(3)拾われ猫と誓いの契約

 屋根を見下ろす高さまで来て、そこからは地面と水平に、夕暮れ時の街をすいすい飛ぶ。肌を撫でていく風が心地良い。
 眼下には整然と並んだ美しい街並み。リタはあの道をこう通って丘の上まで来て——、すごく長い距離だったように思うのに、上から見るとすぐご近所のようだ。地上を歩く人々は、とても遅くて小さい。
 彼らからも、見上げればこちらを確認できると思うのだが。
「これ、下の人びっくりしないの?」
「当然見えないようにしてる」
「アルって実はすごい人なんだ」
「すごかったら、もっといい暮らしをしてるよ。三流もいいとこだから。ほらほら、ちゃんと下見て。領主の馬鹿息子を探して。なんとか暗くなる前に見つけたいなあ」
 リタも風景ではなく人に集中して見渡してみる。すぐに見つけた。大通り沿いの食堂裏に設置された野外席に、あの人相の悪い男が座っていた。
「あそこにいるの、手下だ。なんか休憩してる?」
「サボってるんだね。お坊ちゃんの部下は忠誠心が薄いようだ」
 手下を見つけて喜んでいる場合ではない。ターゲットはマクシミリアンだ。
 方々を飛び回り、目の奥が痛くなるほど集中して探し、ちょうどリタが手下たちに囲まれた辺りで、アルは止まった。
「あの馬車……。領主の家の紋章が入ってる。ここはさっきも通り過ぎたのに、気づかなかったな」
 人気のない路地の入り口横に、ひっそり隠れるようにして馬車が止まっている。脇の建物の装飾が邪魔になって、上からではとても見えづらい。
「目がいいなあ。言われたって紋章なんか見えないや」
「下りるよ」
 馬車から少し離れた場所にひらりと着地した。恐らく、着地の瞬間も「見えないようにしていた」のだろう。通行人が驚いている様子はない。
 アルは馬車に近づいていく。領主の息子とやり合いに行くというのに、身構えている様子は全くない。いつものアルだ。
 馬車の御者台には、白髪の老人が座っている。アルは老人に向かってペンをかざす。すると、慌てた様子で何処かに走って行く。
「……何したの?」
「ちょっと幻覚を見てもらった。馬は突然動き出したりしないように半分寝てる」
「これですごくなかったら、何がすごいの?」
「僕のことはいいから」
 よくはないのだが、後でも出来る質問だ。今はマクシミリアンのことだ。
 お坊ちゃんが中にいるのは窓から覗いて確認できた。アルが馬車の扉を叩くと、すぐさま開く。
「なんだ。見つかったのか?」
 どうやら、手下と勘違いし、よく確かめずに開けたようだ。マクシミリアンは目をしばたかせて、アルを凝視する。
「……え、誰?」
「話をしに来た」
 アルの言葉がこの国の言葉に切り替わる。彼は問答無用で馬車に乗り込む。手を引かれたため、続けてリタも乗った。
「おいおいおい、何をする」
 マクシミリアンをぐいぐい押し込んで、アルを真ん中にし、三人並んで座る。ゆったりした豪奢な馬車でも、成人男性の三人横並びは、かなりぎゅうぎゅうだ。
「そいつを捕まえてきてくれたのか? ありがたいが、君は誰だ。あいつらから頼まれたのか?」
 お坊ちゃんの態度が手下三人を前にしたときより丁寧なのは、アルの今の身なりがいいからだろう。
 リタは彼らの会話内容を聞き漏らすまいと集中する。さて、言葉の勉強の成果は出るだろうか。
「捕まえてきたわけではない。君に彼を引き渡すつもりはない。なぜ今更彼を狙う。君の父上と話はついているはず」
「は?」
「アルフレッド・ロウだ。父上から僕のことは聞いていないのか」
「……もしかして、お前か。奴隷を自由にしろと父に言いに来たというのは」
「そうだ。君が彼を買った以上の金を、すでに支払ったはず。父上は必要ないと仰ったがね。金がどうのと言って君に付き纏われるのは嫌だから。受け取っていないのか?」
 ——金を支払った? 初耳だ。どういうことだろう。
 マクシミリアンは小馬鹿にしたように笑う。
「受け取ったが、納得はしてない。人の奴隷を横取りするなんて、さすが汚らしい犬なだけある」
 犬とは、アルのことか? アルは獣人ではないのでは? 耳は人間の耳だし、尻尾もないし。もしかして、魔術で人間に化けている? そんなことが出来るのかは知らないが。
 余計なことを考えていたせいで、聞き逃してしまった。
「君の父上も……………」
「父は………………、一緒にするな!」
 早口でよくわからない。
 そこから早口と早口の応酬だった。途中から両者の口調が乱暴になる。罵り合いが始まったのか?
 逆上したマクシミリアンがアルの襟首に掴みかかる。ぎりぎりと力を加えているように見え、リタは焦った。止めに入ろうとするのを、アルは目でやめろと伝えてくる。
 突然、マクシミリアンは手を離し、喉を押さえてゲホゲホと咳き込み始める。
「お前……、何を」
「君のかけた力を、そっくりそのまま君に返しただけさ。僕が犬だった頃に何をしていたか、改めて父上に聞いてみるといい。もう二度と僕にも彼にも近づきたくなくなるはずだ」
 バタンとひとりでに馬車の扉が開く。アルに背を押され、馬車から降りる。続いてアルも外へ。
「おい、話はまだ——」
「さよなら」
 自分も出ようとしたマクシミリアンの鼻先で、扉が閉まった。中から開けようとしているのか、ガタガタと扉が鳴る。
 アルはリタの背を軽く叩く。
「少しの間、開かなくしただけ。行こう」
「……うん」
 彼が胸元にペンを仕舞ったのを見て、内心がっかりした。魔術は終わり。もう飛ばないらしい。楽しかったのに。またいつか機会があるだろうか。
 裏道に入って置き去りにした鞄を回収してから、自宅の方角に向かって、並んで歩く。
 いつの間にか日が沈み、辺りはもう薄暗い。どこからともなく、美味しそうな匂いが漂ってくる。そろそろ夕飯の時間、アルも同じことを考えていたのだろう。
「今日もいつものとこで食べる?」
「そうだね。作って待ってようと思ってたけど、そんな時間ないし」
 いったん家に鞄を置きに帰り、近くの食堂に足を向けた。

