(2)レレシーにて

 国境を越えて二日目。出入りの監視が厳しい王都を避けて迂回し、変わり映えのしない退屈な森を抜けると、やっと故郷の街が見えてきた。馬車の荷台から顔を出したゼノは、同乗者のナジに言った。
「見てください! もうレレシーは目の前ですよ!」
「知ってる。何回この道を行ったり来たりしてると思ってるんだ。お前もそもそろ慣れろ」
「毎回感動するんですもん。わあ、皆どうしてるかなあ」
 ナジは相変わらずつれないが、ゼノはわくわくしていた。もうすぐ仲間に会える。仲間——ここでそう呼ぶのは、同じレレシーの孤児院出身者のことだ。
 街には緩やかにまとまったグループがいくつか存在している。貧民街という場所柄、素行のよろしくない者や血気盛んな者も多いのだが、孤児院出身者は温厚な平和主義者がほとんどで、おまけに仲間意識が強いため、彼らのグループには属さず、大概皆、院出身者同士で固まっていた。
 孤児院は街の自治組織に手厚く守られているため、そこの出身者たちは温室育ちの苦労知らずだと、外の世界を逞しく生き延びてきた他の若者からは揶揄されることもある。そんな彼らと打ち解けようと努力するより、価値観の合う仲間と過ごした方が気楽だというのが、大方の仲間に共通する意見だ。——孤児院を出た後もレレシーで暮らす院出身者の中で、その輪から外れているのは、ナジくらいだ。
 彼は周囲の音を集めるように三角の耳を動かす。
「異常は……、特にないみたいだな」
「ですね」
「ああ、そうだ。今日の夜、月夜猫亭で仲間と集まることになると思う。お前も来いよ」
「仲間って自警団の人とか?」
「あとは旅先から帰ってきてる他の行商とか、事務所のやつとか」
 自警団とは、住人同士の揉め事を解決したり、街の外からやって来る脅威から住人たちを守ったりする、治安維持を目的とした組織だ。街を正常に保っていくために彼らは欠かすことが出来ず、住人から大いに頼られている。
 自警団においても、行商たちをまとめる行商会においても、ナジは指導者的な役割を果たしていた。近頃はリタ捜索のため行商の方を優先していたようだが、自警団での存在も変わらず大きいらしい。
 なぜナジがレレシーでここまでの力を持つようになったのか、ゼノは知らない。自警団を牛耳りだしたのは、行商で成功したのと同時期かそれより少し後だったようだが、その動機も方法も、本当のところは不明だ。彼は自分のことをあまり話したがらないから。
 なんにしろ、ゼノは自警団の連中が苦手だ。レレシーに自警団が必要だとはいえ、彼らは「血気盛んな者」の集まりだったから、馬が合わない。
「俺、あんまり仲いい人いなくて」
「お友達も連れて来ていいぞ」
「……わかりました。声かけてみます」
 気乗りはしないが、ナジに言われれば仕方ない。なるべく目立たないように大人しくしていることにしよう。
 街に入り、行商会の建物の前で馬車が止まる。御者はウィンスと交替でやって来た男が勤めてくれていた。
 馬車を降りると、到着を待ち構えていた住人たちが一斉に近寄ってくる。その中にゼノの同居人である仲間の姿もあった。薄茶色に黒の毛束が混ざった毛並みの男が、リタと色違いのしましま尻尾をくねらせながら、元気よく駆けてくる。
「ゼノ、おかえり!」
「ただいま、ミッシュ。わざわざ仕事休んで来てくれたのか」
「そりゃもちろん! 皆来たがってたけど、一応俺が代表ってことで」
 約二ヶ月ぶりの再会を喜び、ぎゅっと抱きしめ合う。
 長旅に疲れただろうと鞄を持ってくれたミッシュは、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ、リタは? 見つかったんだよね?」
「耳が早いな。誰から?」
「先に帰ってきたウィンスが言ってたよ。一緒じゃないの?」
