(2)レレシーにて

「レレシーにはいつまでいられる?」
「しばらくレレシーでしっかり休めって言われてるから、すぐには行かないと思う。また農園の方、手伝わせてもらえるかな。短期でって事になるけど」
「いいんじゃない? 話通しておいてあげるよ」
「お願い」
 休めと言われても、行商の仕事がない間の食い扶持はしっかり稼がねばならならない。行商に戻れと言われたときにすぐ行けるようにしておけば、他の仕事をしたってナジから咎められることもなかろう。
 ミッシュもバロも、ゼノが以前いた薬草農園で働いている。友達と働けるし、農園主夫妻もいい人だし、仕事のやり方もまだ覚えているし、レレシーであそこ以上の職場は思い浮かばない。
 お喋りのミッシュは、休みなく口を動かす。
「でもなあ、リタに恋人なんて信じられない。だって、リタはずっとゼノのこと好きだったでしょ?」
「え、なにそれ」
「まさか気づいてなかったの? 孤児院でもさあ、ずーっとゼノにべったりで、寝るときに俺とバロがゼノの隣を取ったらさ、めっちゃ癇癪起こして泣くの。僕がゼノの隣で寝るんだ!って言って聞かなくて」
「そんなこともあったなー」
 バロも懐かしそうに言う。確かにそれはゼノの記憶にもあるが——。
「でも、それは恋だの何だのって言うよりさあ」
「恋だよ、恋」
「俺もそう思う」
「えー。バロまで? 違うと思うけどなあ」
「ゼノはさあ、ちょっとおっとりっていうか、ぼんやりしたとこあるよね。こっちにとっちゃそれが癒しポイントだったりするわけだけど」
「だよな、わかる」
「……なにそれ」
 察しが悪いという意味では、「ぼんやり」なのかもしれないが、それがなぜ癒しに繋がるのだろう。
 首をひねっていると、頭上から軽やかな声が振ってくる。
「あー、なんか面白そうな話してる。なに、ゼノ、恋してるの?」
 白、茶、黒の三色という可愛らしい毛並みの女が、好奇心で目を輝かせながら、ゼノとバロの間に割って入ってくる。彼女はララといい、これまた同じ出身だ。
 ミッシュは訳知り顔でニヤニヤする。
「ふふふ、ゼノがモテモテって話だよねー」
「やめろよ、違うってば」
 これまでの人生でモテたことなど一度もない。情けないが、自分にそこまで魅力があるとは思えないので、当然のことだろう。
 気まぐれなララの興味はもうゼノから逸れたようで、後方を差す。
「それよりさあ、聞いてよ。あれどうにかならないのかしら」
「あれ?」
「さっきから、ナジさんに近づけないものかと様子を窺ってたんだけど、がっちり周り固められてて全然無理だわ」
「はは。駄目に決まってるよ、ナジさんなんて。競争率えげつないじゃん」
 何を馬鹿なことを、とミッシュが笑う。
 ちらっと見るだけのつもりで、ナジのいるテーブルを振り返る。騒がしい男たちの間に、女もちらほら混ざっていた。ナジの両隣にもいて、二人ともとても美人だ。美人なだけではなくて、華やかで艶っぽい。彼女たちはナジにしなだれかかって、おまけに馴れ馴れしくベタベタ触る。
 ちらっとだけでも見るんじゃなかった。気分が悪くなるから、わざと背を向けていたのに。あの綺麗な毛並みに気軽に触れるな。ゼノにとっては交わっているときぐらいしか触れられない特別なものなのだ。もういっそ力尽くで引き剥がしてやりたい。
 ——わかっている。旅先ではナジの隣は必ずゼノのものだったが、レレシーではそうじゃない。自分の場所を取られた、奪われた、そんなことを考えるのは被害妄想なのだ。異国への行商の旅は多少なりとも危険を伴うから、あまり女性は行かない。旅先でゼノが相手にしてもらえるのは「仕方なく」なのであって、美人を選べる環境であればそっちがいいに決まっている。
 ゼノは回数をこなせる体力があって、従順で、便利に使える、というだけ。美しくもないし、頭もよくないし、ベッドでは下手くそだと言われるし、あの女たちを押しのけられる可能性なんて全くない。
 今日はきっとどちらかをお持ち帰りするんだ。それとも両方? ナジは女とはどういう風にするんだろう。とびきり優しかったりするのかな。いっぱいキスして、だんだん性感を高めていくように全身に触れて、甘い言葉を囁いてみたりして。ゼノにするみたいに、しつこく「待て」をしていじめたりはしないんだろうな、きっと。それもそれで、ゼノの身体は喜んでしまうのだけれど。
 ああ、嫌だ嫌だ。どうしてこんなに不愉快なのだ。ナジが誰と寝ようがいいではないか。たまらなくむしゃくしゃして酒を一気に呷る。こんなものでは足りない。店主に向かって手を上げる。
「おっちゃん、ボトルもう一本! ……とりあえず、それちょうだい」
 ミッシュのグラスを引ったくって一息に飲み干した。
「それ、結構強いやつだよ……、って、全部いったの? 急にどうしたんだよ」
「今日は飲む」
 酒の力で、何も考えられなくなるくらいべろべろになりたい。
 回ってきたボトルから手酌するゼノを、ララは呆れ顔で見た。
「自分がモテないからって僻んでるの? あんたのこと可愛いって言ってる子いるから、紹介するわよ」
「いらない。なあ、あんなののどこがいいの?」
「あんなのって?」
「ナジさんだよ。意地悪だし、機嫌悪いとき滅茶苦茶怖いし、わけわかんないことで怒るし、いっつも命令してくるし、説教長いし、時々しか褒めてくれないし、もうもうもう……」
「そりゃ顔が良くて強いからでしょ」
「あとお金持ってそう! これ重要」
 ララの見解にミッシュが付け加える。不純だ、ものすごく。
「世の中間違ってる! 愛はどこだ!」
「俺がナジさんのこと悪く言ったら窘めてきたくせに。やっぱり相当ストレス溜まってたんだね。そりゃそうだよねえ。旅先じゃ四六時中一緒だもん。ゼノが一番下っ端だし、一番扱き使われるよね」
「可哀想! リタのために耐えて耐えて、よく頑張ったわねえ。いいわ。今日は飲みなさい。付き合うわ。どうせナジさんたちの奢りだろうし、店の酒樽、空にしてやりましょう」
「乗った!」
「俺もー」
 ララの提案にミッシュとバロも同調する。その日は久しぶりに馬鹿騒ぎした。
 

