(2)レレシーにて

「新しく院から出る子たちがここに来ることになってるから、その子たちと入れ替わりで……」
「それっていつだ」
「来月の半ばくらい」
「遅い。明日にしろよ。身一つで来たらいい。必要なものは買ってやる」
「いや、いくらなんでも……」
 持ち物は少ないが、それでも思い出深いものはあり、それら全部を一日でまとめきれるとは思えない。ああ、とりあえず引っ越して、後から荷物を移動させるのもありなのかな。
 ゼノだってナジと一緒にいられる時間は長い方がいい。帰る場所が同じなら、どんなに忙しくたって顔を合わせる時間を少しでも作れるから、これは願ってもない申し出なのだ。だから——、どうしよう。あれ、なんだっけ。ああ、駄目だ。目蓋が重力に負けそう。
「……眠いのか?」
「すっごく。ナジさんは? 疲れてないんですか」
「いいよ、寝ろよ。この話は明日にしよう」
「はい……。ねえ、このまま朝までいる?」
「いるよ。いるから」
「……うれしい」
 彼の腕に頭を預け、温もりに包まれながら眠りについた。
 

 夢の中で、ゼノはとんでもなく手触りの良いふさふさしたものに触っていた。夢だけど夢心地の気持ちよさ。手が幸せ。これはいったいなんだろう。あったかくて、細長くて、とっても大事で愛おしくて。もっと近くでよく見てみよう。重い目蓋を開く。
 そこにはナジがいて、ゼノは腕の中に抱え込まれていた。彼はもうすでに目を覚ましていたようだ。
「……おはようございます」
「ああ」
「ナジさんの方が早いなんて珍しいですね」
「そんなにぎゅうぎゅうやられたらさすがにな」
 ナジが視線を落としたので、それを追ってみる。暑かったのか布団はずれていて足下にあり、ゼノの手には白くてふさふさしたものが握られていて——。
「わあ、ごめんなさい!」
 慌てて離す。ゼノが握り込んでいたのはナジの尻尾だった。
「自分のでは飽き足らず俺のまで弄りだしたか。よっぽど好きなんだな」
「別に尻尾好きってわけじゃないんです。ナジさんの毛並み、綺麗だから、思う存分触りたいという願望が表に出てしまい……。ごめんなさい。もうしません」
「触るくらいなら好きにしろ。寝てるときはやめてほしいが、起きているときなら」
 ナジは起き上がると、ベッドを降りる。床に落ちた服を拾って身につけ始めたので、ゼノもそれに続いて支度をすることにした。
 触っていいって本当かな。尋ねたかったけれど、気になることが新しく出てくる。昨日は確かそのまま寝てしまったはずだが、尻の中に愛し合った後のなごりが残っている感じがない。もしやナジが? そんなに献身的なタイプではないはずなのだが。
「ナジさん、昨日……」
「そうだ。昨日の話の続きだが、今日だぞ」
「へ?」
「引っ越し」
「いや、その話じゃなくて」
「なんだ、嫌なのか」
「嫌じゃないですけど」
「じゃあ、決定」
 一方的に言って、早くも服を着終わったナジは、さっさと部屋を出ていこうとする。
「待ってくださいよ」
「誰かさんが寝坊したせいで、今頃俺の家には迎えが来てる」
「起こしてくれればよかったじゃないですか」
 急いでシャツを羽織って追いかけた。
 ドタドタと階段を降りていくと、居間ではミッシュが一人で朝ご飯を食べていた。
 ——彼がいるのを忘れていた。言い訳を全く考えていなかった。いや、言い訳しようもないか。最後の方は全く声を我慢できていなかった気がする。ウィンスによると最中のゼノはかなりうるさいらしいので、確実に聞こえていたはず。
 仕事仲間に聞かれるのも嫌だが、家族同然に育った友達に聞かれるのは、またそれとは違う恥ずかしさがあった。
 ミッシュはこちらに顔を向けた。一見したところ、いつもの態度と変わりないように見える。
「朝ご飯食べる?」
「ああ、うん……」
「ナジさんは?」
「いらん。急いでるから」
 ナジは居間を出て玄関の方へ歩いて行く。言うべきことは言っておかなければ。今ミッシュを見て決めたことだ。玄関から出る前に引き留める。
「あの、引っ越しのことなんですけど」
「なんだ」
「一応、ミッシュに報告してからにしたいんです。今一緒に住んでるわけだし」
「今すぐ話せばいいだろう」
「話すとなったら、他にも色々言わなきゃいけないことがあって……。それで、今日中はやっぱり無理だと思います。ごめんなさい」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないって言いましたよ」
 同居の話が嬉しいのは本当のことだ。
 説得するには時間がないと判断したのか、折れたのはナジの方だった。
「……まあいい。とにかく泊まりには来い。いいな」
「はい」
 畏まって頷くと、ナジは腰をかがめて口づけてくる。
「わあ」
「じゃあ、また夜に」
 してやったりと笑って、ナジは出かけていった。
 軽く息を吐いて振り返る。柱の陰には、様子を見守っていたらしいミッシュの姿があった。
「ご飯出来てるよ。いつものようにパンとチーズだけだけど」
「……うん、ありがとう」
 多分キスは見られた。ナジめ、わざとか? 言い訳をして誤魔化そうとするのは諦めた方がよさそうだ。
 居間でミッシュの用意してくれた朝食を取る。さて、どうやって切り出そう。謝罪と説明なら、まず謝罪からか。
「あの、昨日はごめん。ここはミッシュの家なのに、寝室から閉め出すみたいになっちゃって」
「うん、まあ、それはいいんだけど、引っ越すの?」
「聞いてたんだね……。そうなんだ。ナジさんが突然言い出してさ。困っちゃうよね。あ、ちゃんと手伝いには来るよ」
 毎回、新入りが来たばかりの頃は、彼らの世話で忙しい。単純に家事の量が増えるし、ここを出た後の新居探しもしていかないといけないし、ぼったくられない買い物の仕方や、不良に囲まれたときの対処方法など、教えないといけないこともたくさんあるし。あとは、雇用先で問題を起こしてしまったら、そのフォローもする。
「それは助かる。俺、元々年下の面倒見るのとか苦手だからさ。ゼノがいてくれないと。……にしても」
 興味津々というふうに、じっと見つめられる。来るか。どんな質問だ。ミッシュは言いたいことははっきり言う性格なので、何が来ても動じないように構えておかないと。
 恐る恐る先を促す。
「……なに?」
「うーん、まあ、好き同士ならいいんじゃないかなあ」
「スキドウシって」
 異国の都市の名前か何かか? ミッシュはなんだか楽しそうだ。
「ゼノが物を投げつけ始めたときは焦ったけど、ナジさんが反撃する様子もなさそうだし、とりあえず見守ってたんだよね。そしたら……。うふふ」
「……見てたの?」
「途中までだからね? ほら、ひどい喧嘩になったら止めなきゃいけないから。結局はただの痴話喧嘩だったなんてねー」
「ちわ……、とか、そんなことする間柄じゃないよ」
「え、だって付き合ってるんだよね? 女の子とイチャイチャしてるとこ見てゼノが怒ったから、ナジさんがご機嫌取りに来たってことでしょ」
「違うような違わないような」
「一緒に住むなんてね。お幸せに。皆にも報告しようよ。もちろんお昼寝子猫亭で」
 仲間たちにはいずれは知られることだ。伝えるのは早い方がいいかもしれない。
 朝食の後、ミッシュは仕事に出かけていった。ゼノはゼノでやるべきことをこなしていく。旅の荷物の片付け、これはすぐに終わった。それからミッシュが溜め込んでいた家事をのんびりやって過ごし、早めの夕食はお昼寝子猫亭で食べる。
 ミッシュとバロがすでに喋っていたようで、昨日月夜猫亭にいた仲間は全員知っていた。ナジに近づきたがっていたララの反応が心配だったのだが、彼女は他の皆と同じく祝福してくれた。本気で恋人の座を狙いにいっていたわけではなく、あわよくば、という程度だったらしい。あちこちから飛んでくる質問を躱すのが大変だった。
 

