(番外編1)片隅のグラジオラス

 対して、母の表情は複雑だ。
「……カロ、あなた、大丈夫よね」
「何が?」
「ちゃんと弁えているわよね」
 ——お許しいただいているうちは、あの方と親しくさせていただいてもいい。でも、身の程を弁えてあの方と接しなさい。この先たとえ何があっても傷つかないように。よく母にされるお説教だ。
「うん、大丈夫」
 王族と平民、弁えねばならぬ身分の差。痛いほどわかっている。でも、母の言う『何か』があるなんて考えたくない。あの方の愛はカロのもの。そう信じていたい。
 
 
 紙切れに書かれていたのは、『東門外、夜七時』。
 過去には、『今日は早く帰れる予定だから、部屋でお茶はどうだろうか』などとメモで誘われたことはあったが、屋外での待ち合わせは初めてのパターンだ。もしかしてデートのお誘いなのだろうかと、その後ずっとそわそわしていた。
 気合いを入れて仕事を終わらせ、自室で入念に身だしなみを整えてから、指定時間より少し前に邸の東門へ。
 たまに会話することがある警備係が、門番として立っている。
「おう、チビじゃねえか、もう皆とっくに出掛けちまったぞ」
「うん。そうみたいだね。もたもたしちゃって」
「門限を過ぎたら入れなくなって、外で泊まりになるぞ。気をつけろよ」
「はーい」
 手を振って門を出て行く。きょろきょろと見渡すと、邸の堅牢な塀沿いに、揺らめく明かりを見つけた。駆けていった先には、馬を連れたスーイがいた。
 今日の彼は、着古した印象のシャツとズボンという出で立ちで、袖丈も短い。みすぼらしさはないが、普段の家着より着崩していて、街中の庶民にも溶け込みそうな格好だ。風が運んだ彼の匂いで判別できなければ、別人だと勘違いしていたに違いない。
「来たか」
「はい! あの、今日はどうして……」
「出かけよう。時間がないから、道中話すよ。さあ、乗って」
「わかりました」
 自らひょいと馬に跨がる。後ろにはスーイが来る。ヒノワ邸にいる頃から馬には一人で乗れるが、手綱は彼に任せるのが安心だ。
 いざ出発。ゆるりと動き出す。
「この馬、いつもの子と違いますね」
「あれは少々立派すぎて目立つからな。いや、そんなことを言っては彼に失礼か。年はいっているが、彼もなかなか良い馬なんだ」
「そうですね。とても乗り心地いいです」
 馬にまで気を使うなんてスーイらしい。彼の元で働けるというのは、人も馬も幸せだ。
「変装してらっしゃるのもお忍びだからですか?」
「ああ。今日はお前のためにゆっくり時間を使いたいんだ。この三年、共に過ごすのは私の部屋でばかり。どこにも連れて行ってやっていなかっただろう。忙しさを理由に成人祝いさえしていなかった。今日はたまたま時間が空いて、いい機会だと思ってな」
「僕のためにそんなふうに……。スーイ様と過ごすどんな時間も、たとえそこがどこであろうと僕にとっては何より大切な宝です」
「私もだよ」
 ほら、母の心配なんか的外れなのだ。大好き、僕のスーイ様。大丈夫、大丈夫、カロは大切にされている。
 背中に彼の体温を感じているけれど、抱きしめられないのは嫌だな。思いきりハグしたいのに。
 馬上ながら雲の上のようにふわふわした心地で揺られ、しばらく。到着したのは、数々の商店が立ち並ぶ市街地の広場。
 そこには現在、期間限定で巨大なサーカス小屋が設営されていて、周辺は客らしい家族連れや若者グループで混雑している。以前、カロが行ってみたいと漏らしていたのを覚えていてくれたらしい。
 夜の暗がりの中浮かび上がる煌びやかなテント、猛獣の描かれた派手な看板、滑稽な仕草で人々を呼びこむピエロ、テンポのよい賑やかな音楽——。
「わあ、夢みたい……。今日はここに?」
「そうだよ」
「嬉しい。ありがとうございます!」
「ああ」
 振り返ると、好意を明確に感じられる優しい笑みがあった。こういう世俗的な庶民の娯楽の類いはスーイの趣味ではないはずなのに、カロのために時間を割いて連れてきてくれたのだ。
 所定の場所に馬を繋いでから、他の多くの客に混じってテントの中へ入る。目立たぬよう奥まった席ではあったが、見えづらいことはなく、幻想的な空間で繰り広げられる様々な演目に、終始感動しきりだった。なんて素敵な日なんだろう。
 公演が終わっても、しばらく席を立てずにいた。後から出た方が人目につかずにすむし、ゆっくり余韻を楽しもう。
「あんな細い綱の上で、あんなに跳ねて……。ジャグリングして刃物を何本も飛ばしているのもすごかったです。それから、ライオンを見たのも初めてで。火の中に飛び込んでいくなんて、彼らはとても勇敢なんですね」
「喜んでもらえてよかった。お前が嬉しいのが一番嬉しい」
「僕の方ばかり見てませんでした? ちゃんと公演を見てましたか?」
「見ていたよ、半分くらいは」
「もう。もったいないですよ」
 ふざけて、彼の腕に肩を軽くぶつける。友達みたいで、さすがにやりすぎだったかな。でも、この空間なら許される気がした。
「……また来たいな。サーカスじゃなくて、歌劇とかでも」
 そちらの方が多分スーイは好きだ。彼が楽しめることも経験したい。
「そうだな。近々、また父上の代理でリリガランズを訪問する用があるから、それが終われば」
「約束ですよ」
「ああ、約束だ」
 約束ができるのは、たとえそれが大きなことでも小さなことでも、とても幸せなことだ。この関係に未来があるということだから。
「改めて、成人おめでとう」
「ありがとうございます」
 小さな約束を重ねて、ずっとずっと先まで繋いでいけますように。
 
