〈第二章〉自称婚約者の暗躍

 【アデュタイン王都にて——ルマ・ロージアン】

 いつものようにヒノワ邸を訪れ、いつものように小憎らしい使用人女から丁重なお断りを受けた後。夕刻になって、ルマはヒノワの兄王子で王立軍に所属する軍人、スーイの邸に向かう馬車の中にいた。今から彼に大事な話がある。
 徹底的にルマを避けるヒノワについての情報を得るため、ルマはまず、ヒノワの兄でスーイの弟であるメサ王子を訪ねた。
 元々ロージアン家はアデュタイン王家と繋がりがある。かねてからヒノワの兄姉たちとも面識があり、ヒノワと再会して結婚を決めたときからさらに仲を深めておいた。結婚を推し進める味方となってもらうために。
 兄姉のうち、誰から情報を引き出しやすいか考え、一番口が軽そうで一番頭が悪そうなメサを最初に選んだ。そんな男だから重要な情報を握っていない可能性も高く、あまり期待はしていなかったが、彼が漏らした情報は極めて有益だった。
「病で伏せっている? いや、拉致されたんだろ、あいつ」
「拉致……?」
「移動中の馬車を襲われたらしい。なんかよくわからん薬品を嗅がされて、護衛も従者も眠らされてたとか。スーイ兄さんたちが今必死で探しているそうだけど、一向に見つからないようだ。犯人から何の要求もないそうだから、大方どっかに売り飛ばされた後だろ。あいつ、見てくれだけは良いから」
「そんな、ヒノワが……」
「まあ、残念だったな。お前もあんな出来損ないにこだわってないで、早く次を見つけろよ」
 一瞬殺意が湧いたが、笑顔の下に押し隠した。他の兄姉数人に確認を取ったが、メサの情報は真実のようだった。
 ヒノワが攫われた。犯人はあの男に違いない。五年前にルマからヒノワを奪ったあの男。先月ヒノワ邸のあるカカリイの街中で一度だけ見かけた。ヒノワがルマに対してあまりにつれないのは、あの男とまた繋がりができたからだと踏んでいたが、まさか攫っていくとは。頭のおかしい人間のやることは予想がつかない。
 出来ればこの手で捕まえてヒノワを取り返したいが、生憎ルマはあの男のことをよく知らない。ファーストネーム(ヒノワが呼んでいるのを聞いた)、元住んでいたアパートの場所(ヒノワのあとをつけて知った)、外見の特徴(あとをつけたときに見た)、わかるのはそれくらいだ。
 自力で探せないなら他人に探させればいい。利用できそうなのはヒノワを捜索中だというスーイ王子だ。ルマが握っている有益な情報を与えてやろう。意思の堅い厳格な男らしいから、思い通り動かすのは骨が折れそうではあるが、文句は言っていられまい。使えるものは使ってやる。
 カカリイから王都へ入ってしばらく走り、スーイ邸に到着した。彼はまだ未婚だが、独立した邸を構えているようだ。ヒノワと違って身内から爪弾きにされているわけでもないのに。三十にもなって未婚なら、それはまあ、実家には居づらいか。どうでもいいが。
 スーイ邸では、約束を取り付けていなかったにも関わらず、丁重に招き入れられ、応接室に案内された。当然だろう。いくらこの国の王子の邸とはいえ、こちらも隣国の最高権力者の子息である。無下にはできまい。
 スーイがこの日在宅しているという情報も、彼の兄弟から得ている。彼はすぐ応接室に姿を見せた。
 王宮の作法に則って恭しくお辞儀をする。
「突然お伺いしました非礼をお許しください、殿下。どうしてもいち早くお耳に入れたい件がございまして……」
「ちょうど家にいたところだから構わない。とりあえず座れ」
「はい」
「それで、ルマ・ロージアン、私の耳に入れたいこととは?」
 席についた途端に本題か。前口上を考えてきていたのだが、聞く気はないらしい。
 どうも彼には距離を置かれているような気がする。これまでパーティーなどでお近づきになろうとしたときも、ずっとこんな突っ慳貪な物言いだった。まあ、ともかく話さねば始まらない。
「実は、ヒノワ様が何者かに連れ去られたという話を聞きまして」
「……どこから? 伏せられている情報のはずだが」
「さるご兄弟からでございます」
「ああ、そうか。だいたいわかった。で、お前が伝えたいのは今回の事件に関する内容か?」
「はい。私は犯人に心当たりがございます」
「なに?」
 食いついた。このまま押そう。
「殿下もご存じの通り、私とヒノワ様には血縁がございます。五年前、母君のミラ妃がドンディナにあるジェスター邸でご静養されていた当時、私もよくその邸に出入りしておりました。ミラ妃ともヒノワ様とも親しくさせていただいていて、極めて私的なお話を聞く機会もございました」
 今から言うことは、実際にはヒノワとミラ妃の会話を立ち聞きしただけだが、わざわざ言うことでもあるまい。事実を「多少」脚色してでも、スーイをこちらの味方につける。
 いかにも深刻そうに声のトーンを落とす。
「ヒノワ様の名誉のため、このようなことを明かすのは心苦しいのですが……」
「緊急事態だ」
「ええ、そうですね。何よりヒノワ様のお命がかかっていますので、打ち明けさせていただきます。ヒノワ様はその頃、一人の男から一方的に懸想されていたようで、とてもお困りのようでした。付き纏いは何ヶ月も続き、ついには散歩中に捕まって手籠めにされ——。まだ無垢であったヒノワ様にはさぞかし辛い出来事だったでしょう」
「……まさか。そんな話、聞いたことがない」
「そうでしょうとも。ヒノワ様は当時の記憶を失ってしまわれましたし、元よりこの事実を知る者はとても少ない。今は亡きミラ妃と私と……ぐらいでしょうか。ヒノワ様の記憶喪失の原因はその出来事なのではないかと、私は疑っております。真偽のほどは確認しようもないですが」
「……」
「本題はここからです。先月ヒノワ様が攫われる数日前でしょうか、私はカカリイで一度かの男を見ました。あんなにしつこかったのです。アデュタインまでヒノワ様を追いかけてきてもおかしくない。あの男が犯人に違いありません」
「……なるほどな」
 スーイはもたらされた情報を吟味するように、腕を組んで沈黙した後、口を開く。
「確かに怪しくはあるが、それだけで犯人と決めつけるのは。そもそも、五年前の男と先月お前がカカリイで見かけたという男、本当に同一人物なのか? 追いかけてくるなら、もっと早くに来るだろう。なぜ今頃? 見間違いということも考えられるのでは?」
「ありえません。憎い男の顔ははっきり覚えています。間違うはずがない」
「まあいい。とりあえず、そいつについて知っていることを全て話せ。こちらで調べてみる」
「はい」
 ああ、やはりこいつはやりづらい。五年もの間、あの男がアデュタインに来られなかった理由は見当が付くが、それを話すと自分の首を絞めることになるので言えない。
 あの男について調べるなら、スーイはこの後ドンディナ警察に協力を求めるはず。情報はドンディナ警察から流してもらえばいい。絶対に見つけ出してやる。

