(番外編)ハロー、ベイビー

「おい、こら! 起きろ!」
 朝、といっても、かろうじて午前中であるだけで、すでに昼と言っていい時間帯。自宅のベッドですやすや眠る享を叩き起こすべく声を張り上げる。
 楓が目を覚ましたのは、つい十分ほど前。頭をすっきりさせるためシャワーを浴びていたとき、享が昨夜衝撃的なことをやらかした事実に気づき、二日酔いの気分の悪さは一瞬で吹き飛んだ。拳を握りしめながら、寝室に大慌てで戻ってきたところだ。
 楓の怒声を浴び、亨の目が開く。寝ぼけた顔は意外と可愛い。……じゃなかった。楓は腹を立てているのだ。
 重大な過失を犯した男は、呑気に問う。
「ん、なに……?」
「なにじゃねえよ! 見ろよ、これ!」
 過失の証拠を眼前に突きつけてやる。亨はそれと楓を交互に見比べた。
「スキン……? 使用済み? そんなセクシーな恰好でそれって、あれ、誘われてる?」
 裸に長袖Tシャツ一枚だけ身につけた姿。これは急いでいたからで、断じて色仕掛け目的ではない。こんな安っぽいこと、誰がするか。
「阿呆! これがどこから出てきたと思ってるんだ!」
「ああ、その辺に捨てちゃってた? ごめんごめん。今度からゴミ箱に捨てます」
「そんなことで怒んねえよ。尻だよ、尻! 中に残ってた。お前、抜いてすぐ寝たろ。しっかり確認しろよ!」
「……ああ、そういうことか」
「うわあ、もう、どうすんだよー!」
 頭を抱えて叫ぶ。まったく、酔っ払ってセックスなんかするもんじゃない。
 昨日は楓の姉である桜と後輩藤谷の婚約記念パーティーだった。大々的なものではなく、身内と親しい友人のみを招待して行われたものだ。
 大学時代に起業した藤谷は、卒業後に事業を拡大。桜に最初要求された収入にはまだ達しないものの、そこそこの額を稼いでいるという。去年の年末、プロポーズに承諾してもらえたらしい。挙式は今年の秋を予定している。
 彼らの出会いから見守ってきた身としては素直に嬉しく、昨日は二次会でついつい飲み過ぎてしまった。楓も亨もへべれけで帰宅し、お祝いムードに当てられてハイテンションになったままベッドでハッスル。
 もうすぐ発情期で、いつもよりフェロモン量が多くなっている時期だったのも悪かった。お互いに歯止めがかからなかったのだ。ところどころ記憶は曖昧だが、気持ちいいふわふわした気分の中寝落ちしてしまったようだ。——亨の失敗に気づかぬまま。
 もっと動揺するかと思いきや、亨に焦りは見られない。ゆったり身体を起こして、頬をかく。
「中出ししたのと同じになっちゃったわけね」
「どうしようどうしよう……。そうだ、アフターピル! ……って、今日は日曜日か。いつものクリニックは休みだ。どっか開いてるとこ探して……」
 使用済みスキンをゴミ箱に投げ捨て、ベッドサイドに置きっぱなしだったスマホを取って検索する。慌てて打ち間違いをする楓の手元を、享はただじっと眺めるばかり。
「あのさ」
「近くにはないよなあ。ちょっと遠くてもいいから……。アフターピルって何時間以内だっけ?」
「なあ」
「婦人科じゃ駄目なのかな。婦人じゃないもんな。オメガ専門外来のとこじゃなきゃ見てくんねえよな」
「なあってば」
「うるせえな。今調べてんだよ。元はと言えばお前のせいなんだから、お前も探せよ」
「別によくない?」
「何が?」
「できてても」
「……は?」
 こいつはいったい何を言っているんだ。できててもいい?