 
 数日後、スーイはリリガランズ王国に向けて出立した。
 国境を接する国なので、そう長い旅になるわけではないが、それでもまた十日程度は会えない。寂しすぎる。スーイ成分が不足して干からびそう。パサパサでカチカチのパンみたいに。歌劇を見に行く約束を糧に生き延びねば。
 スーイの不在初日。朝礼の後、忘れ物を取りに自室に戻ってから、使用人用の食堂へ移動する。係から朝食の乗ったトレイを受け取り、席を探すものの、出遅れたせいで大分埋まってしまっている。
 仲のいいテオやジェフを見つけ、混ぜてもらうかとそちらに行きかけたが、彼らの会話が聞こえてきて足を止めた。
「だから、エザサ卿のご息女で決まりだって!」
「アサナ様と仰るんだったっけ。花も恥じらう美女だという」
 はいはい、またご主人様の結婚の話題ね。よく飽きないものだ。男女五、六人が盛り上がっている様子。
 端っこの方に空いている席を発見し、彼らから離れて座るも、どうしたって声を耳が拾ってしまう。
 さも得意げに女が言う。
「そのアサナ様、お美しいというだけじゃないらしいわ。お祖母様が王族の血を引いていらっしゃる高貴なアルファ。加えて農学博士の学位を持つ才女で、民の農業支援に熱心に取り組んでいらっしゃるとか。まさにスーイ様にぴったりのお相手というわけ」
 ほうほう、綺麗で、アルファで、賢くて、民のために……。
「うーん、何というか、そういう女は鼻持ちならなくて扱いにくそうだな」
「馬鹿ね、あんたとは違うの。スーイ様ほど度量の広い方なら問題ないのよ」
 お前がスーイ様の何を知ってるんだよ、と言ってやりたい。
 また別の者も、独自の情報を得ているらしい。
「それがね、私、エザサ卿のお邸でお仕えしている友達がいるんだけど……、すごいこと聞いちゃった。知りたい?」
「もったいぶるじゃん。早く」
「スーイ様、最近頻繁にエザサ卿のお邸に出入りしてらっしゃるらしいの。今回のご出立の二日前にもいらっしゃっていたっていうわ。来月末に王妃様のお誕生日の会があるじゃない。その時にお身内の方々へのご婚約発表が予定されていて、その打ち合わせのためなんじゃないかって、あちらのお邸では噂になっているらしいわ」
「おお、そりゃもういよいよ確定だな」
 わいわいと話は尽きないようだ。
 カロはトレイを持って席を立つ。ほとんど食べていないが、これ以上聞いていられない。
 