 元々そう酒には強くない。早々に潰れて、ミッシュとバロに自宅まで連れ帰られた。
 吐いたら身体は楽になった。ふらふらと寝室の簡素なベッドで横になる。このまま眠ってしまおう。朝になれば、この最悪な気分もすっきりしているはず。疲れているからだ、きっと。自分がこんなにも怒りっぽくなっているのは。
 しばらくうとうとしていたのだが、言い争うような声が聞こえて目を覚ます。
「ちょっともう寝てるので……」
「叩き起こせばいい」
「でも」
「そうですよ、もう遅い時間ですし」
「うるさい」
 制止するミッシュとバロの声。それから——。寝室のドアが開く。そこにいたのはナジだ。条件反射的に飛び起きる。
「え、なんで……」
「ナジさん、寝かせておいてあげてくださいって」
「お願いします」
「引っ込んでろ。こいつと話があるんだ。邪魔したら、お前ら強制的にレレシーから摘まみ出すぞ」
 ミッシュとバロの眼前で荒々しくドアが閉まる。
 ナジはつかつかとこちらへやって来ると、以前バロからプレゼントされたお手製のサイドテーブルにランタンを置いた。不機嫌なのは先ほどの話しぶりから明らかだ。なぜレレシーに帰ってきてまでこの人のご機嫌を気にしないといけないのだろう。まったくもって理不尽だ。
「ゼノ」
「……」
「お前は誰に呼ばれたんだ。なぜ挨拶もせず先に帰った」
 なぜってそれは酔い潰れたからだ。ナジがゼノを苦しくさせるせいで——。不可解な胸の痛みとともに、店での光景が脳内にはっきりと蘇ってきて、ぎりっと奥歯を噛みしめる。
「……わざわざうちまで来て説教ですか? はいはい、すみません。ごめんなさい。俺が悪かったです。これでいいですよね」
「何だ、その態度は。何を怒ってる?」
「怒ってませんよ。謝ってるじゃないですか。こんなに真摯に」
「ゼノ」
「まだ何か? 俺のことはもういいから、さっさと用のあるところへ行けばいい」
「ここ以外に用のあるところなんてない」
「ふーん、へえ、そう」
「こっちを見ろ」
 両頬を手で挟み込まれ、ナジの方を向かされる。ゼノを捕らえようとする鋭い視線から、目を逸らすことで逃れた。彼から漂う、複数の女の匂い。
 ——あんなに好き放題触らせてるから……。
 抑えきれない怒りがむくむくと湧き上がってくる。ゼノが怒るのは筋違いだと、頭ではわかっているのに。押しのけようと腕を動かすと、彼はそれ以上無理はせずに手をどけた。
 いつもの癖で自分の尻尾を持って弄りながら、なんとか「いつも通り」を保とうと試みる。
「女の人、あんまり待たせちゃ駄目ですよ。くだらない説教のためにこんなとこ来て、何やってるんですか」
「別に待たせているやつはいない」
「嘘だ。だって店であんなにベタベタイチャイチャして……」
「……なんだ、嫉妬か」
「は? そんなわけないでしょ! 嫉妬は好きだからするんだ。俺はナジさんなんか好きじゃない!」
 立ち上がって、手近にあった掛け布団を投げつける。「なんだ」とは何だ。くだらないと馬鹿にしているのか。ゼノがどんな思いで——。
 こんなことをしたらこの街で暮らしづらくなるとか、行商の仕事に差し支えるかもしれないとか、そんなことはどうでもよくなった。もう無理だ。我慢なんてできない。
「帰って!」
「ゼノ、酔っているのはわかるが、もう少し冷静になれないのか?」
「俺は冷静です! 出てって、今すぐ!」
 枕を至近距離で叩きつける。理性ではどうにも制御できない激しい感情に突き動かされ、涙がぼろぼろ溢れ出てくる。
 今日のことだけではない。ずっと心のどこかに、恋人ではない不確かな関係を続けることへの葛藤があった。寂しかったし怖かった。自分だけを愛してくれる恋人のいる友人が羨ましかった。我慢して我慢して、見ない振りをしようとしていたものが、一気に噴き出す。
「うわーっ」
「……いったい何なんだ、勘弁してくれ」
「ナジさんなんか大嫌い!」
 なぜこうまでゼノを掻き乱すのか。床にへたり込んでゼノが泣き続けるのを、ナジは何を言うでもなく見ていた。
 子供のようにしゃくり上げ、しばらく泣くだけ泣くと涙は引いていった。顔を上げると、まだナジはいて、じっとベッドに座っている。
「……帰ってって言ったのに」
「他に行かれるのが泣くほど嫌なくせに意地を張るな」
「そんなこと……」
 ないことはないのか。たまらなく嫌だった。これからナジが他の誰かを愛すのだと思ったら。また自分の尻尾を引き寄せて手慰みにしていると、ナジに咎められる。
「もうそれやめろ。毛がなくなるぞ」

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