(3)拾われ猫と誓いの契約

 アルは眉根を寄せる。
「ふーんって、何も思わない? ユリスはこの国に攻め入られて国土の三分の一を失ったんだよ。君のご両親は戦争に巻き込まれて亡くなったって言ってたけど、それも——」
「よくわかんない。父さんと母さんが死んだのも、故郷が負けたのも、僕がうんと小さい頃だから」
 アルは深刻そうな面持ちだったけれど、リタには何が彼をそうさせるのか理解できない。あの戦争の頃は、アルだってまだ子供だったはずだ。覚えてもいない過去のことで、直接的に関係のないアルを、リタが責めると思っているのだろうか。
 すっかり食事の手を止めて、彼は話を続ける。
「ユリスと戦っていたのは、僕が軍に入る前のことではあるけど、君の話を聞いたとき罪悪感はあった。この子は自分が籍を置いていた集団の被害者なんだって。そういう罪悪感と、僕だって少しは人に感謝されることがしてみたいっていうのがあって、前職で稼いで有り余っていた金を使った。あの金は君みたいな親のない子をたくさん作って得たものだ。自分のためには使いづらくて、持て余していたんだ」
「うーん……。でも、僕が奴隷商人に攫われて売られたのは、やっぱりアルのせいじゃないよね? お金を出してもらうのは違うような……」
「いいんだ。どのみち、この先も一緒に暮らしていくなら、僕が君のために金を使おうが、僕が僕のために使おうが、そんなことに大した違いはない。気にしなくていい。僕がやりたくてやったことだ」
「……一緒? この先も?」
「そこに引っかかる?」
「引っかかったっていうか、そんな風に思っててくれたんだなって」
「何を言うの。自分でもお嫁さんと言っていただろう」
「そうだよね」
 この先も一緒に暮らしていく。将来のことを明確に言われたのは、これが初めてかもしれない。嬉しくてじわりと涙がこみ上げてきそうになるが、堪える。
「僕はとてもアルに感謝しているよ。初めてマクシミリアンから助けてくれたときもそうだし、今回のことも、この先も僕と暮らすつもりでいてくれることも」
「僕だって君には感謝してるんだよ、とても」
「感謝されることをしてみたかったって言ってたけど、軍では感謝されてなかった? わざわざ偉い人が連れ戻しに来るくらいなのに?」
「役に立つとは思われていたと思うけど、感謝とは違うかな。要求されたことをそのまま形にして書けるっていうのは、結構貴重だったみたいで、便利に使えるって感じだったと思う」
 書く……、そうだ、アルは物書きなのだった。書くって何を? 小説? 軍人さんって、小説も書くのか? 何のために? リタが混乱しているのを見て取って、説明してくれる。
「ああ、書いていたのは術式ね。魔術の実行の指示書。音楽で言う楽譜、料理で言うレシピみたいなものかな。甘くて熱々でサクサクフワフワのお菓子のレシピを作ってくれってオーダーされて、揚げパンの材料やら調理手順を詳しく書く、みたいなこと」
「ほうほう」
「王立軍内では、もちろんそんな平和なオーダーは来なくて、敵国の高官を暗殺するための術式だとか、どこそこの城を火の海に沈める術式だとか、君に聞かせたくないことを、もっと色々。実行部隊の人数とか個々の能力とか実行場所とかの条件に合わせて、来る日も来る日も作って書いて、作って書いてって感じだった。そういう仕事を術式作家とか物書きとかって言うんだよ」
「あれ、前に魔術を使ってお金をもらってるわけじゃないって……」
「報酬が発生しているのは、術を作って、そのやり方を書き記していることに対してだよ。出来上がった術式を元に術を使って、その対価を受け取っている人は別にいる」
「役割分担がある?」
「そう」
「今やってる物書きも同じような感じなの?」
「オーダー元は違うけど、ずっと術式は書いてる。やっていることは同じでも、書いている内容は全然違うから、今の仕事はやりがいがあるかな」
「物書きっていうから、小説でも書いてるのかと思ってた」
「小説は書いたことないなあ」
 面白い発想だね、とアルは笑う。
 物書きをしていると言われれば、小説家なんだと考える方が普通だと思う。物語ではなくて魔術の術式を作っている、なんてその道の人以外誰も思わないだろう。
 彼が書斎にこもって何をしていたのか、真実が知れてすっきりした。
 アルの方も、どうやら気になっていることがあったようだ。
「今の僕の話を聞いて、どう?」
「うーん、アルも色々苦労したんだなーって思った」
「僕が嫌なったりは……」
「なんで? アルはアルだよ」
「……そっか」
 リタの答えに、アルは安堵したような表情を浮かべた。
 彼はリタより大人で、物知りで、滅多なことでは動じないと思っていたけれど、案外リタと同じような悩みを持っていたのかもしれない。