 
 それ以降、カロにとっては不幸なことに、邸内で例の噂話をしている者が日に日に増えていった。街にお使いに行ったとき、市民が噂しているのも聞いてしまった。スーイは国民に広く人気のある人だから、それだけ関心が集まりやすいのだろう。
 皆間違った噂に躍らされている。もどかしいし、悔しい。
 そう、間違い。間違いのはず。しかし、今回はいつもより噂が広まるのが早いし、いやに具体的なのがいけない。終始焦りで胸が圧迫され続けている感じがする。
 スーイと直接会って話せば気分も晴れるだろうに、異国にいて不在。だんだん心の安定を保つのが難しくなって、落ち込むことが多くなっていった。
「スーイ様に相応しいのは、アルファで、美しくて、高貴で、志の高い才媛……」
 カロにないものばかり。アルファ同士の夫婦からは優秀なアルファが産まれやすいから、良家の嫁はアルファが有り難がられる。だが、カロはオメガ。
 地味で大して美しくもなく、平民。毎日毎日自分のことで手一杯で、自分と直接関係のない他者を救う志など持たない。勉強は多少頑張ってはいるけれど、博士の学位を取るほど学問を究めているわけでもない。それに、オメガではあるが男の身体。
 現実に気づかされてしまったかもしれない。魅力となり得るようなものを、カロは何も持っていない。ただただ盲目的にスーイを慕っているだけ。
 あれ、なんで彼と結婚できると思っていたんだろう。一度でも彼からはっきりと結婚しようと言われたことがあったっけ。根拠のない自信ほど滑稽なものはない。
 サーカスに連れて行ってもらったのが遠い昔のことのようだ。会いたい。早く抱きしめて安心させてほしい。
 そう願っていたのに、予定がずれ込み、待ち望んでいた帰国が延期になったときには、絶望的な気分になった。
 
 
 スーイの不在十一日目の終業後、母に部屋へ呼ばれた。
 またお説教に違いない。嫌だが無視するわけにもいかないので、結局行く。案の定、待っていた母は厳しい面持ちだった。
「カロ、あなた、最近全然食べていないでしょう。厨房でパンをもらってきたわ。せめてこれだけでも食べなさい」
「……いらない。別に大丈夫だよ。ちゃんと朝起きれるし、動けるし、平気」
 無理矢理食べても、吐き気が出て気分が悪くなるのだ。なら最初から食べない方がいい。
 頑なな息子の態度に、母の溜息は重い。
「夜は? 眠れているの?」
「まあ……、少しは」
「噂なんかでそう落ち込んで。いつものことでしょう」
「わかってるよ。でも、気になって……。スーイ様、エザサ卿のお邸によく出入りされているって本当なのかな。エザサ卿に用があるなら、臣下なんだから、こっちに呼びつければいいのにさ。やっぱり娘の方に用があって、お忍びでご訪問されてるんじゃ……」
「私に言ったとて答えられるわけはないでしょう。カロ、弁えておきなさい、そう言ったわよね。スーイ様と私たちでは住む世界が違うの」
「そう何度も言わなくたってわかってるよ」
「わかっているように見えないから、何度も言うのよ。あなたがあの方の近くにいられるのは、他の人より少しだけ多く恩情をかけていただいているから。それ以上のものはない」
 その言い方にはさすがにカチンと来る。
「スーイ様は僕のこと、ちゃんと愛してくれてるもん。そのはず」
「履き違えてはいけません。たとえ今は目をかけていただいていているように思えても、それがいつまでも続くわけではないの。スーイ様の伴侶となるのは、あの方のお生まれや功績と釣り合った方よ。弁えるというのは、それを理解した上で、あの方の恩情に甘えるということなの」
 つまりは、いずれ他人のものになる人なのだから、一線を引いて付き合えと? どうしてそう頭ごなしに決めつけるのだ。
 ぎゅっと拳を握る。
「なんで……、なんでそんなこと言うの? ヒノワ様は平民の異国人と結婚したじゃないか。母さんも応援してた」
「ヒノワ様は王政にほぼ関わっていらっしゃらなかった。だから、王室を離れてご結婚されることに、そう大きな障害はなかった。でも、スーイ様は違う。王政の中枢を担う方で、王太子ご一家に万が一のことがあった場合には、王太子を継がれるかもしれない方。その伴侶は国民の誰しもが納得するような方でなくてはなりません。残酷なようだけど、ずっと昔から世の中とはそういうものなのよ」
 誰しも納得する方……、たとえばエザサ卿の娘のような?
 客観的に見れば、どちらが相応しいかは明らか。だが、あなたの方が優れているから、はい、どうぞ、なんて簡単に渡してしまえない。カロの中でスーイの存在はそんなに小さなものじゃない。
 母の口調が幾分和らぐ。
「弁えるということができなければ、この先ずっとつらいことが続くわ。もういっそお暇をいただいて、別のところに勤めたっていいのよ」
「え、ここを辞めるってこと……?」

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