(番外編)ハロー、ベイビー

「どうだった?」
「予想通りだよ」
「おお!」
「歩きながら話そう」
 天気がいいので、駅まで少し遠回りすることにし、川沿いの歩道を歩く。柔らかく暖かな陽射しが、慰めるかのように楓を包む。たまにはのんびり外を歩くのもいい。
「エコーのやつで見せてもらった。まだ小さくて、ただの点って感じだけど」
「写真は? あの白黒のやつ」
「もらった。家でな」
「俺は健診とかにもついてけないのかな」
「妊娠がわかった後は、隣のマタニティークリニックの方に行くことになるから、いけるんじゃね」
 いつも通っているのが、オメガ専門でアルファ立ち入り禁止の多田フルールクリニック。経営者が同じ多田フルールマタニティークリニックが隣接していて、こちらはオメガ妊婦専用だが、性別による立ち入り制限はない。
 享はこちらに顔を寄せ、鼻をくんくんさせる。
「……楓、憂鬱って感じかな。それか、心配? 怒りとか苛立ちとか悲しみとは違うな。最近ずっとだね。やっぱり子供、嫌だった?」
 その口調に責める響きはなく、深い労りを感じた。
 楓に享の匂いの変化がわかるように、享にだって楓の変化が伝わってしまう。誤魔化しは利かない。素直に吐き出した方がいい。
 楓は首を振る。
「子供を持つこと自体は嫌じゃない。ただ、急すぎる。だいたいの出産予定日も聞いたよ。来年の一月……、年越したらすぐだぞ。早ければ年が変わるのも待たずに産まれる」
「不安?」
「当然だろ。できちゃったら産むしかないから、産むよ。産むけど、怖い」
 クリニックで説明を聞いて、さらに現実感が増し、重くのしかかってきた。
 身体が変化する恐怖や、痛みへの恐怖、慣れた環境が変わる恐怖、命を背負う重圧。まだまだ我が儘の甘えん坊でいたいのに。
 亨が何も言わないので、顔を上げて窺うと、何やら考え込んでいるようだった。しばしの沈黙の後、口を開く。
「……そりゃそうだよな。怖いよな。産むのも育てるのも大変だって言うもんな。ごめん。俺、はしゃぎすぎだった。嬉しくて、つい」
「別に謝ることじゃない」
「すぐだって言っても、まだ時間はあるし、今から一緒に勉強しようよ。不安なこと一つ一つ潰していったら、少しは怖くなくなるかも」
「そんなもんかね」
「やらないよりはいいだろ。産むのは代われないけど、その他は俺だって背負えるよ。あんまり一人で気負いすぎないで。俺たち『二人』になったんだろ。番ってそういうことじゃん」
 うまく言えないなあ、と彼はぶつぶつこぼしていたが、言いたいことは理解できた。一人で悩まず二人で悩もう、一緒に考えて一緒に乗り越えよう、そう言いたいのだ、多分。
 楓の悩みも不安も、亨は全部受け止めてくれる。いつだって、どんな些細なことでも。そういうところが好きだ。甘えられる安心感というか。
「……うん」
「ああ、あと結婚しよ。ちゃんと、正式に」
「世界一簡単なプロポーズだな」
「フラッシュモブとかやった方がいい? 時間をくれたら頑張るけど」
「それはやりすぎ。あんな恥知らずなことやりやがったら、シングルマザーになってやる」
「例えばで言っただけで……」
「指輪はもうあるからいらないし、薔薇の花束も夜景の綺麗なレストランもいらない。家でいいから、もう少し丁寧に言って」
「わかった。セリフ考えとく」
 すでに番になっていて子供までできたのだから、プロポーズなどなくても結婚はするのだが、これも甘えたい願望のうちだ。結婚は決定事項。楓が欲しいと言ってもらいたいだけ。その他に特別なものはいらない。
「式はもういいだろ。この秋に姉ちゃんたちのがあるし」