 食堂でランタンを借りて、家路につく。もう外はすっかり暗く、頭上には星々が煌めく。
 リタはアルの腕にしがみつき、きょろきょろとしきりに周りを警戒する。首を振り回しすぎたせいでリタの帽子が落ちかけたのを直し、アルは言う。
「もうマクシミリアンとその仲間たちはいないと思うよ。気配がない」
「そんなことわかるの?」
「気をつけてればね」
「犬ってそういうこと? 普通の人が気づかないことでも気づく、みたいな」
「違う。あれは悪口」
 どうして犬が悪口になるのだろう。言葉の違いで、この国では悪い意味を持っているということだろうか。
「犬は賢いしかっこいいし、僕は好きだよ」
 そのままくっついて歩きながら、アルの肩に頭をもたせかける。夜の帳に包まれているおかげで、こんな風に堂々とデートできる、この状況は貴重だ。
「君はそういうところがいいね。変わらないでいてほしい」
 アルはなぜか嬉しそうだ。声が明るい。彼が嬉しいと、リタも嬉しい。でも誉められた理由がわからない。
「もっと賢くなりたいよ。僕は馬鹿だから、アルの言ってること、わからないことも多いんだ」
「君は充分賢い。大丈夫」
 帽子の上から頭を撫でられる。早く帰って、帽子を脱いで、直接撫でてほしい。アルに髪や耳を触ってもらうのは、本当に心地がいいのだ。家まで、あともう少し。
 姿がはっきりと見えない分、声を聞いていたくて、質問を投げる。
「マクシミリアン、なんで今頃になって来たんだろ」
「ああ、日頃の悪行がたたって後継者から外されたらしいよ。で、もうパパの言いつけは聞かない、好き勝手やってやるって自棄になったみたい。自分で言ってた」
「情けないなあ。じゃあ、また来るかな」
「来ないと思う。領主には従軍経験があって、未だに軍関係者と親交があるって、以前本人に会ったとき聞いた。僕のことも知っていた。マクシミリアンは僕が軍にいたことをパパから聞いたんだろうけど、詳しくは知らないようだったから、改めて聞いてみるように言っといたよ。だから、多分もう来ない」
「……どういうこと?」
「どういうことだろうね。前職がこんなところで役に立つとは思わなかった。まあ、一応今回のことは領主に報告しておくよ。馬鹿息子をとっちめてもらおう。援助を止められて干上がればいい」
 結局どういうことなのかはわからない。
 やはり賢くならねば。飲み込みの悪いリタを、アルは決して馬鹿にしたりはしないけれど、アルの言うことは全部わかるようになりたい。たくさん本を読んで勉強しよう。
 通りの端にある我が家に到着し、鍵を開けて入る。
 耳と尻尾を出してお家モードになってから、台所に置いておいた鞄を確認しにいく。今日調達した食材と本が入った鞄だ。
 ランタンの明かりのもと、目を近づけて鞄の表面を見てみると、幸い、踏まれてはいなかったようだ。借りた本は無事。肉はもう駄目だろうが、それ以外の食材は使える状態だろうか。
 アルは丸椅子を引っ張ってきて座り、一つ一つ食材を作業台に並べるリタの様子を見守っていた。
「言い忘れてたけど、昨日から王都へ行っていたのは、仕事上の新しい所属先が決まったからなんだ」
「え、アル、仕事変わるの?」
「仕事内容は全く同じだよ。雇われ方が変わっただけ。軍を辞めてから、クリスに仕事を斡旋してもらって、フリーで請けてたんだけど、今の依頼元へ正式に所属することが決まった。これで、あの髭おじさんにしつこく戻れと言われることもなくなるはず」
「おめでとう、でいいのかな」
「いいよ」
「おめでとう。よかったじゃない」
「ありがとう」
「王都に引っ越しとかは……」
「ないない。今の暮らしは大きく変わることはないから安心して。ああ、たまーに本部から呼び出しがかかったときは行かなきゃならないかもしれないけど、基本は今まで通り家で仕事するから」
「よかった」
 この家はすごく好きだから、離れたくない。アル一人で出稼ぎに行って別居、なんていうのはもっと悪い。この家で、この街で、アルと一緒に暮らしたい。
 リタがあらかた食材をチェックし終えて、籠に仕舞うのを待って、アルは改まった様子で切り出した。
「……それで、あのさ。定職に就いたということで……。提案があるんだけど」
「なあに?」
「リタに掛けた術、いったん解かない?」
「術?」
「その、お腹の」
「お腹……」
 自分の下腹部を押さえてみる。深く交わりあったときに、彼の名前が浮かぶ場所。術を解いてこれを消すということは、彼のものでなくなるということで——。
 リタは今、とても恐ろしいことを言われたのでは? 腹を腕で守るようにし、背をかがめる。
「なんで? 絶対嫌だもん!」
「いや、違う、違うから。話を全部聞いて」
 アルが近づいてきたので、じりじり後ろに下がる。今日一日で、アルが不思議な術をいとも簡単に行うのを何回も見た。触れるだけで解かれてしまうかもしれない。
「リタ、逃げないで。いったん解いて、掛け直すってことだよ。これを掛けたときは、ただ君が再び連れ去られるのを防ぐっていうだけだったけど、前に言っただろう、本来はパートナー同士が絆を深めるために使っていた術だって。ちゃんとそういう目的で掛け直しをしたいんだ。どう?」
「結局同じことをするだけじゃないの?」
「やり方は多少違う。気持ち的には全然違う」
「解いたらすぐ掛け直してくれる?」
「約束する。これで君はもっと安心できるようになるはずだから。僕を信じて」
「……」
 信じる? 夫婦だというなら信じられるはずだし、相手を信じられないなんて夫婦じゃない。アルに伴侶でいてくれることを望むなら、リタはアルを信じるべきだ。
 この人がリタのためにどれだけのことをしてくれたと思っている。散々尽くさせておいて信じないと言うなんて、彼に対する裏切りだ。
 迷いを振り切るように、アルの手を握る。
「……いいよ。アルがいいと思うようにして」
「よかった。じゃあ、落ち着けるように上に行こっか」
 寝室に、ということだ。術の掛け直しをやって、ちょっとだかたくさんだかイチャイチャして寝る、という流れになりそうだが、リタにはまだやらねばならないことがある。

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