(3)拾われ猫と誓いの契約

「その前に、水浴びしたい」
 毎日の習慣で、一日一回は必ず身体を清めたい。故郷にいたころは、近くの森の湖で毎日水浴びしていた。
 浴槽のある部屋があるというのも、この家が好きなポイントだ。いつもはまだ日があるうちに、汲んできた水を浴槽に貯めて入っているのだが、今日はごたごたしていて入り損ねていた。
「……そんなの、朝でよくない?」
「今日はあっちこっち走り回って、結構汚れちゃってるんだ。それに、儀式的なことをするんだったら、綺麗な身体でないと」
「そんな決まりはないんだけどなあ。でも、君が気になるなら入る? 特別にお湯を張ろう。昼間は暑いくらいの日もあるけど、夜は冷えるよ」
「お湯湧かすの時間かかるんじゃ……」
 そう言ってから思い出した。アルはいつぞや温かい湯を、ほんの短い時間で用意してくれたのだった。
「一瞬ですむ。一緒に入ろう」
「一人で入れるよ」
「駄目。暗いと滑って転ぶかも。危ない」
 わざわざリタの腰を抱き、アルは浴室に向かった。そんなことをしなくても逃げないのに。

 準備をすると言って、アルが先に浴室へ入る。
 濡れた身体を拭く布を用意し、服を脱いで待っていると、すぐに呼ばれた。
「できたよ。おいで」
 タイル張りの小さな空間には、ほのかに光る青と白の球体がたくさん浮かんでいる。以前、寝室でやって見せてくれたときは白だけだったが、今日は青が増えている。幻想的でなんだかロマンチックだ。森の湖に差した月明かりを思い出した。
 丸い明かりを捕まえようとして手を伸ばしてみても、まるで自分の意思があるかのように、ふわふわと逃げ回る。
 これがどこから生まれているのかと言えば、アルの指先だ。今はペンや張型を持たず、人差し指を立てて振りながら、もう片方の手でお湯の温度を見ている。適当に見えるながれ作業で、指先からポンポン丸い光が生まれ、宙に浮かぶ。
「……指でもできるんだ」
「杖的なものがあった方が楽だけどね」
 彼は細長い楕円形の浴槽から手を抜き、数回振るって水気を払う。その手で、まだ一回ぐらいしか使っていない石鹸を取ると、浴槽に半分ぐらい張った湯の中に放り込む。普通なら底に石鹸が沈むだけだと思うが、白いもこもこした泡がぶくぶく湧き上がってきて、みるみるうちに水面を覆っていく。
 これも魔術なのか? 空を飛んだり、湯を張ったり、明かりを生み出したり、石鹸を泡立てたり。彼も言っていたが、魔術とはなんて便利なものなのだろう。
「あれもこれも、いったいどういう仕組み?」
「説明してもいいけど、長くなるよ。一からだから、朝になるかも」
「……またでいいや」
 お風呂で朝まで素っ裸だと、確実に風邪を引く。
 泡まみれになった浴槽に、アルは足をつける。
「おいで」
 先に入ったアルの足の間に、リタはすっぽりと収まる。かなり窮屈だが、その分密着できるのがいい。彼の肌も湯も、温かくて心地良い。
 今日一日、かなりの距離を走った。深呼吸して全身の力を抜き、後ろに体重を預けると、溜まった疲れがじわりじわりと溶け出す。
 大好きな人に包み込まれている安心感もあり、目蓋が徐々に重くなってくる。頭の中がふわふわする。
「天国ってきっとこんな感じだ……」
「死んじゃ駄目だよ」
「長生きする予定にはしてるよ。だから、アルも長生きしてね」
「そうだね。そうなるといいな」
 リタの腹の辺りに回った彼の腕に力がこもる。首筋を唇で吸うようにキスをされ、舌がべろりと舐め上げる。
 耳がピンと立ち、思わず間の抜けた声が漏れた。
「ふにゃあ」
「かーわいいなあ。お風呂だから、ちゃんと洗わなきゃね」
 腹に置かれたアルの手が、ぬめり気を帯びた湯を泳ぎ、肌を滑って這い上る。指が乳首をかすめて通り過ぎていく。
「あっ……、やだ、だめ」
「洗ってあげる」
「自分で洗えるもん」
 これから術の掛け直しという重大イベントが控えているのに、こんな風にされたら、淫らな欲に火がついてしまう。性的な刺激に弱いリタの身体を知っているくせに、アルは続けるつもりらしい。
「いいからいいから。そうだな、こっち向いて、お膝においで」
 アルはリタの両脇の下に手を入れて持ち上げ、前に出していったん離れさせる。リタがくるりと振り返ってアルの方を向くと、再び両脇の下を持って膝の上に乗せる。
 向かい合わせで抱っこ。後ろから包み込まれるのもいいけれど、顔を見られるのはやはりいい。彼の膝の分位置が高くなり、水面が臍の上ぐらいに来ている。
 彼は湯に浮かぶ泡を取って、リタの肌に乗せていく。落ち着かず、尻をもぞもぞさせる。
「感じちゃうから……」
「ちょっと我慢ね」
 首、胸元、腹、背中、脇腹。執拗なほどゆっくり、泡が広げられていく。手足に力を入れ、ぷるぷるしながら耐えた。
 ——勃てない、勃てない、我慢、我慢……。
 必死に念じていたが、快楽に従順な身体は言うことを聞かない。甘ったるい震えが手指の先まで走り、敏感な場所に触れられるたび、腰が浮きそうになる。
 初めは上半身を全体的に洗っていたのだが、そのうち胸ばかりに集中する。両胸の乳輪の上でくるくると円を描き続け、リタが焦れてきた頃合に、乳首を緩く摘まんで、先端を泡越しに撫でる。
