(1)仲間を探して

「なんか値切りみたいですね。この国の人は裕福なのであんまりしないけど」
「だから商売はしやすいな」
 ふと上げた視線がナジと合う。それが何かの合図であるかのように、彼は顔を寄せて、触れるだけのキスをしてきた。
 はて、何のキスだろう。ときどき、ナジの気まぐれがよくわからない。ぽかんと見つめてしまっていたのだろう、彼は眉根を寄せる。
「……なんだ」
「いえ、何も」
 初めはナジを怖いとばかり思っていたが、一緒に旅をしているうち、こうして普通に会話できることも増えた。とは言え、こちらは雇われている立場。絶対にやめさせられたくないので、軽口を叩いたり、気軽に質問をするほど打ち解けることはできなかった。

 朝食を食べるナジを残し、再び市場へ行って店を開けた。
 売り上げが悪ければクビの危機なので、積極的に呼び込みして商品を勧める。このとき話すのは、もちろん故郷ユリスの言葉ではなく、この国の言葉だ。ゲオルト語は商売に関することを中心にナジから教わった。
 今日は客が多く売れ行きがいい。この調子でいけば、一日の目標は達成できそうだ。ウィンスは同じ市場の別店舗を担当していて、そこに負けたくないという対抗心もある。
 さて、次のターゲットは——。なにやらきょろきょろしている、帽子を目深に被った小柄な男が目に留まる。あいつでいいかな。勢いで押したら金を使わせられそうな雰囲気がある。
「お兄さん、何か探しもの? 木のお皿にカラトリー、彼女へのプレゼントにぴったりな可愛いアクセサリー、美しくて丈夫な織物もあるよ。どう、見ていかない?」
 彼は振り向く。こちらと視線が合った瞬間、彼は驚きで目を見開いた。
「……ゼノ」
「リタ……?」
 帽子は邪魔だったが、見間違いではない。二年の間探し求めていた人物がそこにいた。背恰好も、大きな丸い瞳も、帽子からはみ出た、小麦色に茶の毛束が混ざった毛並みも、記憶と同じ。
 まるで降って湧いたような巡り合わせ。神様からのサプライズプレゼントのような。
 彼は駆け寄ってくる。
「ゼノ? ゼノなの? こんなところにどうして……」
「それは俺のセリフ! お前を探してたんだぞ。人攫いにあったって聞いて……。リタ、リタなんだよな?」
「……うん」
「よかった……。よかった。生きてた」
 ぎゅっと抱きしめると、確かな温もりが伝わってくる。ただ匂いだけが馴染みのないもので、ふわりと花の香りがした。香油だろうか?
 リタは興奮気味にゼノの両手を握る。
「ゼノ……、ありがとう。嘘みたい。ゼノだ」
「やっと会えた」
「こんな遠いとこまで、大変だったよね。手紙、書きたかったんだけど、託せる人もいなくて……。心配かけたね、ごめんね。どうやってここまで?」
「ナジさんの行商チームに加えてもらってここまで来たんだ。一人だったら絶対来られなかった」
「そうか、そうまでして僕を……。僕は大丈夫。奴隷として売られたけど、親切な人が助けてくれたんだ。今はその人のところでお世話になってる」
 やはりゲオルトの奴隷商人による人攫いの話は真実だったのだ。ゼノは間違っていなかった。
 それで、今は誰かの世話に、と言ったか?
