(番外編)ハロー、ベイビー

 もしかしてもしなくても、そういうことか? この親切で心優しいの男の子と、この子の親であろう人物がなかなか結びつかないが、確かに顔は似ている。
深香(みか)瑠々(るる)!」
 鋭い男の声。子供たちは瞬時に反応してそちらを見る。眼鏡をかけたスーツ姿の男が、険しい形相でこちらへ走ってきた。大いに見覚えがある。
 男は女の子を抱いた亨に目を留める。
「……亨さん? ああ、見つけてくださったんですね。ありがとうございます」
「竹司……」
「おかーしゃーん!」
 腕の中で女の子がじたばたしだしたため、亨はそっと下ろす。駆け寄ってきた女の子を、男は慣れた様子で抱き上げた。
 彼は竹司薫。亨の兄嫁だ。つまり、この子供たちは亨の甥っ子と姪っ子ということになる。楓も、そして亨も、時子から話を聞くだけで、これまで彼らの子供たちに会ったことはおろか写真を見たこともなかった。
「深香。母さんの言いたいことはわかるね」
「……ごめんなさい。探検したくて」
「どれだけ探したと思っているんだ。悪い人に連れて行かれたらどうする。一人で妹を守れるのか」
「ごめんなさい」
 母から睨まれ、深香は楓の後ろに隠れて小さくなる。怒られるのがわかっていて、なぜ『探検』などするのだろう。子供とは冒険心と好奇心のためなら無謀になる生き物のようだ。
 亨は全く別のことが気になったらしい。
「もしかして……、竹司が来てるってことは充もいるのか?」
「今は伊崎です」
「ああ、すまない。今日は桜さんも来てくれてるのに……」
「あの人は置いてきましたよ。きっちり見張りをつけて仕事させています。深香と瑠々を亨さんに会わせたい、なんて時子さんが言い出すものだから、私も来るしかないじゃないですか。この忙しいときに引っ張り出されて迷惑な話です」
「俺たちが顔合わせをしたいって言ったわけじゃないからな。母さんが強引に——。おっと」
 楓がふらついたのを、亨が支えてくれる。そのときなぜか深香は傷ついたような表情をしていた。ああ、「ぼくにつかまるといいよ」と言っていたか。この年でもう頼られたい男心を持っているとは。
 竹司、ではなかった、伊崎薫は楓の様子に眉をひそめる。
「具合でも悪いんですか? 悪阻?」
「そうなんだ。日をずらしてもらえないものかと思って」
「冗談でしょう、亨さん。そんなことをしたら、また私たちまで出てこなきゃいけなくなるじゃないですか。挨拶だけして、別室で休んでいたらどうです。部屋を用意させましょう」
「そうしてもらえるとありがたいけど……」
 亨が目で問うてきたので、それでいいと頷く。
「じゃあ、部屋の用意頼む」
「わかりました。もう時間、過ぎてますね。連絡しました?」
「まだ。桜さんに架けるよ」
「私の方も架けておきます」
 結局、両家顔合わせは決行されることになったようだ。

 薫に連れられてやって来たのは、ホテル内レストランの個室。ホテル自体がハイクラスなので、当然レストランの敷居も高く、「貧乏人は帰れ」という拒絶のオーラを感じる。居酒屋の掘りごたつが落ち着く楓にとっては、居心地の悪い場所だった。
 個室の中にいたのは、亨の両親、楓の母と姉、それからなぜか藤谷。
 遅れてやって来た五人に気づいたのは、藤谷が最初だった。
「あ、来た! せんぱーい、大丈夫ですか?」
「なんでお前がいるんだよ……」
「桜さんのフィアンセですから、もう家族みたいなもんでしょ? それに、伊崎さんのお父さんが、あのIZKグループの総帥だって聞いて会ってみたくて。経営者として尊敬してるんです!」
 ミーハー丸出しの藤谷を内心どう思っているのかは知らないが、伊崎家の父、誠一はにこやかに対応していた。
「ははは。藤谷くんは面白い子だねえ」
「今月の経済誌のインタビューも読ませていただきました。すっごく勉強になりました! もっとお話を伺いたいです」
 一応経営者の端くれである藤谷がべた褒めするのだから、伊崎父はすごい人なのか? こんなホテルをいくつも所有して迎賓館のような家に住んでいる時点ですごいことはすごいのだろうが、楓の中でのイメージは「愛人を自分の秘書にした上自宅に囲う不倫常習犯」だ。
 図太く能天気な藤谷のおかげで、場の雰囲気は暗くないようだった。遅刻を責められることもなかった。しかし、料理の匂いと食前酒の匂いで、ますます胸が悪くなってきて、和やかな会話に愛想笑いするのさえ難しい。
 伊崎父が挨拶して伊崎家の面々を改めて紹介、楓の母が玉木家の面々と藤谷を紹介し終わった後、気持ち悪さが限界で、桜に付き添われて席を立った。亨はこの場に残ってもらった方がいいという判断だ。
 個室を出たところで、深香がとことこ追いかけてきた。
「ぼくも行く」
「大丈夫。俺の姉ちゃんに連れてってもらうから」
「しんし」
「そうだな。お前は紳士だよ。母ちゃん、妹の世話で大変そうだからついててやれ」
「かえで、けっこんするの?」
「もうした」
「……そうなんだ」
「おう」
「ぼく、かえで、きれいだと思う」
「ありがと」
 深香は楓をじっと見つめたあと目をそらし、とぼとぼ元いた部屋へ戻っていく。その小さな背中からは大きな悲しみが感じられた。
 桜は大袈裟に肩をすくめる。
「罪な子ね。あんな小さな子に失恋の傷を負わせるなんて」
「……そこまでのあれじゃないだろ」
「絶対そうよ。あの子もアルファなんでしょ? あんた、ほんとアルファ男にはモテモテよね」
「……」
 応える余力はなく、むっつりと黙り込む。とにかく早く横になりたかった。

