(番外編1)片隅のグラジオラス

 ねだってもずっと泊めてくれなかったのに、昨日はここで寝かせてもらえた。なぜ? それは……、昨日ここで……初めて……。
 昨夜の一連の出来事を思い出し、瞬く間に顔面が朱に染まっていく。
「あ、うわあ、わー!」
 飛び跳ねるようにして、布団に突っ伏して丸くなった。
「……突然どうした」
「うぅ……」
 恥ずかしすぎる。なんとなくやり方は知っていたけれど、知っていたのはほんの一部分でしかなくて、実際は全然違った。すごかった、すごかった、色々すごかった。裸のずっと奥深くなんて、これまで意識したこともなかったのに。
 ダンゴムシ状態で唸り続けていたため、さすがに心配させてしまったようだ。
「大分加減はしたつもりだったんだが。無理をさせたか」
「いいえ……。無理をしてつらいとか、そういうのはなかったです。やっと繋がれたときは嬉しかったし。嬉しいのと気持ちいいのとでわーってなっちゃったのを思い出して、今わーってなってます。ああ、語彙が……」
「そうか、そうか。可愛いな」
 頭をくしゃくしゃと撫でてもらえて、猫みたいに喉が鳴りそう。
「……僕、ちゃんとできてましたか?」
「とてもよかったよ」
「本当に?」
「ああ。だからそんなに丸まっていないで顔を見せてくれ」
「……」
 思い切って顔を上げる。が、赤くなっているのを見られるのがまた恥ずかしくて、抱きついて胸に顔をうずめた。
「こら」
「……大好きぃー」
「私も。……カロ」
 頬や首筋を撫でる手の甲に促され、今度こそ視線を合わせる。普段は理知的なこの眼差しに、気怠い熱が籠もる瞬間があるのを、カロはもう知っている。
 見えざるものに引き寄せられるようにして口づけを交わす。唇の次は耳やこめかみにもくる。擽ったい以上にぞくぞくした。
「……次の発情期は、私も一緒に別邸の方に行こうかな」
「それって……」
「結婚はどうしてももう少し先にはなってしまうが、番になるのも結婚するのも、多少順番が前後しようと構わないだろう。黙っていればわからない」
 未婚で番を持つのは、特に上流階級ではふしだらなこととして避けられている。厳格なスーイがそれを破ると言い出すとは。
「関係を持つのだってあんなに渋ってらっしゃったのに、どうして急に」
「自制していただけだよ。渋っていたわけじゃない。出ていくなどとお前が言い出すから、ちゃんと自分のものにしたいという気持ちが強くなったんだ」
「あれは不安が暴走しちゃって……。もう言いません」
「今更放すつもりはない。きちんと証を結ぼう」
「嬉しいです。幸せです。スーイ様……」
 一生消えない証。最高のプレゼントだ。
 
 
 その日はゆっくり休ませてもらって体力を回復させ、また明日から始まる労働の日々に備えていたのだが。
 次の日、多忙なスーイを先に送り出してから、朝礼に参加しようとすると、使用人棟の集会室兼談話室に入る前に、家令に止められてしまった。とにかく急げの合図、開始五分前を知らせる鐘が鳴っているというのに、問答無用で家令室に連れて行かれる。
「あの、もうすぐ朝礼が……」
 通常、朝礼を取り仕切るのは家令なので、彼がいないと始められない。
 もしかして昨日の欠席を怒られるのか? でも、スーイから伝えられているはず。もしも何か叱られるようなことがあっても、皆を待たせているのだから、朝礼が終わった後でもいいのでは。
「わかっています、それはね。しかしね……」
 家令はしっかり内鍵を掛けたあと、腕を組んで重い溜息をつく。
「まさかとは思いますが、仕事をする気ですか」
「もちろんです。昨日お休みをいただいて、元気になりました。もうばりばり働けます。ご迷惑おかけしました!」
「昨日、スーイ様があなたのことを皆に話したのはご存じですよね。一緒に働けると思いますか?」
「え、駄目なんですか」
