(番外編)ハロー、ベイビー

「らいおん、すごい! うさぎ! ごりら! ねこ!」
「色んな動物知ってるんだなあ」
 次々と飛び出すリクエストにも、享は対応する。空いたスペースに兎、ゴリラ、猫のデフォルメキャラクターを描く。実人は順々に指さし、
「これねこ、これうさぎ」
「ゴリラは?」
「これ」
「実人は動物博士だな」
 享は実人の頭をぽんぽんと軽くたたく。誉められていることは理解できるらしく、実人は得意げだった。享の方も喜んでもらえて嬉しいらしい。スケッチブックのページをめくる。
「これは誰かわかる?」
 続いて、新しいページに人の顔を描いていく。写真寄りのタッチで、おそらく実琴の似顔絵だろう。その横に慶人。二人の間に実人。
「ママ、パパ」
「真ん中の子は?」
「あかちゃん」
「実人だよ」
「おー」
 実人はスケッチブックを持って、実琴と慶人の元へ走って行く。彼らに絵を見せて、「これママ、これパパ」と説明している。感動したものは共有したいらしい。実琴と慶人は優しくそれを聞いている。
 親を慕う子供と子供を愛する親と。ありふれた家族の幸せの形。
 亨も同じ思いで見つめていたようだ。
「大変なことも多いと思うけどさ。きっと楽しいこともいっぱいあるよ」
「……だな」
「あ、そうだ」
 カーペットには、スケッチブックから千切って取り外された画用紙が何枚か散らばっている。享はその中から白紙に近い一枚を選び取り、リビングのローテーブルでまたお絵かきタイム。
 左横を向いて立つ男と、その前で跪き、大輪の薔薇の花束を捧げるようにして持つ男。服装からして自分たちか? 顔も似せてある。
 跪く男の横に吹き出しを描き、その中に『結婚してください』。
「なんだよ、これ」
「だって、実際にこんなことやったら嫌なんだろ。いろいろ考えたんだけど、いいのが思い浮かばなくて」
 クリニックで妊娠を告げられた日、プロポーズのやり直しを言い渡したが、それのつもりなのだろうか。セリフ自体は前と変わらない。
「もう一声(ひとこえ)
「うーん」
 吹き出しを三つ増やし、『大好き』『愛してる』『I love you.』。
「そういうことじゃねえよ」
「難しいなあ」
 亨は首をひねりつつ、新しい吹き出しに、『三人で幸せになりましょう』『一生大事にします』『産むって言ってくれてありがとう』。
 三人、か。クリニックに行った日は『二人』と言っていたが、あと何ヶ月かで一人増えて三人だ。楓はきっと、多少の波はあれ、この男といる限りずっと幸せだ。一人増えようが二人増えようが三人増えようが、それは変わらない。そんな未来が想像できてしまう。
 享はもう一人の男のイラストの側にも空の吹き出しを描く。そして、鉛筆を上に置いて紙をこちらに滑らせてきた。そうか。プロポーズには返事がいるのか。
 照れから『バカ』と書きかけたが、真剣に返すときだ。わざと大きめに『O.K.』と書く。
「やったー」
 亨は画用紙に小さく人々を追加し、周りに花びらを散らす。フラワーシャワーというやつだ。
「うかれすぎ」
「そりゃそうだよ。嬉しいことばっかりなんだから」
「ねえ、熱心に何を書いてるの?」
 背後から実琴が覗き込んでくる。振り返り、早速報告する。
「プロポーズされた」
「え、今? 婚姻届を書いた後で?」
「まさしく今」
「前にもしたんだけど、リテイク食らったんだ」
「あはは。君たちらしいね。おめでとう」
 自分たちらしい。一番それがいい。
 慶人は記入の終わった届を持ってきてくれる。
「どうぞ。これでいいかな」
「ありがと」
「ありがとうございます」
 亨も横から礼を言う。
 右側も左側も埋まった用紙。受け取って大切に鞄へ仕舞う。
「よし、もうそろそろ行かないと。日曜開庁の日はいつもより早く閉まるんだ」
「忘れ物してない? 必要書類は全部持った? 印鑑とか身分証とかも」
「ミコちゃんは俺にもお母さんだな。昨日も確認したし、大丈夫」
 先ほど描いてもらったプロポーズの絵も、一応実琴の許可を取って持ち帰ることにした。
「けーで、ばいばい。とーう、ばいばい」
 真宮一家に見送られ、区役所へと出発した。

