(2)レレシーにて

 一階から二階、さらに屋上へ。満月の夜。頭上には満天の星がきらめく。高台に立つこの家からは、遮るものなく見渡せる。
 命あるものがこの世での生を終えると、大切な人への思いを星にして残し、天国に行くのだという。空の星々が美しいのは、大切な人を思う誰かの心が美しいからだ。
「綺麗ですね」
「おあつらえ向きだな」
 ナジが木製テーブルの上にランタンを置いたので、ゼノもその横に並べて置く。テーブルにもたれかかった彼は、組んでいた腕を解く。
「まず、さっきの件だが」
「さっきの?」
「『俺の何がとかどこがとか』という件」
「教えてくれるんですか?」
「話さないとお前は納得しないだろう。長くなるが、とりあえず聞け」
「はい……」
 長くってなぜだろう。そんなに誉めるところがあるんだろうか。ゼノも知らないゼノの魅力が……、ないか。調子に乗っているといい加減怒られる。
 ナジはぽつぽつ語り出す。
「何から話すかな……。やっぱり最初からかな。行商にしてくれって直談判しに来たお前に、女になれって言ったのは、揶揄っただけのつもりだった。人手は足りてたし、不慣れなやつを一から教育するのは手間だから、ちょっと脅して適当に追っ払って、リタ探しだけ俺の方でやればいいって。でも、お前は条件を受け入れた。馬鹿なやつだと思ったし、面白いやつだとも思った。初めはそれだけだった」
「……はい」
 思っていた答えとは違うが、真剣に何かを伝えようとしてくれていることはわかったので、静かに耳を傾ける。
「確かにお前は要領よくないし、鈍臭いところあるし、世間知らずだし、すぐには使い物にならなかったが、でも、ものすごく一生懸命でひたむきだった。異国の言葉も計算も物の売り方も、ほぼゼロの状態から、なんとか吸収しようと必死だった。それだけじゃなく、知らない土地では不安も恐れもあるだろうに、余った時間で街をくまなく歩き回って……。全部たった一人の友達のためだ。そこは素直に好感が持てた」
 そうか、ちゃん見ていてくれたんだ。何も言わないだけで。偉そうなだけの人ではないって、わかっているつもりだったけれど。
「お前がそのつもりみたいなんで据え膳は食ってみたが、思いのほか相性よくて、ラッキーだって思ったな。自分好みに仕立てていくのも楽しかった。そんなことを続けて……、何度も一緒に行商の旅に出て。別に明確な何かがあったわけじゃない。馬鹿正直で、こっちが息苦しくなるほど我慢強いところとか、あんな始まりだったのに健気に後ろをついてくるところとか、色々見ているうち、気づいたらずっと側に置いておきたくなっていて、こいつのためになることをしてやりたいだとか、月並みなことを考えるようになっていた。リタ探しだって、途中からリタのためにやっていたのかお前のためにやっていたのかわからん。まあ、気づかないところで苦しめてもいたみたいだけどな。昨日みたいに」
「そんなこと……ないわけじゃないですけど、でも、ナジさんには、俺、ほんとに感謝してて」
「今はいい。そういうのは。うん、まあ、とにかくそういうことだ。ここまでが前置き」
「え、前置き……?」
 それにしては長くないか? こんなにたくさんの言葉をこの人から貰えるなんて思っていなくて、自分の中で処理しきれず、すでにいっぱいいっぱいになっている。これ以上は貰いすぎだ。
 ナジはポケットからナイフを取り出す。ロマンチックな雰囲気には不似合いな代物だ。
「切るのと抜くのとどっちがいい?」
「……何を?」
 なにそれ怖い。拷問の前に聞かれるやつみたい。
「まあ、抜けばいいか」
 彼はナイフを仕舞う。そして、何を思ったか、自分の髪を掴むと勢いよく引っ張る。
「わあ、もったいない!」
「一本だけだ。手を出せ。左手」
「え、なんで」
「いいから」
 おずおずと左手を差し出すと、彼はその手を取り、抜いた髪を小指に巻きつけて結ぶ。
 目の前の出来事が信じられず、何度か瞬く。これは現実か? ゼノの願望ではなく?
「ナジさん、これって……」
「早くお前も。俺が抜いてやろうか。一思いにブチッと」
「自分でやります」
 ナジにやらせたら大きな禿げが出来そうだ。長そうな部分の髪を一本抜く。ナジは素っ気なく左手を突き出してきた。
「ほら」
「……いいんですか?」
「俺からやり始めたんだから、よくないわけないだろ」
「じゃあ……」
 彼の小指に二周巻きつける。だが、緊張して上手く結び目を作ることが出来ない。
「ほんと不器用だな」
「だって暗いし……」
「明かりの近くでやれば?」
 ランタンの近くに手を持っていく。集中して、何とか結べた。結んでしまった。どうしよう、これってそういうことだよね?
 事の重大性を理解しているのかいないのか、ナジは平然としている。
「このあとは何だったかな」
「このまま一晩一緒に過ごして、朝になったら一つのパンを半分こして食べるんです。ミッシュのお姉さんが教えてくれました」
 この辺りに昔から伝わる夫婦の契りの儀式だ。幼いときは皆憧れるもの。
「そうか」
「あの、ナジさん……」
 何もここまでしてくれなくたっていいのに。ゼノなんかのために、こんなこと。
 見上げてくるゼノの視線から、ナジは言いたいことを察したらしい。
「自分に言葉が足りないことは自覚している。商売絡みだとべらべら喋れるのに、お前のこととなるとてんで駄目だ。日頃のツケが回ってきて、昨日お前にぶち切れられて、このままじゃいけないと反省した。それで……、こういうことぐらいしか思いつかなかったんだ」
 拗ねたような子供っぽい表情だった。こういうことを言うと確実に怒られてしまうけれど、なんだか可愛い。
「あの、嬉しいです、とても」
 小指の、ナジの髪の毛が絡みついている部分に口づける。彼の抱える不器用さが、たまらなく愛おしくなった。
 好き同士、か。照れくさくてあったかくてこそばゆくて、不思議な響き。
「ナジさんの気持ち、ちゃんと受け取りました」
「やっとか。まったくお前は鈍すぎるんだ」
「ナジさんがわかりにくすぎるんです」
 好きだって、それだけでいいのに、こんな回りくどいことをして。
 強い風が吹きつけてきて、腕をさする。少し肌寒くなってきた。ナジはゼノの腰を抱く。
「中へ入ろう。夜は冷える」
「ですね」
「今日はいじめてほしい? 優しくしてほしい?」
「ナジさんのしたいように愛して」
 ゼノからキスをする。彼は満足げだった。
「いい返事だ」
 

