(番外編1)片隅のグラジオラス

「ええ。私の遠い親戚に、裕福な商人のお家があってね。ちょうど空きがあって、私たち二人を雇い入れてもいいと仰っているの」
「辞める……、辞めるって……」
「もっと早くにそうするべきだったのかもしれないわね。雇い入れていただいたご恩があるから、せめて五年はお仕えしたかったけれど、きっと潮時なんだわ」
「スーイ様と離れるなんて、そんなの」
「いつ倒れるかわからない今みたいな状態が頻繁に起これば、どうせのこと長くは勤められないでしょうね。よくよく考えなさい」
 いくら考えたって、母の納得するような答えは出せないだろう。立場を弁えて彼と接し、いずれは他人に彼を譲り渡すことも、一切の関係を絶って彼と離れることも、カロにはどうしたってできないのだから。
 
 
 母の部屋を出たカロの足は、自分の一番求める場所に向かって動いた。
 スーイを想って足掻くカロを、母は否定した。それも息子を思ってのことだと頭では理解しているが、最も味方でいてほしいときに味方でいてくれなかったことが、のしかかっている悲しみの重さを増幅させた。
 どうにか助けてほしくて、スーイの私室に忍び込む。当然本人は不在だが、その空間に満たされた大好きな匂いが、カロを包み込んで癒してくれるように感じる。ソファに座って目を閉じる。
 一瞬眠気を感じたが、スーイほど誠実な人が自分を裏切るはずはないという思いと、スーイに相応しくない自分は伴侶には選ばれないのではないかという思いが、脳内をぐるぐる回って、目が冴えてくる。
 また眠れずに明け方になり、ふらふらと自室に戻った。
 そしてまた、始業時間がやってくる。スーイは早朝に帰ってきたと朝礼で聞いた。どうやら入れ違いになったようだ。仕事を放り出して会いに行きたい。噂なんて嘘だって、早く直接聞かせてほしい。
 暴れる私情を無理やり押さえ込み、黙々と業務に集中する。昼を過ぎ、夕方。本日も作業の相棒であるテオは、朝から何度も同じことを言う。
「お前、やっぱおかしいって。一際ひどい顔だぞ。終業まであと少しだし、早めに上がらせてもらえば?」
「大丈夫。動けるから」
「動けるったってさあ」
 休むものかと意地になっているところはある。今日一日きっちり働ききってからスーイのところに行くのだ。最低限の自分の役割も果たせないようでは、「相応しい」からさらに遠ざかってしまう。
「……あれ? なんだろ」
 テオにつられて廊下の先を見る。慌ただしく走ってくる同僚女性が三人。そのうちの一人を、テオは捕まえる。
「なあ、どうしたの」
「アポなしのお客様よ。急いで準備をしなくちゃ!」
「誰?」
「アサナ様!」
 厨房の方へばたばたと駆けていく。
 アサナ——今一番聞きたくない名前だ。客だって? 彼女が? 全身の体温が奪われていくような感覚に襲われ、呆然と立ちつくす。
 テオは足下の工具箱を持ち上げる。
「スーイ様がお帰りになったと聞いて訪ねていらしたのか。お熱いことで」
「……」
「俺たちも、悠長にこんなとこで窓の桟の修理なんかしてる場合じゃないよな。厨房にも応接室にもおそらく誰か行ってるだろうから、とりあえずグレンさんかサーラさんを探して指示をもらおうか」
「……」
「おい、行こうぜ」
 背を押されて歩き出し、言われるままついていく。まるで頭が回らず、行ってはいけない場所に近づいているというのを、認識するのが遅れた。
 長い長い廊下を抜けた先、目の前の吹き抜けの下は玄関ホール。客を迎える場。
「あ、もしかしてあの方かな」
 興味津々という風に、手すりからホールを覗き込むテオ。
 駄目だとわかっているのに見てしまう。お付きを従えた気品ある立ち姿のご令嬢と、彼女を迎えるスーイ。何か言葉を交わした後、スーイは彼女の手を取って——。
 ——嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 耐え難い痛みと連日の睡眠不足のせいで、カロの自制心は容易に吹き飛んだ。身体が勝手に動きだし、二階から階段を駆け下りる。
「え、おい、カロ!」
 テオの呼びかけは耳を素通り。全速力で走っていってスーイの腕を掴み、自分の方へ引き押せる。