「……あのね、よく聞いて下さい。あなたはあの方とご結婚なさるんでしょう。ということは、雇用者側になるということです。使用人を使う側です。もう使用人ではありません」
「まあ、そう……ですよね」
 考えてみれば当然なのだが、少なくても正式に結婚するまでは使用人を続けられると思っていた。ここ数年、使用人としてスーイの生活を少しでも快適にするのが生きがいだったのに、それがなくなってしまうわけだ。
 今日からどうすればいいんだろう、とぶつぶつ呟いていると、眼鏡の位置を直した家令は、てきぱきと話を進める。
「こちらでもいろいろ考えております。あなたには今後は花嫁修業をしていただきます。何人か先生を見繕ってきますね」
「花嫁修業……、ですか」
「心配はご無用。仕事をしたいなどとは思えないほど、みっちり授業を詰め込みます。あの方の計画とやらが上手くいったのだとしても、反対の声がなくなるわけではない。貴人のご息女と遜色ないほどにあなたを育て上げるのが、私の役目かと存じます」
 つまりは彼もカロの結婚を応援してくれていて、協力してくれると言っているわけだ。味方が増えて何とも心強い。
 花嫁修業をするというのは、スーイのためになることをたくさん覚えるということだろう。尽くしたい欲求は、使用人をするのと変わらないくらい満たされそうだ。
「グレンさん……、ありがとうございます。頑張ります。よろしくお願いします!」
「うちの王子のためです」
 今まで威圧感の強い怖い人だと思っていてごめんなさい、と心の中で謝っておく。
 家令室から解放され、ひとまず空腹を満たすため、朝食を食べにいつもの食堂に行こうとすると、またしても家令に引き止められた。続いて連れて行かれたのは、スーイが毎日食事を取っている主人用の食堂。
 彼は隙のない動作で食卓の椅子を引く。
「本日の給仕担当に持ってこさせます。お待ちください」
「そんなの、自分で……」
「あの方の妻になるとはそういうことですよ。自覚を持っていただかなくては」
「はあ」
「それでは」
 カロが座るのを見届けてから、彼はきびきびと出ていった。
 分不相応な扱いをされるというのは、どうにも落ち着かない。そわそわして待っていると、食事を運んできたのはテオ。手際よく皿が並べられていく。
 来たのが親しい人だったのは救いに感じた。テオは普段食事の担当になることはないけれど、家令が気を回してくれたのかもしれない。
「ごめんね。何か突然こんなことになっちゃって」
「どうかお気になさらないでください」
 ものすごくよそよそしい。初対面の他人のようだ。
「……怒ってるの?」
「いいえ」
「怒ってるよね? 僕が隠し事してたから」
 テオは扉に背を向け、声を潜める。
「……怒ってないけど、怒られるのが嫌なんだよ。あそこでグレンさんが見張ってる」
「僕たち、友達じゃなくなるの」
「友達……は無理だろ。奥方様相手に。まだここ辞めるつもりないもん、俺」
「そっか……」
 しょげたカロを可哀想に思ったのか、テオは付け加える。
「まあ、グレンさんの目のないところで喋るくらいはできるかも」
「本当? ありがとう」
 どこからともなく小さな咳払いが聞こえてくる。彼はびくっとして姿勢を正し、丁寧なお辞儀をした。
「では、ごゆっくりお召し上がりを」
「はい」
 あれもこれもと望んではいけないのかもしれないけれど、友達はなるべくなら失いたくない。
 
 
 使用人棟にはもう出入りするなと家令がうるさいので、食後は、とりあえずの部屋として用意された本館の客間に籠もっているしかなかった。自室から差し当たり必要なものだけ持ってきて、一人で勉強する。
 皆で仕事に励んでいるはずの時間も一人。寂しいが、我慢しなくては。花嫁修業が始まれば、やることがたくさん増えて、きっとこんな思いもしなくなる。
 ようやく夜になり、使用人たちの通常の終業時間も過ぎ。外から馬車の音がしてくるのを、耳は敏感に察知した。ご主人様のお帰りだ。
