(番外編1)片隅のグラジオラス

「もちろん、これだけではなく、他にも手は打ってあるよ」
「……そこまで僕たちのことを真剣に思っていてくださっていたんですね。それなのに、僕はいつもすぐ不安になって……。ほんとに自分が嫌になる。申し訳ありません」
「いいんだよ。ただでさえ誰にも言えない関係というのは不安が大きいだろう。負担をかけてすまない。私がややこしい立場でなければ、お前も余計な気苦労なく穏やかな生活ができただろうに」
「お側にいられるのでしたら、どんな苦労も厭いません。お許しいただけるのであれば、ずっとずっと近くでお支えしたいです」
「そうしてほしい」
 いいのだ。ここをずっとカロの居場所にしても。だって、この人がそれを望んでくれているのだから。
「スーイ様……」
 せがんだつもりはなかったが、頬に添えられた掌に引き寄せられ、唇が重なったとき、自分はキスしたかったのだと理解した。
 角度を変え触れ合いは続き、空気を求めて開いた唇から入ってくる舌。カロの舌とぬるりと絡まる。いつもと違いすぎて対処できず、されるがままになっているうち、身体が次第に熱を持つ。
 多分、これはそう、いつもの挨拶みたいなキスではなく、もっと別の——。
「……スーイ様?」
「すまない。思わず」
「いいえ、いいえ、嬉しいです。求めてくださるなら、僕、何だって……」
「そんなことを言って。私を聖人君子だと思うな。ひどいことをされたらどうする」
「スーイ様が僕を想ってしてくださることなら、何だっていいです。お好きになさってください」
 ずっと前から、カロはそうしてほしかった。彼の形の良い指がカロの髪を梳く。
「悪い子だ」
「身も心もスーイ様のものになりたいと望むのは、いけないことですか。お願いです。証が欲しいのです。そうしたら、もう些細な噂などに惑わされることもなくなる気がするのです」
「なぜかな。今日は断る理由を探したくない」
「望みが同じなら……」
「……何でも、などと言わずに、嫌だったらすぐに言わないと駄目だ」
「はい……」
「引っかいたって噛みついたっていい。嫌なら逃げると約束できるか」
「はい。だから、スーイ様……」
「私の愛は確かにお前のものだよ」
「僕の愛もスーイ様に捧げます」
 いっそ手放したくても手放せないほど、溶け合ってしまえればいいのに。