 お昼寝子猫亭からナジ宅へ向かう途中、当のナジとばったり会った。ランタンを片手に夜道を並んで歩く。夜は柄の悪い連中に絡まれる危険性も高まるが、彼といると安心だ。
 ちらりと隣のナジを窺う。よし、機嫌は悪くなさそう。お昼寝子猫亭で仲間たちに勇気づけられ、尋ねたいことを切り出す勇気が出た。さあ、思い切って。
「あの、ナジさん」
「なんだ」
「俺たちって『好き同士』なんですか?」
「……あ?」
「なんて言えばいいんだろう、恋人?」
「なんで疑問形なんだ」
「絶対そうだって皆言うんです。でも、なんか全然しっくりこなくて。好き同士が一緒に住むなら夫婦だってミッシュは力説するんですけど、さらにピンとこないんです」
 昨日、最中やその直後は「好き」で繋がっているような感覚があったが、熱が引いてしまうと自信がなくなってきた。
「つまり、お前自身はそうじゃないと思ってるんだな」
「んー、ずっと考えてました。ナジさんから心も身体も愛されるってどんな感じなんだろうって。だから、つまり、俺はそうされることをずっと望んでたんだと思います。ナジさんのこと、とても好きだから。でも、ナジさんは……。俺の何が、とか、どこが、とか、全然わかんないし、多分俺と同じではないのかなと思ったりもします」
「……」
 ナジの溜息が聞こえる。まずい。気分を害してしまったか?
「……こんなこと言われるの、うざったいですよね」
「他のやつらは勝手に引っついてきて、勝手に恋人面するのに、なんでお前は」
「なんかごめんなさい……」
「違う。そうじゃない。わかってる。そもそも最初が悪かったんだって。来いよ」
 ナジの家の前まで来て、中に招き入れられる。
 広いことは広い家だが、金を持っていると噂される割には質素だ。飾り気が一切ない。必要最低限のものが必要な場所にぽつんぽつんと置かれているだけ。外に出ていることが多い人だし、眠るためだけの場所なのだろう。

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