 予定していた手続きを全て終え、区役所を出る。来庁者は少なかったが、職員の数も少なかったようで、予想以上に時間を食ってしまった。特別に体力を使うことをしたわけではないけれど、意外と疲れるものだ。
 昼食の量が少なくて空腹だったこともあり、休憩がてら駅前のこじんまりしたカフェに入る。
 亨は店おすすめのブレンドコーヒー、楓はジンジャエールを飲みながら、山盛りのフライドポテトを摘まむ。
 このフライドポテトは楓好みの細さで、塩加減もちょうどよく、手が止まらない。いつもはハンバーガーのお供でしかポテトを頼まないのだが、なぜだか今日はポテトだけをたらふく食べたい気分だった。
 享は感慨深げに呟く。
「これで俺も玉木の仲間入りか」
「玉木の世界にようこそ。歓迎するぞ」
「ありがとう、先輩」
「なんかさあ、窓口の人あっさりしてたな。もっとこう、テンション高く『おめでとうございます!』とか言われて拍手されるもんだと思ってた。住所変更の手続きしたときと変わんないじゃん」
「そりゃあ、こっちにとっては一生に一回あるかないかのことでも、向こうにとっては日常だからな」
「祝われても恥ずかしいから、素っ気ない方がいいんだけどさ。あと、記念品もくれなかったな。隣の区では婚姻届を出すと写真立てがもらえるらしい」
「写真立てなんてほしい? 絶対ダサい感じのやつだぞ」
「ほしくないけど……、あっちはあってこっちはないってなると、ちょっと損した気分」
 記念品……。記念品。空いた椅子に置いた自分の鞄をちらっと見る。いつ切り出そう。帰ってからでもいいかな。
 亨はその思考を読んだかのように言う。
「そういえば、お前、書類書くとき良いボールペン使ってたよな。昨日婚姻届を書いてたときも。最近買ったの?」
「匂いソムリエだけじゃなく、エスパー能力まで身につけたのか?」
「何のこと?」
「……何でも。あのペン、よかっただろ」
「格好いいよな、あのブランドのやつ。仕事できる感じがする」
 よし、評価は上々のようだ。楓のチョイスは間違っていなかった……、はず。
 ポテトの油が付いたのとは別の手で鞄をごそごそあさって、ラッピングされた細長い小さな箱を出し、享の前に置く。こんなことは滅多にしないので、どうしたってぶっきらぼうな物言いになる。
「やる」
「なにこれ」
「俺と同じやつ」
「……結婚記念?」
「そういうこと。指輪はもうあるからいらないし、何か他にいいのないかなって考えて」
 指輪は享に買ってもらったので、楓も何か贈りたい。そう思い立ち、結婚相手に贈る指輪以外の記念品をネット検索したところ、ネックレスや腕時計が出てきた。
 ネックレスは却下。身につけないから。腕時計も無し。享はすでにそこそこ値のする時計を愛用しており、それと同クラスのものとなると、楓の財布には厳しい。
 普段から持てるもので、記念になり得るような特別感のあるもので、楓にも買える価格のもの。デパートをうろうろして目に付いたのが、ハイブランドのボールペン。
「ありがと。こういうのは持ってなかったから嬉しい」
「そうだろう、そうだろう」
「一生大事にする」
「画用紙にも同じこと書いてたな」
「楓のことも大事にするよ」
「当たり前だ、バーカ」
 それができない男なら、番にはならなかった。
 フライドポテトの残り三本を一気に口に入れる。もう一皿あっても余裕で完食できそうだ。
「お前の実家にはいつ報告するんだよ」
「帰ったらメールする」
「せめて電話だろ」
「なんかまたチクチク言われそうで……。デキ婚だし」
「お前の兄ちゃんとこもじゃん」
「そうだけどさあ」
「帰ったら電話しろよ。気重なことは早く終わらせろ」
「えー」
「返事は」
「……はーい」
 今更反対などされないだろう。番になったということは、伴侶を持ったということで、いずれは結婚するのだとわかるはずだ。

 ——だが、享の母、時子は大層ご立腹だった。スピーカーにしているので、楓にも聞こえている。
『なんでいつも事後報告なの! 届を出す前に電話で一言入れるくらいできたでしょ!』
「いや、もう番になってて事実婚状態だったし、紙一枚出したところで、そんなに変わらないっていうか」
 番になった報告をしたときに、好きにしてもいいと改めて言ってもらっていたので、わざわざ許可を得ることでもないと享も楓も思っていた。言われるのなら、できちゃった結婚であることへの嫌味くらいだと考えていて、こんな剣幕で怒鳴られるのは想定外だ。
『結婚って本人同士だけで済む話じゃないのよ! 家と家の問題なの。伊崎家に人が増えるってことは……』
「それは大丈夫。俺が向こうに合わせたから」
『あんた勝手に何やってんのよ!』
「跡取りは充なんだから、俺はもう関係ないだろ」
『伊崎は代々アルファの純種なの。それなのに格下に婿入りだなんて、信じられない!』
 純種? いまだにそういうことを言う人間がいるとは。
 社会的に優位にいるアルファの中でも序列があるようで、そのトップにいるのが純種と呼ばれる人々。何代にも亘ってアルファとアルファを結婚させ、アルファしか産まれなくした家系、およびその家系に産まれた人々にことだ。純種は純種と子を作り、血を守る。
 しかし、純種が尊ばれたのも昔のことだろう。同じアルファであれば、純種であるかそうでないかで能力に差がつくことはないという研究結果もある。
 享自身は時代錯誤な純種至上主義の考え方をする人ではない。
「格下も格上もない。相手方に失礼だ。それに、名前は変えたけど、婿養子にはなってない」
『伊崎の名前を捨てたってことが問題なのよ。純種のプライドはないわけ?』

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