 享は座ったまま頭を下げる。
「まず、スキン置き去りの件は本当にごめんなさい。酔ってたとはいえ不注意すぎました」
「反省しろ! そして対応策を考えろ!」
「対応策というか、選択肢の提案をさせてほしい」
「できててもいいとか適当なこと言うんじゃねえぞ」
「適当じゃないよ。本心からそう思ってる。お前もさ、実人(さねと)くん目当てでよく真宮家に遊びに行ってるじゃん。こんなに可愛いなら産んでもいいかなーって話してたんだろ。真宮さんが言ってたぞ」
 実人とは、二歳になる真宮夫妻の長男だ。初めての子育てに奮闘する実琴のために、楓も時間があるとき真宮家の手伝いに行っている。楓の後ろを「けーで、あそぶ」とついて回ったり、子供向けアニメの主題歌にあわせて歌って踊ったり、大好きな動物の絵本を見せてくれたり、最近の実人はますます愛らしい。
 実人は可愛い。子供は可愛い。それは否定しない。
「それはいずれそうなってもいいってことで……」
「ちょっとおいで。こっちへ」
 享はベッドの空いている場所をポンポン叩く。そんな余裕はないというのに。どうして落ち着いていられる?
「ゆっくり喋ってる時間なんて……」
「足冷たそうだから、とりあえずおいで。なるべく手短にするから」
「ああ、もう、はいはい」
 焦って解決することではないのは確かだ。
 ベッドに上って隣に座る。享は布団を足に掛けてきた。暖かくなってきたとはいえ、まだ四月半ば。素足では肌寒い。
 彼は立てた膝に肘をつく。
「いずれそうなっても、のいずれっていつ? 今じゃ駄目?」
「駄目ってことはないけど早すぎる。俺まだ二十五だぞ」
「さて、ここで問題です。俺たちが付き合い始めて何年経ったでしょう」
「二年生の時からだから……、丸五年? 年末で六年になるか」
「番になってからは?」
「三年」
「それをふまえて、早い?」
「早……くないのか? でも、でも、もしできてたら、一年経たずに腹から出てくるんだぞ」
「そうだね」
「一年経たずに親だぞ。やっぱ早くね? 結婚もまだだし」
「今だってほぼ事実婚状態だろ。籍ぐらいいつでも入れられる。環境だって整ってるよ。楓のとこは産休育休取りやすい会社だし、身近に育児の相談相手になってくれそうな人がいるし、家族が増えていいだけの経済的余裕だってあるし、もちろん俺だってできる限りのことはするし」
 享の表情は真剣で、声には熱がこもっていた。よほど楓を説得したいらしい。
「そんなに子供欲しいのか?」
「うん。この年になったら、友達にも子持ちが増えて、皆うちの子自慢してるのが羨ましくて羨ましくて。プレッシャーになったらいけない思って、今まであんまりこういう話はしなかったんだけど……」
 自分が子供を持つ事なんてまだまだ先のことだと思っていた。だが、享はもう三十二だし、彼にしてみれば親になることは早すぎることではない。
「スキン置き去りは反省してます。その上で言わせて。これも神様の思し召し、じゃないけど、そろそろいい時期なんじゃないかってことなのかと……。駄目かな」
「駄目なような駄目じゃないような」
「じゃあ、とりあえずアフターピルはやめてさ。できてたら産むっていうのは? 俺はどう頑張っても産めないから、お願いするしかできないんだけど……」
 布団の上の楓の手に、享の手が重なる。切実な眼差し。
 番と子供を持ちたい、至極まともで当たり前の望みだ。無茶な要求ではない。叶えてやれるのは楓だけ。日頃から散々我が儘を聞かせている身としては、その望みに応えなくてはいけないような気になってくる。
 「いずれ」が「今」でも構わないのでは?