 僕のだ。僕のなのに、なんで。なんで他の人の手を取るの。
「……カロ?」
 きょとんとした顔のスーイがこちらを見ている。アサナも目を瞬かせて驚いているようだ。
 後ろの方に、苦虫を噛みつぶしたような表情の家令もいる。その場にいた他の使用人たちからざわめきが起こる。
 血の気が引いていく。カロはとんでもないことをやらかしてしまった。自分のしたことの重大さを自覚し、手が震えた。
「あ、あ……、ごめんなさい、ごめんなさい、失礼しました!」
 この失態を上手く取り繕う余裕など、カロにはない。次の行動として選べるのは、逃げることしかなかった。スーイの腕を放し、猛ダッシュを開始する。とりあえず、誰もいないところへ行かないと。
 走っている間、零れてくる涙に視界を遮られ、度々転びそうになった。
 行き着いたのは、手入れの行き届いた庭園のその片隅。夕暮れ時の日が落ちる最中、茂みの影に隠れ、うずくまって泣く。嗚咽を漏らし、まるきり子供のように。
 どうしよう、あんなことをして。他の使用人にもいっぱい見られてしまった。
 戻って仕事をしないといけないのに、怖い。もうあれを見たくない。あれを——スーイと、スーイに相応しいと皆に認められる、あの女が並んでいるのを。
 彼らが親しいのは明らかだ。王子の邸にアポなしで来るなんて、普通考えられない。彼らはそれができるくらいの関係なのだ。
 玄関から堂々と会いに来られるアサナと、人目を忍んでこそこそ会うことしかできない自分。惨めなほど歴然とした差がある。
 元々不安定になっていた心は、踏みつけられて潰れたみたいになっている。なんて軟弱なんだ。情けない。情けない、情けない、最低だ。
 わんわんとひとしきり泣いたら、涙は引いていったが、動く気にはなれない。
「母さんの言うとおり、もうお邸を出ていった方がいいのかもな……」
「それはまたどうしてだ?」
 予期せぬ返答。びくっとして顔を上げる。薄暗闇の中にスーイの姿があった。
「探したぞ」
「……なんで」
「お前が逃げるから」
 彼はしゃがみ込む。
「こんなに泣いて……」
 近づいてくる手を受け入れることなど到底できず、顔を背ける。あからさまなその反抗を、彼が咎めることはない。
「訳を聞かせてくれるか」
「……僕に言わせるなんてひどい」
「言ってくれないとわからないだろう」
「スーイ様が結婚するって」
「ああ、するよ」
 ——やっぱり……。
 やっぱりそうなのか。またぼろぼろ涙が溢れてくる。否定してくれると、まだ少しは期待していたのに。
「なぜ泣く」
「ひどいです、ひどい……。なら、なぜ僕に特別目をかけて、優しくしたりしたんですか。弁えていなかった僕が悪いんですか? 僕、馬鹿だから、本気で結婚できるって……。僕にはスーイ様しか」
「話が全く見えてこないんだが。私は結婚すると言っているのに、結婚しないことを嘆いているのか?」
「何を言ってるんですか! わけがわからない!」
「怒らないでくれ。本当に理解できないんだ」
「スーイ様がリリガランズにご滞在されている間に、噂は広がっていますよ。エザサ卿のご息女とのご婚約話がまとまったって、皆そう言ってる。スーイ様はお相手のお邸によく出入りされているとか、お母様のお誕生日の会の時にご婚約の発表があるとか……」
「……なんだ、それは」
「僕が聞きたいんですけど!」
「アサナと結婚などしない。だが、彼女の住む邸を訪問していたのは事実だ。そこから憶測が広がったのだろうな」
「……」
「私の留守中にそんなことになっていたとは。もっと気をつけるべきだった。いいか。アサナは私の友人で、とある計画に協力してくれているんだ。今日彼女がここを訪ねてきたのも、その計画の件で用があったからだ」
「……計画? お仕事の関係ですか」
「いや……」
 頬にそっと触れる手は、温かく、慈しみに満ちている。
「詳しく説明する。聞いてほしい。私はまだお前の愛を失いたくないんだ」
「スーイ様……」
「部屋で話そう」
 
 
 部屋まで誰にも会わないということは不可能だったが、スーイは移動中ずっとカロの手を引いていた。
「見られてしまいますよ」
「問題ない」
