から覚悟もできていた。
 手を握っておねだりしてみるが、いつもと同じで、彼は首を振る。
「駄目だよ。泊まらせられない。そう決めただろう」
「でも、もう僕成人したんですよ。大人ですよ。なのに、まだキスしか……」
「焦らなくてもいいだろう。周りのことをちゃんとして、結婚の準備が整ってからでも遅くない」
「それっていつ?」
「そう長く待たせるつもりはないよ。なあ、カロ」
 駄々っ子を宥めるように、スーイはカロの頭を撫でる。彼を困らせることは本意ではない。結局、いつも引き下がるしかなくなるのだが、少しだけ粘ってみる。
「……じゃあ、もう一回キスしてくれたら戻ります」
「ああ」
 唇がわずかに触れ合う。それだけ。こんなのじゃ足りない。
「もっと」
「カロ」
「うー、もう、わかりました!」
 名残惜しさを断ち切るように、すっくと立ち上がる。
「おやすみ、カロ」
「おやすみなさい!」
 どうもまだ子供扱いされている気がする。成人の年になりさえすれば、一人前として見てもらえると思っていたのに。
 彼に認めてもらえる大人になりたい。そのために何をすべきか、というのが、今一番頭を悩ませている問題だった。
 
 
 翌日も朝から仕事に精を出す。この小さな作業の一つ一つがスーイの生活を支えているのだと思うと、毎日仕事が楽しい。
 本日午前中の割り当ては、本館一階外の窓拭き、その次は庭園の掃き掃除。だいたい二人一組で作業に当たり、この日の相棒はテオ。邸に来たばかりのとき色々教えてくれた年の近い先輩だ。
 テオは箒を手に作業はきっちり進めつつ、同時に口も動かす。
「なあ、今日仕事終わったら飲みに行こうぜ」
「いや、今日は……」
「なんだよ。またお勉強かよ」
「まあね」
「まったくお前はつれないね。散々誘ってやってるのにさあ」
 こちらだって何度も断って悪いとは思っているが、カロには他にすべき重要な用があるのである。
 福利厚生の一環として、邸の使用人は、希望すれば就労時間外に学校に通わせてもらえる。学費は雇用者持ちだ。使用人をやめても仕事に困らないように、という素晴らしい心遣いである。まさにご主人様の鑑。
 カロは多くて月の三分の一くらい、一日三時間程度、聴講生として大学の夜間講義に顔を出している。今日は講義に出席する予定はないが、復習で忙しいのだ。何とかかんとかついていっているという状態のため、全く手は抜けない。
 スーイに認めてもらえるような、素敵な大人になるための計画の一つで、手堅く教養を身につけることから頑張っている。隙間時間で、お茶の入れ方を極めたり、苦手な針仕事の練習をしたりもしている。
 あとは、いざという時スーイの盾となるための武術も、邸の警備係から教わりたいのだが、先生を引き受けてくれる人がおらず、残念ながらこちらは実行できていない。
 愛しい人のため、今できることを精いっぱい、一つずつ。ひたむきに何かに打ち込むことで、子供扱いされることへの不満も不安も、少しは紛れる。
 カロが勉学に励む理由を、当然のことながらテオは知らない。遊びに誘ってくるのは、単に彼の面倒見の良さからだ。
「遊べる体力のあるうちに存分に遊んどかないとさあ」
「脳が若いうちにいっぱい勉強しとかないとね」
「へえへえ。まあ頑張れよ。けど、あんまり根つめ過ぎるんじゃないぞ。お前は仕事も頑張ってんだから。先輩は心配なんですよー」
「ありがと、先輩」
「はいはい」
 掃き集めた落ち葉などの塵を、力を合わせ、ちり取り代わりの箱に入れていく。
 先輩への感謝の気持ちは本物だ。この邸には、主人に感化されてか、いい人が多い。カロがヒノワ邸の他の使用人たちと共にここへやって来たときも、皆親切に面倒を見てくれた。
 しかし、使用人同士の仲の良さゆえか、カロにとっては困った一面もある。
 テオは少し声のトーンを落とし、ニヤニヤする。
「それより、聞いた? あの話」
「ん、何のこと」
「うちの殿下、ついに結婚かもって」
「……また? 何度目だよ、それ」
 ここの使用人は、ほとんど皆お喋りと噂話が大好きだ。ターゲットになりがちなのは、何かと話題の多いご主人様のこと。
 本人が募集していなくても、地位も人望もあるスーイには、我こそが妃にと名乗りを上げる相手が次から次へと現れる。適齢期を過ぎても独り身でいる次男を案じて、母である第一王妃がしょっちゅう見合いを勧めてくるとも聞く。
 スーイは全部断ってくれているのだから、いちいち気を病むことではないのだが、押し込めている不安が顔を出してくるから聞きたくない。
「今度こそ本当っぽいぞ。ジェフが言うには……」
 喋りたくて仕方がないという様子のテオの話を遮るように、そっぽを向く。
「いい、いい。噂話は好きじゃない」
「ノリ悪いなあ」
 悪くて結構。こんなとき、ご主人様の真の相手が誰なのか、はっきり言ってやれたら気持ちがいいだろうにと思う。自分の勝手で明かしたりは絶対にしないけれど。
 
 
 庭園の掃除は予定より早く終了。後片づけはテオに任せ、次の作業のため、カロは先に移動する。
 本館一階の廊下をとぼとぼと歩きながら、つぶやく。
「今度の噂の相手ってどんな人なんだろ……」
 やはり気にはなる。きっと貴人のご息女。あるいは他国の王女様? あの方が目移りしてしまうくらい綺麗な人だったらどうしよう。あの方と対等に話ができるくらい賢い人だったらどうしよう。
「あー、だめ、だめ!」
 悩んでもどうにもならないことは悩まないこと。心が健康でいるための秘訣。そう自分に言い聞かせる。
 カロは起きている時間のほとんどをスーイのために使い、彼を思って日々を生きている。だから、彼に関するどんな些細なことでも、毎回大きく影響を受けてしまう。どっしり大きく構えていられる度量を持ちたい。
 雑念を追い出そうと、経済学の教科書の内容を暗唱しながら歩いていると、母のマリが前方からやって来るのが見えた。
「カロ」
「ああ、母さん。庭の方は終わったから、これから調理場の手伝いに行くよ」
「そう、手が足りなそうだったから助かるわ。それで……」
 周囲に人気がないのを確認し、彼女はカロに紙切れを握らせる。
「あの方からよ」
「え、ほんと? わあ、なんだろう」
 あの方、というのが誰を指すかなんて聞かなくてもわかる。わざわざ名前を伏せなければならない人など一人しかいない。
 きっと秘密の手紙だろう。そう考えるだけで、一気に気分が晴れる。こんなふうに、カロの喜怒哀楽はスーイによっていとも容易く変動する。

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