 明くる朝、ベッドの上で裸のまま、お決まり通りパンを半分こして食べた。口の端についた食べこぼしを、ナジがぺろぺろ舐め取ってくるのがくすぐったかった。小指に結んでもらった髪の毛は、つけっぱなしにしていると必ず無くすので、小箱に入れて大事に取っておくことにした。
 自宅に帰ってから、昨日の出来事をミッシュに報告すると、身内でお祝いパーティーをしようと張り切り出し、必死で止めた。新情報として、午前中には仲間内にほぼ広がり、彼らがせっせと周知に勤しんだため、日が沈む頃にはそれ以外のかなりの数の住人の耳にも入ったようだ。
 短期で働かせてもらえるよう農園へ挨拶に行ったときも、農園主の妻に馴れ初めなど聞かれ、しどろもどろになってしまった。
 引っ越しが決行されたのは、その三日後。晴れた日の午後に荷車を借りてきて、ナジ宅へ荷物を運び込む。木箱が二つ、自分で思っていたより量が少なく、一回ですんだ。
 一人で出来るとは言ったのだが、その日ナジは出かけずに家にいてくれた。とりあえずの部屋として宛がわれた客間に木箱を運び入れる。
 すぐに必要そうなものを箱から取り出しているゼノの傍らで、ナジは手紙のような紙の束を読んでいた。暇潰しに読んでいるのか、今読まなければならないから読んでいるのか、どっちだろう。話しかけてもいいのだろうか。
 迷っていると、ナジがこちらを見て、なんだ、というふうに目で問うてきたので、話してもいいのだと判断した。
「俺、これからやっていけるか不安です……」
「何を?」
「だって、街の人皆俺を見てヒソヒソしてるんですよ! 今日だって、荷車引いてるときにめっちゃ見られて」
「誰かいじめる奴がいるのか? 摘まみ出すか」
「気軽に摘まみ出さないでください。ここでしか生きていけない人、いっぱいいるんですから。いじめられてるとかじゃないんです。これまで日陰で生きてきたんで、急に注目されると怖い」
「放っておけ。すぐに飽きるさ」
 飽きる、か。不安を煽る言葉だ。だからついこんな考えに走ってしまう。
「……ナジさんも?」
「なんでそうなる。飽きる気がしないね」
「ほんとに? まあ、飽きたら言ってくださいね。すぐ出てきます」
「お前はまったく……」
 ナジはチェストの上に紙束を放り出し、こちらに歩み寄ってくる。いったい何事かと作業の手を止めると、いきなり両頬をつままれた。
「いひゃいれすー」
「すぐ外れる髪の毛じゃなく、小指に入れ墨でも入れてしまえば満足なのか」
「駄目ですよ! ナジさんは指も綺麗なんだから、入れ墨なんて」
「物のたとえだ、バカ」
 頭をはたかれる。痛い、が、ナジらしくて安心する。彼から変に丁重な扱いを受けるのは、嬉しい反面、居心地が悪くなることがあるのだ。
 ナジは木箱の中身をしげしげと覗き込む。
「荷物はこれだけか? やけに少ないな」
「こんなものですよ。共同で使ってた物は置いてきたので」
「服とか全然無いじゃないか。お前、いつも同じのばっかり着てるもんな。よし、買いに行こう」
「いいんですよ、俺は別にこれで……」
「つべこべ言わずに早くしろ」
 手が差し伸べられる。それを取らない選択肢なんてゼノにはないのだけれど、一度だけ無駄な抵抗を試みる。
「……一緒に行くの恥ずかしい。また見られる」
「慣れろ」
 一言で片付けてしまい、ナジは消極的なゼノの手を掴んでぐいぐい引っ張っていく。新居の外へ出ると、日の光が眩しくて目を細める。レレシーの青空は、今日も澄み渡っていて美しい。
 どうせ二人で行くなら、いっそ開き直って、買い物を楽しんだ方が賢明かもしれない。せっかく何でもない日常の時間を一緒に過ごせる機会なのだから。今日は人目を気にしない日にすると心に決め、ナジの後を追った。

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