************

 翌朝、スーイはいつもの時間に目を覚ました。傍らのカロはまだすやすや夢の中。安心しきった顔で眠っている。
 こんな朝を迎える日が来るとは、と妙な感慨がある。昨夜はああなるのが最も自然で、当然のことのように思えた。
 ひたむきな愛情に報いねばなるまい。額にキスをしてから、ベッドを降りる。
 起きて慌てることがないよう、ベッド脇のテーブルにメモを残しておく。『今日は一日ゆっくり休むように。私から伝えておく。』
 もうあんなにひどく悲しませることも泣かせることもあってはならない。スーイはスーイのなすべきことをする。そのために、簡単に朝の支度をした後すぐ、書斎にマリ・トルル、そして家令のグレンを呼んだ。
 このグレンの母は、スーイの母である第一王妃の使用人をしていた女性で、三歳年上のグレンのことは幼い頃から知っていた。この邸を構えるときに連れてきて、使用人の長たる役目を任せた。
 デスクの前に並んだ彼らに、スーイは告げる。
「朝の忙しいときにすまない。お前たちに伝えておきたいことがあるんだ」
 主人からの突然の呼び出しに、マリの方は少々困惑しているようであったが、付き合いの長いグレンは慣れたもので、常と変わらぬ様子だった。
「一体どうなさいました、殿下」
「さすがは察しがいい。お前がわざとがましく私を殿下と言うのは、殿下と呼ばれる自覚を持ってくださいという意味だ」
「あなたは今私を困らせる時の顔をしていらっしゃいます」
「そうだ。よろしく頼む」
 グレンの溜息が聞こえてきたが、これは一種の彼の癖のようなものなので、気にせず流す。
 さっそく本題に入る。
「カロとのことを打ち明けようと思う。まずは邸の皆に」
「え……」
 マリはスーイを凝視し、その後グレンを見た。彼女に向かって頷く。
「グレンは知っているよ。君たちがここで勤め出す前に全て話してある。信用のおける男だからな」
「おだてても小言は減りませんよ、殿下」
 嫌味も彼の癖なので、これも流していい。
「今回の件で、私たちのことを秘密にしておくのは限界だと感じたよ。まず邸の皆に話せば、自然と外に広まるだろう」
「わざわざ自ら広めるようなことを?」
「公然の事実にしてしまえば、憶測から来る突拍子もない噂は減るだろう。もっと早くこうすべきだったんだ。お前がうるさいから」
「慎重になさってくださいと申し上げただけです。邸内の混乱は私が何とかいたしますが、しかし、お身内からは猛烈な反対があるはずですよ。お考えはあるのですか」
「もちろん。そのためにアサナに協力してもらっているんだ」
「アサナ様……。ご学友の妹君ですよね、例の」
「ああ。彼女の伝手で、とある人気作家に頼んで、私たちの物語を脚色してドラマチックに仕立ててもらっている。それを国民の間で流行らせようと思う」
「どこかで聞いた話だ。まさかヒノワ王子の真似をなさるおつもりで?」
「いかにも」
「そう上手くいくものでしょうかね。民の心を動かして、お身内の皆様を丸め込もうという魂胆でしょうが、そもそもヒノワ王子とあなたでは立場が違う。あなたの伴侶となる方は、余程の方でないと皆様納得なさいませんよ」
「皆でなくても構わない。民の多数が納得すれば、あと攻略すべきはただ一人。誰だと思う」
「……王妃様。お母上でございますか」
「その通り。父を除くとあの人が一番強い。味方に付ければ、他の説得はあの人がやってくれる」
「いや、あなたの結婚に一番うるさいのは王妃様ですよ。独自の基準をクリアしたお相手を、あっちこっちから見繕ってこられて、毎月必ず見合い話を持ってこられるのはご存じでしょう。到底納得してくださるとは」
「真正面から攻めるつもりはない。知っているか。母は無類の恋愛小説好きなのだ。古典から流行り物まで幅広く読まれる。今特に愛読されているのは、『愛しき秘密』氏の作品だとか」
「はあ、なるほど」
「本になる前の原稿を、『愛しき秘密』氏から母に、誕生日のプレゼントとして贈ってもらうことになっている。あれを読めば、きっと私たちの味方になってくださるだろう。途中の原稿を少し見せてもらったが、あれは名作になるぞ」
「しかし、作品は気に入られても、実際の息子の結婚は別ではありませんかね」
「そうなればいよいよ父上の出番だな。まあ、多忙な父上のお手をあまり煩わせたくはないんだが」
「陛下は味方になってくださるのですか」
「ああ。もう随分前……、ヒノワの結婚が決まったすぐ後に、この期を逃すまいと父上には全て話してあるんだ。結婚相手くらい好きに選べと言われたよ」
「さすが抜かりないことで」
「それだけ必死だということだ」
 グレンとの問答はいい。頭の中が整理できる。この件について、カロには昨日ざっと説明しただけなので、今日にでもまたきちんと話すつもりだ。
 続いて、主人と家令のやりとりを口を挟むことなく見守っていたマリに、話を向ける。