「お世話っていうのは……、仕事をもらってる?」
「うん、まあ、家事したり、家の壊れたとこ修理したり、身の回りの細々したことやって、食べさせてもらってる」
「下働きってこと? 扱き使われたりは」
「全然! すごくすごくいい人なんだ。助けてくれたのに偉そぶったりしないし、優しいし、勉強も教えてくれるし。そのおかげで、この国の言葉、僕、大分上手くなったんだよ」
「……そうか。よかった」
 リタは質素だが清潔な服を着ているし、髪や肌も汚れていない。獣人だからといって手荒でぞんざいな扱いを受けているわけではなさそうだ。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
 もうすぐ休憩を取れるので、外で話せるか聞いてみようか。ナジは店にいる時間が少なく、他の仕事であちこち出歩いているが、日に何度か戻ってきて店番を交替してくれるのだ。
 口を開きかけたとき、リタは足をふらつかせる。
「どうした?」
「なんかさっきからちょっと熱っぽくて……」
「風邪か?」
 昨日の夜は少し冷えたように思う。ゲオルトも年間を通して温暖だが、故郷のユリスほどではない。
「店の奥で休むか」
「ううん、連れがいるから……」
「——リタ」
 声がしたのは、斜め向かいの鞄屋の前あたり。この国ではあまり見かけない黒髪の男が近づいてくる。頭に獣の耳はないから人間、年はナジより少し上くらいか? 学者や教師のように生真面目そうな雰囲気だ。
 男はゼノを一瞥してからリタの肩に手を置く。男の方を向いて、リタは頬を膨らませる。
「アル! どこにいたの? 探したんだよ、もう」
「ふらっといなくなったのは君だろう。そんなことより、顔が赤いけど……」
 アルというらしい男は流暢なユリス語で話し、リタを覗き込む。
「なんか急に熱っぽくなってきちゃってさ。身体が火照ってくる感じ」
 パタパタと手で顔を仰ぐリタに、男はずいっと鼻を近寄せた。
「……ん、この花の匂い、どこで?」
「花? ああ、さっき向こうの店で、おすすめの香油を塗られた。お試ししてーって。嗅いでるとふわふわしてくる良い匂いだけど、高かったから買わなかったよ?」
「まったく……。いいかい。この花には……」
 耳打ちして何か喋っている。リタはいまいち理解できていない様子だ。
「……サイイン作用ってなに?」
「ああ、後で教えてあげる。とりあえず早く帰ろう」
 ——え、帰る?
 まだあまり話ができていないのに。慌てて割って入る。
「あの、リタ、その人がそうなの? 今世話になってるっていう?」
「そうだよ! あのね、アル、彼は故郷の孤児院で一緒だった友達。ゼノっていうんだ。僕をわざわざ探しに来てくれたって」
「そう、遠いところからわざわざ来てくれたんだね」
「もう少しゼノと話してたい」
「でも、これからもっと調子悪くなってくるかもしれないよ」
 どうしよう、このまま行かせてもいいものか? 本当は引き留めたい。あんなに探していたリタが目の前にいるのだから。しかし、ゼノは店があるため介抱してやれない。
 幼い頃からずっと一緒だったから、リタの些細な表情から感情を読み取ることには長けているつもりだ。リタがアルを嫌がっている雰囲気は全くなく、むしろその逆。いい人だと自信満々に言っていたし、信頼しているようだから、任せて大丈夫だろう、おそらくは。
「別に今日じゃなくてもいいよ。しんどいんなら無理するな。俺たちがユリスに帰るまで、あと何日かある」
「どれくらい?」
「二、三日のうちなら確実」
 ここにはあと五日ほどだとナジに言われたが、予定は早まることもある。余裕を持って伝えておいた方がいい。
「うん……。絶対明日も来るよ」
「おう。待ってる」
「ほんとにありがとう」
「いいんだ。何でも助け合ってきただろ、俺たち」
 再びハグを交わす。諦めないでよかった。またこうして抱きしめることができた。
 去っていくリタとアルは、下働きと雇い主とは思えないほど距離が近かった。リタを支えるためというのもあるのだろうけど、なにもあんなにべったり引っ付かなくてもいいのではないかと思う。
 彼らの後ろ姿をじっと見送っていると、入れ替わりでナジが裏口から入ってきた。帽子のせいでせっかくの毛並みがほとんど隠れてしまっているが、外では致し方ない。
「どうだ、客の入りは」
「今は落ち着いてます」
「そうか」
 隣に並んできて、さりげなくゼノの腰回りを一撫でする。
 朝のキスもそうだが、何なのだろう。時々スキンシップの延長のようなことをしてくるけれど、ゼノとリタのハグのように親愛の情を示すためのものではなさそうだし、もちろんセックスに誘うためでもないし、脈絡なく謎の行動に思える。手持ち無沙汰のとき自分の尻尾を弄るみたいに、何となくそこにあるから触るだけ?