「あいつは……。その話は帰ってからするよ。この馬車にはいない」
「そうなの? じゃあ早く帰ろう」
「ちょっとだけ待って。ナジさんに挨拶……」
 夕飯に誘われているからまたすぐ会うことになるとはいえ、一言入れておいた方がいいだろう。
 ナジは探すまでもなく視界に入ってくる。あのキラキラ輝く白い毛並みは、とても目立つ。
 彼はたくさんの住人たちに囲まれていた。厳つい自警団のメンバー、行商会本部事務所の人、自治組織の重鎮、そのどれでもない取り巻き。それから——夫の帰りを待っていた妻のように彼に寄り添う女。
 熱がさっと引いて、現実に引き戻される感覚がした。そうだ。ここはレレシーだ。この街において、治安維持と金の流れを握るナジは特別な存在。特に若者たちに対しては、王様みたいな、といってもいいくらいの権威を持っている。
 多くの人が彼を必要としていて、皆彼の近くに行きたがる。ついさっきまでゼノが隣に並んで話をしていたのに、もうあの場所はゼノのものじゃない。
 リタからゲオルトに留まると言われ、落ち込むゼノに寄り添うような態度を見せてくれたときから、ナジとの距離はいっそう近くなった気がしていた。でも——、これが現実。
 胸の奥が痛い。これまでだって、旅先から帰ってくるたびに感じていた、奇妙な喪失感。なぜだろう、今日はひときわ痛みがひどい。
 ミッシュは小首を傾げる。
「ゼノ、どうしたの?」
「いや……、ナジさん、忙しそうだからいいや」
「そう? なら行こ」
 並んで歩き出す。
 首を振って、ゼノは正体不明の痛みから懸命に目を背けようとした。痛みの原因を追えば、さらに苦しくなる気がしたから。
 

 ゲオルトの整然とした街並みとは異なり、レレシーの街は新旧入り交じってごちゃついている。住人以外は必ず迷子になる複雑に入り組んだ通りを早足に歩き、久しぶりの自宅へ着く。
 この辺りは孤児院や医院があるエリアで、自治組織や自警団の目も行き届いているため、比較的治安がいい。住むにはいい場所だった。
 住み慣れた我が家に入る。ミッシュ一人だったためか、少し散らかっているようだ。脱ぎ散らかした服がそのままになっているし、リンゴの皮の切れ端が床に落ちているし、なんだか空気が埃っぽいような。片付けと掃除の必要がありそうだが、それはまあ明日以降でいいだろう。
 ここは元々ミッシュの姉が住んでいた家だ。彼女もミッシュも孤児院出身。何か院に恩返しをしたいと考えた彼女は、院を出たばかりの少年少女を一時的にここに住まわせ、外の世界に慣れるまで面倒を見る、という活動を行っていた。だが、結婚してレレシーを出ていくことになり、頼み込まれたミッシュがその活動を引き継ぐことになった。
 ゼノがここで暮らしだしたのは、一人で苦労するミッシュの手伝いを始めたのが切っ掛けだ。手伝いをするうち、院にいたころのような賑やかな暮らしが居心地良くて住み着いてしまったのだ。現在、面倒を見ている新入りはおらず、来月また二人入ってくる予定だ。
 ひとまず服をどけて、古びて軋む椅子に座る。ミッシュは早速尋ねてきた。
「それで、リタはどうしたって?」
「ああ、あいつは……、その、あっちに残るって」
「え、なんで?」
「あっちで恋人が出来て、そのまま一緒に暮らしたいんだってさ。仕方ないよ。めっちゃ仲良さそうだから引き離すのも可哀想だし、それにゲオルトではこっちよりいい暮らしができる。あっちにいた方がリタにはいいんだ」
「……そうなんだ。楽しみにしてたのに」
 ミッシュはわかりやすく肩を落とす。
 ゼノと同じく、彼もまたリタと年が近く、共に過ごした時間が長かった。家族同然の相手と突然別れたまま、もう二度と会えないかもしれない。その事実は重い。
 こんな報告をするのはゼノだってつらいが、しかし、何より大切なのは仲間が幸せでいることだ。きっとミッシュも受け入れてくれるはず。
