「やあ、元気?」
勝手口の外で、掃除道具の片付けをしていたリタは、裏通りを行く三毛猫に話しかける。最近この辺りに住み着いたらしい野良猫で、エサをくれる家々を渡り歩いている。この家も彼女の巡回地点の一つだ。
またエサをくれるのかと寄ってきたが、リタが何も持っていないのがわかると、フイと顔を背けて行ってしまった。何ともつれない。
彼女は気まぐれで、自由だ。「誰か」や「何か」に縛られることがない。
猫は一生添い遂げる伴侶を持たないと言う。多くの動物がそうだ。獣人も特定の相手を持ちたがらず、気ままに生きている、と思われがちなのだが、リタは伴侶がほしい。心も身体も安心して預けられる相手が。
物心つく前に両親は戦争で亡くなっており、リタには血の繋がった家族がいない。
小さい頃世話してくれる孤児院の先生はいたし、友達もいたから、ずっと孤独だったわけではない。でも、先生とは孤児院を出たらお別れ。友達は一生友達だろうけれど、一対一の関係ではないし、彼らもいつかは伴侶を持つ。ずっと一緒にはいられない。
深い愛情で繋がっていて、寄り添い合って助け合って、共に生きていける、唯一リタだけの伴侶がいれば、一人ぼっちになることを怖がらなくてもいい。
今はここでアルと夫婦のような生活を送っているけれど、アルはどう考えているのだろう。手放さないと言ってくれたのは、一生そうするつもりだと思っていいのだろうか。もし、そうじゃなかったら——。
陰気臭く悩んでしまうのは、アルが昨日から出かけているからだ。離れているとどうも落ち着かず、ついつい余計なことを考えてしまう。
仕事関係の用事で王都に行く必要があるということで、昨日、クリスがアルを迎えに来た。
二人とも見たことのない上等の服を着ていた。この国の正装らしい。クリスは普段からきっちりした恰好をしていたけれど、アルはいつも着古した服ばかりだったから、なんだか別人のようだった。よく寝癖のついている髪を整えて、きちんと縛っていたのも大きい。「立派な大人」に見えて、遠い存在になったみたいで寂しく感じた。
リタが心細そうなのを察してか、家を出る前、アルはとても心配していた。
「リタ、ほんとに一人で大丈夫? 知らない人が来ても、絶対家の中に入れちゃ駄目だからね。買い物で外に出るのは仕方ないけど、寄り道はしないように。火の始末はしっかりして、寝る前に鍵をもう一回確認して、それから……」
「大丈夫だって。僕、故郷じゃ一人で生活してたんだよ」
留守番自体に不安はない。故郷の町はここより治安が悪かったから、危険への対処の仕方はある程度心得ているし、家のことはアルより出来るつもりだ。でも、アルに心配してもらえるのは、大事にされている証拠のようで、とても嬉しい。
「君は危なっかしいからなあ。やっぱり連れて行こうかな」
予定を大幅に変えることを言いだしたアルを、クリスは窘める。
「いい加減にしないか。うちの妻が娘に言うのを聞いているようだよ。リタはもう大人の年なんだから、過保護はやめなさい。ほら、行くよ」
「リタ」
抱き寄せられて、キスをされる。これでもう、帰ってくるまでキスはお預け。これ以上心配を掛けてはならないと、笑顔を作る。
「……気をつけて」
「うん」
「ああ、もう、さっきから何回目? さっさと行く!」
クリスはアルを引っ張って、リタから引き剥がす。
「わかった、わかりました!」
膨れっ面のアルは、クリスと共に、外で待たせてある馬車に乗り込む。リタは走り出した馬車が見えなくなるまで見送った。
寂しさと恋しさで胸がいっぱいになる前に、その日は早めに就寝した。
離れているのは一日だけだ。今日の夜にはアルが帰ってくる。夕飯は外で食べることも多いが、今日は作って待っていよう。
そうと決まれば、食材の買い出しだ。市場に行かなければ。そういえば、図書館で借りた本を返さないといけないのだった。市場に行く前に図書館に寄って返却し、また新しい本を借りよう。文字は大分読めるようになってきたので、子供向けの本を読んで勉強しているのだ。
ただ、聞き取りはまだまだ苦手だった。短めにゆっくり話してもらえれば理解できるのだが、早口で長々と捲し立てられると、もうお手上げだ。この国の人は早口の人が多い気がする。
これに関しては慣れしかない。市場のおばちゃんとスムーズに値切り交渉できるように、早く上達したい。
家の中に入り、お出かけの準備を整えた。
図書館と市場へ行って用事を済ませた後、近道を通って家まで帰ることにする。
昼でも薄暗く細い路地を早足で歩いていると、男に呼び止められた。
「——おい、待て」
振り向くと、ひょろりと背の高く、人相の悪い中年男がいた。知らない顔だ。鋭い眼光をリタに向けている。
不穏な空気を感じて緊張し、食材と本が入った鞄を懐に抱え込む。
「なに?」
この国の言葉で返す。男は無言でリタに近づき、頭に被った帽子を取って、地面に投げ捨てる。獣の耳が露わになった。荷物で両手が塞がっていたため、阻止できなかった。
男はしたり顔で頷く。
「やっぱり……。坊ちゃん、いました!」
後方に向かって、男が声を張り上げる。
「なに、なんですか」
戸惑うリタの問いには、またしても答えてもらえない。
間を置かず、身なりのいい若い男が、二人のお供を連れてやってきた。不健康そうな青白い肌をしていて、頬にそばかすがたくさんある。この若い男が人相の悪い男の親玉なのか? 確かどこかで見たような……。