 こんなの、洗っているわけではなく、完全に愛撫ではないか。リタの性感を煽るための行為だ。アルを見ると実に楽しそうで、確信犯なのは明確だ。しかも——。
 ——興奮してるし!
 水面に尻尾を打ち付けて抗議する。
「僕に我慢しろって言って、自分が勃ててるってどういうこと……?」
「リタが動くから擦れるんだよ。というか、リタも」
「あれだけされれば当然だよね! どうするの? このままエッチするの? 術の掛け直しは?」
「ちゃんとどっちもする」
 頬に手を添えて引き寄せられ、口づけられる。やられっぱなしでは悔しいので、舌を入れたのはリタからだ。口内を味わうのに熱中し、どちらのものかよくわからない唾液が口端を伝った。
 唇を離して、焦点が合わないほど間近で彼は囁く。
「先にやることやっちゃおうか」
 やることというのはどちらか——、リタが考えているうちに、アルは水中でリタの腹を一撫でし、何やら一言呟く。
「はい、解いた」
「え、もう?」
 やるというのは術の掛け直しの方か。
 あれだけで解けたのか。簡単すぎやしないか。もっと複雑にしておいてもらわないと、うっかり間違いで解けてしまいそうだ。
 アルとの大切な繋がりを失い、心細さを感じる。
「早く、また掛けて」
「わかってる。……ほら」
 手のひらを上に向けて両手を差し出される。前と同じでいいのだろう、リタはその上に手を乗せる。
「じゃあ、ちょっと集中させてね」
 アルは目を閉じて俯き加減になり、この国の言葉でもリタの故郷の言葉でもない言葉で、ぶつぶつと詩のようなものをつぶやく。意味は全くわからないが、響きはとても綺麗だ。
 繋がった手と手が青い光に包まれる。これも前と同じ。しかし、次の指示は前回にはなかったものだ。
「……僕に名前を書いて。リタの名前」
「アルにも書くの? どこに?」
「どこでもいい。顔でも肩でも」
 まだまだ文字を書くのは苦手だが、自分の名前くらいは書ける。どこでもいいと言われたので、書きやすい位置にある鎖骨の上あたりに、人差し指でリタと書いた。
 リタには姓がない。生まれたときにはあったのかもしれないが、物心ついたときから現在まで、リタはただのリタだ。
 続いて、アルもリタの胸元に人差し指を近づける。
「やだ。お腹がいい」
「今度の術式は、どこに書いてもいいようにアレンジしてあるよ」
「前と同じとこにして。お願い」
 交わっているとき、ちょうどアルのものがリタの中を埋めている辺りに、サインが浮かぶのが好きだった。内にも外にも彼の存在が刻みつけられているようで。
 立ち上がって、湯に浸かっていた腹を出す。アルは半端に勃ったものを避け、下生えの上ぐらいの場所にさらさらと自分の名前を書く。終わりに、アルが二言三言つぶやくと、両者のサインが消える。
「……はい、終了」
「やったー」
 再び湯に浸かり、彼の首に抱きつく。
「ねえ、前のと何が変わったの?」
「前のは僕からだけリタを縛るっていうものだったけど、相互に縛る力が働きあうように、オリジナルを書き換えた。こうすると、僕から一方的に無効化するっていうことができなくなる」
「簡単に解けないってこと?」
「そう。両者が術を解くという意思を持って、お互いの身体にサインしないと解けない」
「アル、すごい! なんで僕の考えてることがわかるの? それも魔術?」
 解き方を複雑にしてほしいと、リタは考えていたのだ。
「魔術で人の思考は読めないよ。いかにも読めているように振る舞うことは出来るけどね。それで、変更点はまだあって、身体のどこにサインしてもいいようにしたってことと、それから、セックス中にいちいちサインが光るのやめにした。二人して光ってたら、さすがに面白くて笑っちゃいそう」
「え、あれ気に入ってたのに。もうアルの名前が書いてあるの、見られないの?」
「手で触ったら出てくるよ」
 アルに促され、二人とも立ち上がる。彼がリタの下腹部に触れると、淡い光を放ってサインが現れる。リタも先ほど自分がサインした箇所に触れてみる。リタの筆跡がそのまま、アルの肌に浮かんできた。
「ほんとだ!」
「気に入った?」
「うん! エッチしてなくても見れるのいいね」
「君が安心できるのが一番だよ」
「ありがと、アル」
 リタが不安がっていたのだって、わかってくれていた。それで、わざわざ術を新しくして、リタがより大きな安心を得られる形で掛け直してくれたのだ。
 リタの旦那様は、世界一優しくてかっこよくて素晴らしい。
 ところどころ泡が残ったままの肌をぴったりと寄せ合って鼓動を感じることで、彼の存在がリタの側にあるのだということを、身に沁みて実感する。
「……本当の夫婦になったみたい」
「これまではそうじゃなかった?」
「お嫁さん気分ではいたけど、本当のところはどうなんだろうなって。ずっとずっと伴侶がほしくて、アルがそうだったらいいなって思ってた」
「僕だってそう思っているから、術の掛け直しをやったんだよ」

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