 ゼノは鞄をあさり、リタからの預かり物を取り出す。簡素な白い封筒だ。
「リタからの手紙だよ。読もう」
「俺、あんまり文字読めないよ」
「俺はちょっとだけナジさんに習ったから読んでやるよ」
 便箋を広げ、ゼノは一文字一文字音にしていく。
『みんなへ しんぱいかけてごめんなさい。ぼくはげんきです。とてもやさしいひとにたすけてもらって、そのひととくらしています。みんなもげんきで。またあいたいなあ。リタ』
 これを書いているときのリタを感じ取ろうとするように、ミッシュはじっと文面を見つめる。
「これ、バロやララたちにも見せてあげたいな。今晩、お昼寝子猫亭でゼノのお疲れ様会を開こうって事になっててね。仲間がたくさん来るよ。そのとき見せよ」
「あ、ごめん……。今晩はナジさんに呼ばれてるんだ。月夜猫亭でナジさんとその仲間たちが集まるから来いって。友達呼んでいいって言ってくれてる。バロたちも誘ってそっちに行かないか?」
「えー。月夜猫亭って柄の悪い客が多いから好きじゃない。せっかく帰ってきたんだから、ナジさんのお世話しなくていいじゃん。お昼寝子猫亭にしようよ」
「そういうわけにも……。リタと再会できたのはナジさんのおかげだし、逆らうのもなんか怖いし」
「ナジさんっていっつも偉そうだからあんまり好きじゃない」
 その気持ちは理解できないでもない。行商を始める前のゼノもそうだった。だが、旅先で彼と接するうち、苦手意識も徐々にではあるが薄らいでいった。
「そんなこと言うもんじゃないぞ。あの人はレレシーのために色々やってくれてるんだから」
 色々してくれているから、多くの人から必要とされていて、ゼノもその「多く」の一人に過ぎなくて——。そのことがどうしてこんなにも胸を痛くさせるのだろう。
 

 結局、夕飯を食べに訪れたのは、月夜猫亭の方。同時期に在院していた仲間が十五人程度集まってくれた。
 広い店内で、ナジのいる賑やかなテーブルからは離れ、端っこで固まって飲む。わざとナジに背を向けて座れる席を取った。気分が沈むから、今あの人をあまり視界に入れたくない。
 リタのことを一通り報告すると、皆一様に残念そうな表情になった。ゼノの左隣に座ったバロもだ。大柄で逞しい背中が丸まり、黒い耳も尻尾も下がっている。
「これからゲオルトで暮らすにしても、最後に一回は会いたかったなあ」
「だよねえ。手紙だけなんてあんまりだよ。でも、実際、リタがこっちに来るのも俺たちがあっちに行くのも難しいからなあ。仕方ないのか。うーん、けど——」
 右隣のミッシュの嘆きを、突如上がった大笑いが遮る。ミッシュは両手でテーブルを叩く。
「ほらぁ、馬鹿みたいに大っきい声! 絶対あれ自警団の奴らだよ。やっぱりお昼寝子猫亭がよかった!」
 自警団メンバーはお祭り騒ぎが好きで、彼らがよく出入りしているこの店は、大抵いつもがやがやうるさく、酔っぱらい同士の喧嘩も多い。
 対して、家族連れや老人たちが多いお昼寝子猫亭は、子供の声で賑やかなことこそあるものの、落ち着いていてのんびりした雰囲気だ。平和と平穏を愛する院出身者グループはお昼寝子猫亭が好きなのだ。
 バロは、ゼノを挟んでミッシュに酌をしてやりながら、まあまあ、と宥めにかかる。
「でも、さすがにナジさんの誘いを断ったら、ゼノの立場が悪くなるだろ。これからも行商続けるんだよな?」
「うん、そういうことになった」
「なんでさ。リタが見つかるまでって話じゃなかった?」
「んー、なんか人手不足か何かなのかなあ。引き留められて」
 明確な理由は教えてくれなかったが、恐らくそうなのだろうと思う。
 ミッシュはゼノの皿のハムをつまむ。

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