「マリ、君にも随分心労を掛けてしまったことだろうな。私が不在の間に、根も葉もない噂が大きくなってしまっていたようだ」
「いえ、私にお気遣いいただくようなことは何も」
「今話したとおり、アサナは今回の計画の協力者というだけだ。私は君の大切な息子を裏切るようなことは何もしていないよ。だから、どうか結婚を許してほしい」
「私が口を出すことではございません」
「君はカロの母親だろう」
「ありがたいことと存じております。反対するなどということはありません。ただ……、あの子は生まれついての使用人でございます。殿下には到底そぐわぬ身分。生意気を言うというお叱り覚悟で申し上げますが、超えるのが困難なほど高い壁があろうかと存じます」
「君は長く使用人をしているからそう考えるのかもしれないが、超えてみせるよ。約束しよう」
「……ええ」
 マリはそう口にはしたが、すっきりとしない様子ではあった。
 ここでグレンが口を挟む。
「この方は柔軟で革新的な発想ができるなどと世間では持て囃されておりますけれども、その実ひどく頑固で諦めが悪いのです」
「唐突に悪口か、グレン」
「今では想像もつかないかもしれませんが、幼い頃はそれはもう我が儘の駄々っ子で、我々は散々手を焼かされたものでした」
「グレン」
「忘れもしません。五歳の頃でしたか。お祖母様主催のパーティーの当日、授業時間を減らせと要求して、朝も早くからお部屋で立てこもりを決行されたことがありました。パーティーにはぜひとも出席するようにと言われておりましたので、たいそう焦ったものです。世話係や教育係総出で説得にあたりましたが、叱っても、宥めても、好物のお菓子で釣ろうとしても、ドアは開かず。結局、根負けしたこちらが折れることになり、なんとか午後から参加させることができた、という次第。今は立派にお育ちになって嬉しゅうございます」
「長々と……、その話は必要か?」
「もちろんですとも。私が申し上げたかったのは、相手に認めさせると決めた要求は頑として突き通す方だということです。幼い頃とそこは変わっていらっしゃいません。途中で諦めて放り出すようなことはなさらないでしょう。安心してお任せになるといい」
「そういうことか。ああ、任せてほしい。これまで長年品行方正を貫いてきたんだ。久しぶりに我が儘の一つくらい許されるべきだろうと思う」
 マリの口元にようやく微かな笑みが浮かぶ。
「……久しぶりの我が儘があの子のこととは。そう、ええ、そうですわね。私も駄々っ子の殿下を信じてみとうございます」
「ありがとう、マリ」
 主人を腐すが適切な助け船も出す、グレンは実に優秀な家令である。
 このまま解散にしようとしたが、グレンに伝え忘れていたことがあった。
「ああ、そうだ。今日はカロに休みをやってくれ」
「この後邸の皆に彼の件を話せば、どうせのこと働くどころではなくなると思いますが」
「それもそうだな」
 マリは眉をひそめる。
「やはり体調を崩したのね……。後で部屋に様子を見に行ってきます」
「病気で体調不良というより、睡眠不足と疲れからだろう。あまり心配はいらないと思う。今は私の部屋にいるよ。よく寝ていたから、しばらく起こさないでやってほしい」
「え……」
 彼らは同時に動きを止めたが、一瞬のことだったので、特段気に留めることでもないだろうと判断した。
「もう部屋を分けておく必要もないから、こっちに移ってきてもいいかもしれないな」
 秘密にしておかなくてもいいとなると、一気にできることが増える。
「……まあ、その辺りはお好きになさればよろしいかと」
 グレンもこう言っていることだし、後々カロに提案してみることにしよう。

************

 微睡みの中で、愛しい人の声を聞いた。
「……カロ」
 髪を撫でる指がこそばゆい。幸せだな。だって、大好きな人がすぐ側にいるのだもの。
「昼食はどうかと思ったんだが」
「……」
「まだ夢の中、か。まあいい。寝られるだけ寝ておきなさい。昼食は一人で済ませよう」
 ——昼食……?
 昼食と言ったか。ということは、もう昼?
 がばっと飛び起きる。目を見開き、枕元に腰掛けていたスーイに問う。
「今何時ですか!」
「十一時半だが……」
「ど、どうしよう! 遅刻!」
「今日は休みにしておいたぞ。大丈夫だ」
「そう、なんですか……、よかった……」
 ほっと息を吐き出す。使用人として雇っていただいている身で、無断欠勤など言語道断である。また母のお説教を食らうところだった。
 スーイの腕がそっと腰に回る。
「身体の調子はどうだ」
「え? あ、はい、大丈夫……です」
 あれ、そういえばここはスーイの寝室。カロは広くてふかふかで良い匂いのするベッドの上にいる。

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