 秘密の関係だったはずなのに、誰に見られても恥じるものではないと言ってもらえている気がして、また涙が出そうになった。
 彼の私室にあるいつものソファへ、促されて腰掛ける。まだ緊張が解けず、ズボンの膝をぎゅっと握る。
 スーイが努めて和やかに、ゆったりと話そうとしてくれているのは伝わってきた。
「昨日この部屋に泊まっただろう。匂いが残っていた」
「……ごめんなさい」
「なぜ謝る。寂しかったんだろう。構わないよ」
「寂しかったというより、悲しくて、どうにかなっちゃいそうで、助けてほしくて。スーイ様は僕を裏切るようなことをしないって、頭ではわかってるけど、僕はアサナ様と違って何も持ってないから。きっと恩情で……、本気にしちゃいけなくて……、弁えなくちゃ……」
 また涙がにじむ。涙腺が馬鹿になっている。子供っぽいことをしてはならないと、思えば思うほど止められない。
「カロ」
 抱き寄せられるのには抗わなかったが、躊躇いはある。
「……お召し物が汚れてしまいます」
「気にするな」
 甘えてもいいのだろうか。遠慮がちにそっと彼の胸に頭を預ける。匂い、温もり、規則的な心音。カロは今大好きな人の腕の中にいるのだ。手放せるものか。こんなに心地のいい居場所を。
「嫌です、嫌です、他の人と結婚しないで」
「私が伴侶にするのはお前だよ。お前だけだ」
「僕は何も持っていないし、子供だし」
「お前に足りぬものなど何もない。私のためにと日々努力を重ねているのは知っているよ。頑張りすぎで体調が心配になることもあるが、お前の捧げるそのひたむきな愛が、何より私の糧となっているのだ」
「スーイ様……」
「ここに来た当初、お前は確かに幼いところはあった。だが、確かに成長し、大きくなったろう。私はずっと見てきたからわかっている」
 彼の言葉は慰めや恩情から来る優しい嘘ではなく、本心なのだと、こうして目と目を合わせればわかるのに。
 次第に心の強張りがほぐれていく。カロが落ち着きを取り戻したのを見計らい、彼は切り出す。
「そのままでいい。聞いてくれ。アサナのことだ」
「……はい」
「これは内密にしておいてほしいのだが、彼女はヒノワの小説を書いた謎の作家、『愛しき秘密』氏の正体なんだ」
「え……、そうなんですか?」
「ああ。エザサ卿の長男、つまりアサナの兄は、私の学生時代の先輩で、長く交友関係がある。二年半前、彼に招かれて一家と夕食を共にしたとき、アサナは我が弟について興奮気味に話していた。身分を捨て国を渡ったヒノワの愛は本物で、この上なくロマンチックだと」
 後日、アサナから大量の原稿が送られてくる。内容は、ヒノワを題材に彼女が創作したラブストーリー。これを同じ趣味の仲間に見せてもいいか、と問う手紙が同封されていた。
 脚色はひどかったが、ヒノワやその夫を侮辱的に扱った内容は含まれていなかったし、仲間内で楽しむだけということだったため、了承。だが、仲間内だけだったはずが、そのうちの一人がうっかり外に漏らしたために、あれよあれよという間に広まり、いつの間にか国中でブームになっていた。
 さらに予想外のことがあった。ヒノワの行動に否定的だった国民が、小説のおかげで、彼を好意的に受け止めるようになったのだ。
「自分の結婚について考えているとき、この件を思い出し、極めて有効な手段になるのではないかと閃いたんだ。だから、彼女に協力を依頼した。私たちのことも書いてくれと」
 王族と平民との結婚は、特に身内から大きな反発が予想される。人々の心を動かし、民の後押しを受けられるように、言葉の力を借りる、概ねそういうことだという。アサナはこの計画に協力することを、二つ返事で快諾してくれたらしい。
 スーイがエザサ卿の邸を度々訪れていたのは、小説の内容の打ち合わせのため。アサナが今日邸を訪ねてきたのは、実際にカロに会ってインスピレーションを高めるため。
 謎の作家の正体をアサナは秘密にしたがっていたから、これまで計画のことは明かせなかったが、ようやくカロにのみなら正体を明かす許可は下りたそうだ。

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