 ご近所の仲良し主婦三人で営んでいるというその食堂は、リタがこの街に来る以前から、アルの胃袋を支えているらしい。自炊するより安上がりになることも多いので、おさんどん係のリタが住み着いてからも、二人でよく利用していた。
 アルが普段とは違い、こういった大衆的な店には立派すぎる服装だったために、食堂をメインで取り仕切っているマーサにからかわれた。
「めかし込んで、これから結婚式かい? お嫁さんのドレスがいるわね」
 それを聞いていた他の客から笑いが起こる。
 アルは近所の住人にリタのことを「異国育ちの親戚の子供を引き取った」と言っていたようだが、マーサの話では、仲睦まじげに買い物したり散歩したりする二人の様子から、「あそこは男夫婦だ」とバレてしまっていたようだ。
 恥ずかしさで二人して小さくなりながら、隅の席に向かい合って座った。
 一通り注文し終えた後、アルは頭をかいて、整えた髪を乱す。
「着替えてくればよかった……。なんでそのまま来ちゃったんだろう」
「バレちゃってたんだねえ。外で手を繋いだこともないのに、そんな雰囲気出てたのかな」
 いかにも夫婦のような雰囲気が。隠しているつもりなのに滲み出ていたということは、それはもう、家の中だけの夫婦ごっこではなくて、本物か本物に極めて近いということでは? 思わず顔が緩む。
 兎にも角にも、今日という日を無事に過ごせたことに乾杯し、葡萄酒をあおる。作りたての大皿料理を摘まみながら、気になっていたことを尋ねる。
「僕に呼ばれたって言っていきなり現れたけど、何かの途中だったんじゃない? 大丈夫だった?」
「ああ、あとは帰るだけだったから大丈夫」
「そっか。ならよかった。来てくれてほんとに助かった。ありがとう」
「いいんだ。リタのピンチに、あの術が役に立って嬉しい」
 あのときアルが来てくれなければ、今もまだあそこに隠れたままで、家まで帰れていなかったかもしれない。
 領主の息子という権力者に堂々と立ち向かってくれたのは、実にかっこよかった。いざという時に頼りになる男が一番だ。アルはいざという時だけではなく、いつでも頼りになるけれど。リタの旦那様は本当にいい男だ。
 そうやって、しばらくただうっとりと見とれていたが、はたと我に返る。気になっていることはそれだけではないのだ。
「あの……」
「いいよ。何でもどうぞ」
「領主にお金を払ってくれたって……。聞いたことなかったから、びっくりした」
「ああ、どうせ使う当てのない金だったから、いいんだよ。気にしないで」
 気にしないでと言われても、気になるものは気になる。
「あいつが僕を買った以上の金額って、安くはないでしょ? あの時はまだ恋人でもなかったのに、なんで……」
「君がユリスの出身だと聞いたからかな。あそこで奴隷商人による人攫いが増えたのは、我が国との戦争に敗れて弱体化したからだよ。まあ、僕が君一人助けたところで、ユリスの状況がどうにかなるものでもないけどね」
 それが理由? ユリスがこの国との戦争に負けて、人攫いが増えて……、だからアルはリタを助けた? どういうことだ。戦争や人攫いにアルが関係あるのか?
 スプーンを握りしめて首をひねっていると、アルはこちらに身を乗り出し、声のトーンを落とす。
「で、どこまで理解できた? 僕とマクシミリアンの話」
「んー。犬の辺りからわかんなくなった。アルは獣人じゃないのにって考えてたら、置いてかれた」
「君は僕に都合の悪い内容になると聞こえなくなるんだねえ。犬っていうのはそういう意味じゃないよ。軍の犬っていう意味」
「アルは軍の人だったの?」
「そう。領主も従軍経験があったよねって、マクシミリアンに言ったら、お前と一緒にするんじゃないって怒り出した。そのうち、僕のことだけならまだしも、君のことまで罵り始めたから、僕も応戦したって流れ」
 アルが軍人さん? 全然それっぽさがない。軍人さんといったら、筋骨隆々の熊のような男をイメージする。アルは上背があって、決して貧弱ではないのだけれど、熊というのはしっくりこない。犬も違う。見た目の雰囲気だけで言うなら、何だろう、雄鹿?
 いかにも軍人さんというのは、ちょうど、あの人みたいな。
「ああ、アルを連れ戻しに来た髭のおじさん、前の職場の人だったよね? 軍人さんだったんだ。確かにそれっぽい」
「王立軍の中でも結構偉い人だよ」
「へえ。偉い人に戻ってくるように言われるなんて、やっぱりアルはすごいんじゃん」
「そういうんじゃない。便利に使える人材が必要なのと、単に人手がほしいってだけだよ。魔術師の数が多いほど軍は強くなるから。またどこかに侵攻するつもりなんじゃない」
「ふーん。あ、これいける」
 よくわからないが、世の中そういうものなのか。リタはそんな風にしか感じなかった。二枚貝の酒蒸しの美味しさに気を取られ、二個目を殻から外す。初めて食べる名前も知らない貝だが、なかなかいい。

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