 両家顔合わせという名の食事会はつつがなく終了した。
 後から亨に聞いたが、この結婚に否定的な発言や、アルファ家系であることをひけらかすような発言などはなかったようだ。
 藤谷が伊崎父を褒め称え、この場には関係ないビジネスの話を延々と喋っていたらしく、玉木側にマイナスな発言をする雰囲気ではなかったという。それどころか伊崎父は下手に出て、充の起こしたストーカー事件について、再度謝罪したようだ。こういうところは常識的だ。
 楓は用意された部屋で一寝入りさせてもらい、最後の最後に顔を見せて謝っておいた。主役の一人がほとんどその場にいなかったことについて、時子に嫌味を言われることはなかった。母が時子と出産子育ての苦労を語り合うことで、「悪阻って大変よね!」という空気を作ってくれたらしい。
 帰りはタクシーで帰宅した。夕飯は享が作るというので任せる。一寝入りしたことで幾分気分がましになっており、食事を取ることはできた。亨は元々器用なので、それなりに美味しくできていた。
 食後はゆっくりお風呂の時間。楓がバスルームに入ると、亨もしれっとついてくる。以前は一緒に風呂に入るのを拒否し続けていたが、今は断らなくなった。
 きっかけは何だったか、番になって二年目の亨の誕生日のときだったか。事前に何か欲しいものはないか聞いたところ、「プレゼントは要らない。楓とお風呂に入るだけでいい」と言うので、なんだか可哀想になり、一緒に入ってやったのだ。
 あれからときどき二人でバスタイムを過ごしている。髪や身体を洗ってくれるから、こちらが楽でいい。
 湯船に浸かり、後ろから包み込むように抱っこされる。亨のリラックスしたときの匂いが、ボディーソープの香りに混ざって立ちのぼり、バスルーム中に広がる。
 彼は楓の濡れた髪に頬を押しつけ、溜息をこぼす。
「可愛い奥さんとお風呂でほっこりできて、俺はとても幸せです」
「奥さんってやめろ」
「なんで? 結婚したじゃん。お嫁さんは?」
「どっちも駄目。なんかしっくりこないんだよな、そういう呼び方。お前のことも『うちの旦那が』とか『うちの主人が』とか絶対言わねえからな」
「じゃあ、なんて呼ぶ?」
「連れ合いとか……」
「熟年だなあ」
「普通に名前でいいだろ」
「まあ、そうだね」
 亨の足を肘掛けがわりにしていた楓の手を、彼はゆっくり撫でる。性感を煽るためではなくて、労るためにするような触り方。風呂で行為に及ぶのは好きではないが、これくらいならいい。
「藤谷のやつ、自分たちの結婚式の前に俺たちのをやるって張り切ってたぞ」
「なんであいつがはりきるんだよ」
「もうすぐ身内だろ。桜さんの旦那になるんだから、お前の兄ちゃんだな」
「なにそれ、あいつが兄とかすっごく嫌」
「今日の感じだったら、うちの親が来ても変な感じにはならないと思うし、なりかけたら藤谷を出動さたらいいし、簡単なお披露目パーティーみたいなのやろうよ。悪阻が落ち着いた時期にさ。一応、けじめっていうか」
「準備とか面倒臭い」
「俺がやるよ。それに藤谷も」
「そうだな。あいつを扱き使ってやろう」
 くだらない恋愛相談に散々乗ってやったのだ。藤谷も働いて然るべきだ。
 全身の力を抜いて亨に体重をかけてやると、番になったときの噛み跡をぺろりと舐められ、甘噛みされる。いつの間にか腹に移動していた手が臍の辺りを丸く撫でた。
「今のうちにしっかり見とけよ。そのうち腹が出てきてみっともなくなるから」
「みっともなくならないよ。楓は綺麗」
「それ、深香にも言われたわ」
「幼児にまで口説かれたの?」
「まあな。あいつ、親が二人ともあんな感じなのに、めっちゃいいやつだった。ハンカチ貸してくれてさあ。うさのすけのやつ」
「うさのすけが好きって?」
「そう言ってたぞ。……おい」
 彼の手がさらに下の方に行こうとしていたので、抓ってやめさせる。
「あとで」
「ごめんなさい。つい」
「あのエキセントリック秘書でも子育てできてるんだから、俺でもできそうな気がしてきた」
「楓はいいお母さんになる思う」
「お母さんってのもしっくりこないなあ」
「そのうち慣れるだろ。お母さん、ママ、どっちでもいいけど」
「頑張って働いてくれよ、パパ」
「任せて。いいペンもらっちゃったしね。この間、職場で格好いいの持ってるって誉められちゃった」
「職場にはもう報告した?」
「した。手続き諸々済ませたよ」
「名前は?」
「当分は旧姓のままいくことにした。玉木に慣れるのに時間かかりそうだな」
「玉木、玉木さん、玉木くん」
「職場で呼ばれたら桜さんのことみたい」
「姉ちゃんは藤谷になるんだろ。伊崎が玉木で玉木が藤谷、ややこしいな」
「ほんとにな。でも、名字が同じって夫婦感が出ていい」
 来る、とはわかったが、避けないでおいた。ちゅ、と唇にキスをされる。
「これからもよろしく」
「こちらこそ」
 妻と夫、母と父、呼び方が変われど、存在の奥深くに根ざした関係はきっと揺るがない。
 どうぞよろしく。これからも、ずっと。

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