若い親玉はリタを睨みつける。
「探したぞ。手間をかけさせやがって。………………」
その後は早口で聞き取れない。
探していた? リタを? なぜ? この国にはあまり知り合いはいないから、リタを探そうとする人に心当たりはない。いや、いるか? そうだ、この男——。
「マクシミリアン!」
この一帯の領主の息子で、奴隷商人からリタを買った男。奴隷市でリタをじろじろと品定めしていたのを覚えている。そうだ。そうだった。こいつだ。
彼は忌々しげに吐き捨てる。
「軽々しく名を呼ぶな。捕まえろ」
命じられ、そこにいた三人——人相の悪い男とお供二人は、リタを取り囲む。
リタを連れ戻しに来たということか? 今更? もう話はついていると、アルは言っていたはずだが。なぜリタにこんなことをするのか、と聞きたい。この国の言葉では何というのだっけ。
——いや、話し合おうとするより、とにかく逃げなければ。食材と本の入った重い鞄を下ろす。おそらく踏まれるだろう。だが、致し方あるまい。逃げるとき邪魔になる。
頭の中で、逃走方法を冷静に考え始める。マクシミリアンは手下任せで参加する気がなさそうだから、相手は三人。
お供二人の方は、険しい表情を作ってはいるが、大分おどおどしているから、多分こういうことには慣れていない。怖がる必要はない。あとは人相の悪い男。堂々とはしているものの、手足が細く案山子のようで、あまり力が強そうには見えない。力尽くで、というのは苦手そうだ。
いける。大丈夫。リタがかつて住んでいた故郷の街で、複数人に囲まれて金品を要求されたことは何度かある。その時と同じようにやればいい。
「抵抗しないのか。なかなかいい子じゃないか」
人相の悪い男がニヤニヤしてリタの手首を掴み、自分の方へ引っ張る。それには無理に抵抗せず、相手の方へ踏み込む。間髪置かず手首を回して、勢いよく上にあげた。——男の手が離れた。成功だ。
男が驚いて動きを止めた一瞬の隙に、その場にしゃがみ込む。そして、足下に落ちた帽子をさっと拾ってから、勢いよく真上に飛び上がる。手を掴んでいた男の肩を蹴ると、彼の背後に着地。そこからは全力ダッシュだ。獣人の身体能力を舐めないでもらいたい。
「何をやってるんだ!」
マクシミリアンの怒声が響いた。
帽子をしっかり被り直し、路地という路地を滅茶苦茶に走った。
追っ手を撒けたの確認してから、自宅の近くまで戻ってみる。周辺にお供二人がうろうろしていて、慌てて隠れた。
「確か前はこの辺で見失って……」
そんな風なことを言っている。
どうしよう。帰れない。あいつらがいなくなるまで、どこかで時間を潰さなければ。
とぼとぼ歩き、街を一望できる丘の上まで来る。警察の建物や学校、美術館があるエリアだ。警察の近くでは悪さはしにくいだろうと踏んだのだ。
警察の庁舎の裏、人目のつきにくいような場所にうずくまる。ひとまずここで隠れていよう。
「何なんだよ、まったく……」
せっかく晩ご飯を作ってアルを迎えようと思っていたのに、計画が台無しだ。
アルのお金で買った食材を置きっぱなしにしてきてしまった。踏まれて蹴られて使い物にならなくなっているものもあるだろう。借りた本もあるし、取りに行きたいが、またあいつらにばったり出くわしてしまうかもしれない。
いったいいつまで隠れていればいい?
「アル、早く帰ってきてよ……」
「……どうしたの?」
今一番聞きたい声がして、顔を上げる。そこには、昨日と同じような正装姿のアルがいた。幻かと思って目を擦ってみるが、やはりいる。
「え、なんで?」
「僕を呼んだだろう」
「呼んだけど……」
「君のお腹に名前を書いたあの術で、僕たちは繋がってる。君が呼べば僕に伝わるんだ。で、何があったの。ここ、どこ?」
「丘の上だよ。警察の裏。実は、マクシミリアンが僕を捕まえに来たんだ。手下が三人いる。何とか逃げたけど、手下が家の近くにいて、戻れない……」
アルの顔つきが曇る。
「どうしてあいつが。もう話はついているはず」
「わかんない。上手く聞けなくて」
「大丈夫かい。何か……」
差し伸べられた手を取って立ち上がる。彼を安心させようと大きく首を振る。
「何もされてない。手下に手を掴まれたくらい。僕、逃げ足は速いんだ」
「それならいいけど……、とりあえず、マクシミリアンと話をしよう」
アルが胸元から取り出したのは銀色のペン。家でもよく使っているものだ。
彼はリタを片手で抱き寄せると、ペンを一振りして、地面に差し向ける。すると、二人の身体がふわりと浮く。
「うわあっ」
「しっかり掴まっててね」
リタを抱いたまま、空へと吸い上げられるように、ゆっくり上昇していく。
「わお、すごい!」
当然、これまでに空を飛んだ経験はない。しかし、アルと一緒だから、全く怖くなかった。彼がリタを危険に晒すようなことは絶対にないと信じているから。
追われて逃げていたときの不安が、空中に霧散していく。
「高いところは平気?」
「平気。屋根の上も歩けるくらい。ねえ、ペンとかおもちゃとかは杖の代わり? 杖持ってないの?」
「一応持ってるけど、普段術は使わないから、持ち歩いてない。代わりになるものはいくらでもあるし」
「普段から使えばいいじゃん。便利なのに」
「便利さも過ぎれば人を堕落させるからね」
そういうものだろうか。リタは便利な技など使えないから、よくわからない。