「……料理覚えるか?」
「もちろん。家事はお任せください。その他必要なことがあれば何なりと」
「……じゃあ、とりあえず今日クリニックを探すのはやめる」
「わあ、ありがとう!」
 がばっと抱きしめられる。嬉しいときの良い匂いがした。
 享の発している魅力的な匂いは、日によって時間によって微妙に変化する。ネガティブな感情のときや体調が悪いときは、匂いに苦味が混じって、こちらまで不安定な気分になるし、逆に機嫌や調子のいいときは、いつも以上に甘く、心地いい匂いになる。ちなみに、その「甘さ」と性的欲求が高まっているときの「甘さ」は、また別物の匂いだ。
 付き合いが長くなってくると、大分嗅ぎ分けも上手になってきた。出会った当初はどれも「いい匂い」で一括りにしてしまっていたが。
 こんな匂いをさせるくらい喜ぶなら別にいいかな。——でも、期待させすぎるのもどうだろう。
「できたって決まったわけじゃないぞ」
「もうすぐ発情期予定日だよな? いつ?」
「来週水曜日あたり」
「それが来なけりゃ、可能性大ってことだよね」
「そっか……。そういうことか」
「ドキドキするなあ」
 実にわかりやすく声が弾んでいる。これまでに子供を持つ話をしたことがないわけではないが、こんなに欲しがっていたとは知らなかった。
 来週水曜日が運命の日。そういえば、実琴も発情期が来なくて妊娠に気づいたと言っていたっけ。——あれ? 発情抑制剤はどうしたらいい? 抑制剤は発情期を来ないようにさせるものなので、服用していれば、妊娠していたってしていなくたって、発情期は来ない。来るはずのもの止めているのか、元々来ないのか、区別は付くのだろうか。
 抑制剤を飲まなけばいい話なのだが、妊娠していなかった場合、突然発情期が来てしまう恐れがある。番を持っていて他のアルファに襲われる危険がないとはいえ、時間と場所を選べず、自分を失うほどの強い欲に支配された状態になるのは怖い。
 幸い身近に経験者がいる。実琴に相談してみよう。

 翌日、早速相談してみると、丁寧に教えてくれた。
「僕の場合、妊娠を考えるようになってからは、抑制剤を一錠だけにしたよ。全く飲んでいない状態で突然発情期が来たらやっぱり怖いし、だからといって抑制剤を全量飲んだら、妊娠していた場合に胎児への悪影響が心配だし。影響のない量の一錠だけ飲んで、発情期が来たら全量飲む、というのがベストだってクリニックの先生が言ってた」
 なるほど。やはり経験者は頼りになる。楓も真似しよう。
 参考までに、子作りを解禁してから妊娠するまでの期間も聞いた。
「結婚した後バタバタしてたのが落ち着いて、いつでも赤ちゃんどうぞ!って状態になってから、もう次の発情期は来なかった。オメガは妊娠率が高いと言われていて、番が相手だとさらに跳ね上がるからね。楓もまあ、覚悟しておくに越したことはないと思う」
 覚悟……。覚悟ってなんだろう。親になる覚悟? そんなの、急に言われたって無理だ。他人の子供を可愛がることと自分の子供を産み育てること。責任の重さが全く違う。命をまるごと背負う覚悟なんて、簡単にはできない。
 本音を言えば、早く発情期が来てほしい。妊娠なんて、子供なんて、怖い。避妊失敗の翌朝は、享がそんなに望んでいるならいいか、と思ってしまったが、日に日に不安が募っていく。
 いよいよ水曜日。——来ない。木曜日も金曜日も。これまで予定が前倒しになることはあったが、遅れることはほとんどなかった。
 一週間経っても来ず。これはもう確定では? 一発で命中、なんだそれ。凄腕スナイパーか。
 今日も発情期が来なかった、と日々増していく不安に押しつぶされそうになる楓とは対称的に、享は発情期が来ないことを喜び、うきうきしている様子だった。人の気も知らないで。産まないやつは気楽でいいな。そんな風に考える自分も嫌だった。
 震えながらクリニックに電話すると、妊娠確定ができる時期ではないから、二週間後にいらしてください、と言われた。
 楓一人なら平日にクリニックへ行く時間はあったが、享がどうしても一緒に行きたいと言うので、土曜日に予約した。アルファは院内には入れないため、外で待っていると言う。
 そして、来る土曜日。——結果。
「おめでとうございます」
 複雑な思いを抱えてクリニックを出る。会計待ちのときに連絡を入れたので、すでに享が待っていた。いそいそとやって来て、隣に並ぶ。

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