「えー、やろうよ。本格的なのじゃなくて、仲間内だけの小っちゃいやつでいいからさあ」
「身内は?」
「もちろんお前のお母さん……、菫さんと桜さんも」
「そっちの親と兄貴はどうすんだよ」
「呼ばないよ。結婚の報告はするけど」
「なんで呼ばないんだって後からキレられたりしない? そういうのややこしいから、式はいいよ」
「ああ、まあ、うん……。それはそれで考えとく。籍は? 入れるのいつにする?」
「母子手帳、発行してもらわなきゃいけないんだ。役所に行くついでに、そっちもすませとく?」
「そうしよっか」
 子供ができたというだけでも手一杯なのに、それに付随して、やらなければならないことが一気にたくさん出てくる。一つ一つ処理していくしかない。
 ——『二人』になった、か……。
 怖さは消えないが、たったそれだけの言葉で、気持ちの重さは変わるものだ。

 それからしばらく経った日曜日。楓と亨は同マンションの真宮宅にいた。
 リビングでは慶人が息子の実人と遊んでいる。亨は「勉強させていただきます」と言って、ぎこちなく遊びの輪に混ざっていた。
 ダイニングテーブルで、楓は実琴に今日ここを訪れた用件を話す。
「え、証人欄、僕たちが書くの?」
「もしよければ」
「親御さんじゃなくて?」
「母さんと姉ちゃんでいいかなって思ったんだけど、今日は日曜開庁の日なんだよね。なんとか今日出しに行きたくて……。実家帰ってたら時間かかるだろ」
 婚姻届の添付書類として必要な戸籍謄本を、本籍地の役所に郵送請求していたのだが、昨日ようやく二人分揃った。まったく、役所は仕事が遅い。
 夜に婚姻届の様式をダウンロードし、記入。左側はすぐ埋められたが、問題は右側、証人の欄である。
 土日祝日で区役所が開庁しているのは、一ヶ月に一回、今日だけ。平日の閉庁時間は五時半で、それに間に合うよう区役所へ行くことが難しいため、役所でする手続きを今日中に全てやってしまいたい。
 証人欄を書いてもらうために今から実家に帰ると、往復の時間もかかるし、まただらだら話し込んでしまうだろうし、役所に行く時間が遅くなるのが目に見えている。しなければいけないことが一日で全部終わらないかもしれない。
 そこで名前が挙がったのが実琴と慶人である。同じマンションであるため、すぐに書いてもらえるし、出会いのきっかけになってくれた人たちだから、ふさわしいのではないかという話になった。
 実琴はコーヒーを片手に手作りクッキーを摘まむ。
「婚姻届って、役所自体が開いてなくてもいつでも出せるんだよ」
「知ってる。でも、母子手帳の発行とかその他諸々の手続きは、いつでもってわけにはいかないだろ? 結婚した状態で母子手帳をもらいに行きたいっていうのがあってさ」
「まあ、それもそうか。次の健診までに母子手帳がいるだろうから、早い方がいいのはいいだろうねえ」
 実人と遊びながら会話を聞いていたらしい享も口を挟む。
「無理にとは言わないけど、書いてくれたら嬉しい」
「僕たちはいいんだよ。君たちがそれでよければ。ね?」
「うん。書くよー」
 慶人はひらひら手を振って応じる。
「ありがと」
「じゃあ、僕から書く? 届は?」
「ああ、そうだ」
 鞄からクリアファイルを取り出し、中に挟まった婚姻届の用紙を出して、実琴の前に置く。実琴は電話台からボールペンを取ってくると、左側の記入を始める。
 届の右側に並んだ二つの名前。「夫になる人」と「妻になる人」。「妻」の方を指先でコツコツ叩く。
「なんだかなあ。妻っていうのがなあ」
「伊崎くんはこっちに名前が書けないから、仕方ないよ」