 ベッドの中でもないのに距離を詰められていると落ち着かず、商品の並びを直す振りをして離れるべきかどうか迷っていると、ナジの方から理由をくれた。
「今のうちに休み取ってこい。その間俺が入る」
「はい、ありがとうございます」
 そそくさと出ていきかけて、立ち止まる。ナジは色々な商品を見ているから、知っているかもしれない。
「あの」
「なんだ」
「サイイン作用のある花って何かわかりますか。香油になってるやつ」
「……何だ、お前、そういうのに興味があるのか?」
 そのときのナジは、無知な質問に呆れているふうでもなく、聞いてはいけないことを聞かれて怒っているふうでもなく、想定外のことを言われて驚いているという感じだった。
 リタが心配で尋ねただけなのだが、そんなに変だったのだろうか。
「興味っていうか、何のことかなって」
「わかったわかった。調達しといてやるよ」
「いや、欲しいわけじゃないんです。ただ気になっただけです」
「いいから早く行け。忙しくなる前に戻ってこい」
「はい……」
 追い払うように手を振られ、それ以上尋ねることはできなかった。
 そういえば、リタのことを話せなかったな。一日の仕事が終わって、落ち着いてからの方がいいか。
 駆け足で市場の外へ出る。リタたちはまだその辺にいるかもしれない。大通りを人の流れの多い方へ当てずっぽうで進んでいくと、寄り添いあいながら歩くリタとアルの姿を発見した。
 すぐに声をかければよかったのだが、彼らの周りには邪魔をする第三者を拒む何かがあって、躊躇っているうち、そのままついていく恰好になってしまう。
 リタはどんなところで暮らしているだろう。家まで偵察に行ってみるのもいいかもしれない。ナジに報告できることも増える。
 恐らく近道であろう、表通りと裏通りをいくつか経由したのち、家々の窓辺を飾る花々が美しい通りに出る。彼らが入っていったのは、その一番端にある家だ。
 二人が消えていった玄関扉の前に立ち、観察する。なかなか良い家だ。周りはゴミなどなく清潔だし、造りは頑丈そうで、嵐が来ても屋根に穴が開くことがなさそうだ。窓は割れておらず、綺麗に拭いてあってピカピカ。中までよく見え——。
「……ん?」
 一階の窓辺に二つの人影。どうやら抱きあっているようだ。リタがふらついたのを支えただけ——というわけではないらしく、キスを始めてしまった。唇と唇、しかも触れあうだけでは終わらない。あれは、性的衝動をぶつけあって、より深くまで相手を味わおうとするときの。
「え……」
 どういうことだ。リタは下働きとして雇われているのでは? もしかして性的な奉仕も求められているのか?
 彼らの姿が窓から消えた。寝室へ行ったのだろうか。何歩か下がって、二階の窓のうち、大きい方を注視していると、人影が確認できた。もしもリタが意に添わないことを強いられているとすれば、ゼノが止めないと。
 周囲に人がいないのを確認し、雨樋を伝って二階部分へ上がる。尻尾をズボンの中に仕舞ったままだとバランスが取りづらいが、なんとか足を伸ばして外壁の装飾部分の出っ張りに乗り、二階の窓の柵へしがみついた。足を置く場所を確保しているので、意外と安定している。
 窓辺の植木鉢の向こうに、ベッドの上、裸で抱きあう二人が見えた。

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