「……そうだ」
 今までしたくてもできなかったことをやってみよう。急ぎ玄関ホールへ参上したところ、またしても家令と鉢合わせた。
「えーっと……、これも駄目ですか?」
「よくないときは申し上げますから。どうぞ」
 扉を開けるのは家令の役目。厳かに音を立てて開く扉の隙間から、スーイが現れる。
「あ……、お帰りなさい、スーイ様」
「ただいま」
 彼は相好を崩し、真っ直ぐこちらにやってきた。
「今日は出迎えに?」
「はい。ずっとやってみたかったんです」
「ありがとう。嬉しいよ」
 腰を抱いて、頭のてっぺんにキスをする。
「夕飯は?」
「まだです」
「先に食べていてよかったのに」
「お昼ご飯をいっぱい食べすぎて、お腹いっぱいだったんですよ。今ちょうど空いてきたところなんです」
「一緒に食べようか」
「はい」
 この流れはいいんじゃないだろうか。とても奥様っぽい。
 奥様らしくを心掛け、着替えと手洗いを甲斐甲斐しくお手伝いしたのち、食堂で遅めのディナータイム。葡萄酒で乾杯する。
「お疲れ様です、スーイ様。お帰りが待ち遠しかったです」
「今日は何をして過ごしていたんだ」
「大学の授業の復習を主に。今後は花嫁修業の先生を付けてくださるとグレンさんが言っていました」
「あいつはまた余計なことを……」
「とてもありがたいことですよ。これまでは、スーイ様に見合う人になりたいと思っても、何をしていいかわからずに、とりあえず役に立ちそうな勉強を頑張ることが精々だったんです。政治学や経済学、語学とか……。でも、これからは、何を頑張ればいいか、具体的に教えてもらえる。とても効率的です」
「世間一般で言うところの『理想の妻』を、私はお前に求めているわけではないんだよ」
「わかっております。僕が頑張りたいだけなんです。武術の先生は来てくれるかな」
「護身術か? 護衛くらい付けるぞ」
「護身術の心得はあります。スーイ様の護衛もできるくらい強くなりたいってことですよ」
「私を守ってくれるつもりか。それなら軍に入隊して訓練くらい受けてもらわないと……」
「入りたいです!」
「冗談だ。真に受けるな」
 なんだ、冗談なのか。いいアイデアだと思ったのに。でも、軍に入隊となると武術以外の勉強が疎かになりそうだから、ここで色々な先生に教わるのが一番いいのだろうな。
 忙しくなるのが楽しみだ。たくさんの授業。予定がみっちり詰まるといい。そういえば、あんな予定もあった。
「歌劇の鑑賞はいつがいいか聞いていなかったな」
 サーカスに連れて行ってもらった日の約束を覚えていてくれていたようで、彼から話題を持ち出してくれた。
「僕はいつでも……。今後の授業の予定次第というところです」
「では、こちらから日にちを指定しておいて、その日は空けさせるということにしよう。それから、これもまだ日取りは決まっていないが、改めてアサナが会いたいと言っていてな」
「そうなんですか。二日前に来てくださったときは、僕が取り乱してしまってご挨拶すらできず、本当に申し訳なかったです……。謝りたい」
「彼女は気にしていないと思うが」
「それでも、さすがにあの態度はどうかと思うので。あと、今回の件に協力してくださったことにも、ヒノワ様の物語を書いてくださったことにも、お礼を申し上げたいです」
「日取りが決まれば知らせるよ」
 スーイの交友関係を知るという点においても、大事な面会になりそうだ。彼の世界に接し、理解するのも、花嫁修業に入るだろう。
「……僕、頑張りますね。スーイ様とずっと一緒にいるために、僕にできることはとても少ないけれど、でも、何もできずに泣くだけなのはもう嫌だから」
「お前のその言葉だけで私も頑張れるよ」
 改めて、乾杯。大丈夫、彼となら。
 温かな食卓で会話を重ね、家族としての日々が始まっていく。こうして、これから。

1 2 3 4 5