 この国では男女間の結婚が基本だが、両性であるオメガ男性とアルファ女性だけ、「夫になる人」の欄、「妻になる人」の欄、どちらにも名前が書ける。ゆえに一方がオメガ男性であれば男性同士、アルファ女性であれば女性同士での婚姻が可能だ。
「二重線で消して夫にしてやろうかな」
「書類上のことだけなんだからいいじゃない。これで楓も伊崎楓……、じゃないのか。妻の氏にチェックが入ってる」
「あいつがその方がいいって言うから。俺まで伊崎にしたくないんだと。実家とは距離を置いていたいんだろ」
 どちらの氏に揃えるかについては、すんなり決まった。楓はどちらでもよかったので、享の希望を通した。
 実琴はまた席を立ち、電話台の引き出しを開けて中を覗き込んでいる。印鑑を探しているのだろう。
「印鑑、慶人とは別のがいいらしいんだけど」
「あるある」
 朱肉と二本の印鑑を持ってきて、そのうちの一本で自分の名前の横に捺印。
「これでオッケーかな」
「ありがと。助かります」
「あのさ、向こうのご両親にご挨拶は……」
「行かなきゃとは思ってる。享はいらないって言うけど。まあ、体調が落ち着いたらね」
「しんどい?」
「ミコちゃんの美味しい手作りクッキーに手が伸びない程度には」
「この時期は無理せず食べれるもの食べたらいいんだって」
「そうする」
 どうやら悪阻(つわり)が始まったらしく、車酔いをしているような気分の悪さや吐き気を感じることがある。身体の変化が確実に始まっている。怖い、が、腹をくくらないと。毎日そう自分に言い聞かせている。
 数年前に同じ道を通った実琴には、そんな楓の戸惑いはお見通しのようだった。
「楓も、この子を産むために自分はオメガに生まれたんだって思えるようになるよ」
「……そうかな」
「きっとね。幸せなことだよ。好きな人の子供を産めるって」
 実琴の目は、実人と実人を膝に乗せた慶人を見つめていた。慈愛に満ちた、とは多分こういう眼差しのことをいうのだ。
 そんな風に言えるのは、元々実琴の母性が強いからだという気もするが、そうなれたらいいなとは思った。
 楓もつられてリビングの方を見ていると、実人と目があった。
「けーでー、こっち!」
 小さな手を精いっぱい広げ、楓を呼ぶ。実人はまだ舌っ足らずで、いつも楓のことを「けーで」と言っている。
 可愛く呼ばれれば行くしかあるまい。
「はいはい。俺が遊んでるから、慶人も今のうちに書いて」
「うん」
 慶人は膝から実人を下ろし、ダイニングにやって来る。入れ替わりで、楓がリビングのカーペットに座った。
 実人と享の間には、スケッチブックが置かれている。お絵かきしていたようだ。
 何を描いていたのだろう。いびつな丸とガタガタの線、おそらく実人が描いたもの。リアルタッチで描かれたキリンやゾウのイラスト、これは享によるものか?
 亨は他人の絵を飾ったり鑑賞したりするのも好きだが、自分でも描くらしい。いつもはあくまで仕事で必要なときにだけ、らしいが。これまで新聞の端の落書きぐらいしか見たことがなかったけれど、なかなか上手いものだ。
 実人はキラキラ瞳を輝かせながらリクエストする。
「らいおん!」
「はいよ」
 膝にスケッチブックを乗せ、さらさら鉛筆を走らせる。ものの数十秒で、こちらに向かって牙を剥いて威嚇する雄ライオンの姿が現れる。迫力満点だが、子供には怖すぎやしないか?
「もっと可愛く描いてやれよ」
「こんな感じ?」
 怒れるライオンの横に、デフォルメされた二頭身のライオンを追加。愛嬌たっぷりで、このままぬいぐるみマスコットにしたら売れそうだ。実人はこちらの方が好きなようだ。

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