 【ヒノワ邸にて——カロ・トルル】

 その日、朝も早くからヒノワ邸にやってきたスーイは、マリとカロを呼び、玄関ホールで開口一番こう尋ねてきた。
「お前たちは五年前、ミラ妃のドンディナ行きに同行していたか?」
 マリは困惑しつつも首を振る。
「いいえ。息子がまだ小さかったので、アデュタインに残りました。それが何か……」
「同行していた者がいれば呼んでもらえるか」
「邸からは二人の使用人が付いていきましたが、ミラ様が亡くなってしばらくし、邸を離れました」
「そうか。で……」
 彼は珍しく言葉に詰まっていたが、間を置いてから口に出す。
「お前たちは知っていたか? ヒノワがドンディナで厄介な男に付き纏われていたことを」
「厄介な男……ですか。存じ上げませんが」
 お前はどうだ、とスーイが視線で問うてきたので、カロも答える。
「僕も聞いたことがありません」
「ふむ。実は今回の事件、その厄介な男が犯人ではないかと言う者がいてな。不確かな情報だから、断定は出来ないが」
「そんなのあり得ないんじゃないですか? だって……」
「カロ」
 マリにシャツを引っ張って止められる。
 あの件——ヒノワと思われる人物から手紙が届いた件を伝えるなら、今が絶好の機会だ。ここで言ってスーイに託してしまいたい。このまま自分たちの元に情報を留めておいたところで、状況は一向に好転しないだろう。
 主人であるヒノワの意思を尊重すべき、という母の主張も理解できるが、このままヒノワが見つからないままでもいいのか?
 聡明なスーイが母子の小さなやり取りを見逃すはずはなかった。
「何だ。何か知っているのか」
「え、いや……」
「知っていることは全て教えてほしい。ヒノワを救い出したいという思いは私も同じだ」
 彼の言葉にきっと嘘はない。これまで話してきて誠実な人柄だというのは感じていたし、おそらく出勤前であろう、こんな早朝から動いてくれているのだ。軍の任務というより、真に弟のことを思っての行動だろう。
 カロは母を窺う。彼女も迷っている様子だ。
「母さん……、スーイ様は信用できる方だよ」
「よく存じているわ。でも」
「マリ、頼む。一緒に育っては来なかったが、私はヒノワを弟として大切に思っているのだ。どうか信じてくれないか」
「スーイ様……」
「母さん、いいでしょう?」
「……そうね。スーイ様になら」
「じゃあ、僕、取ってきます」
 スーイには応接室へ移動してもらい、カロは母の部屋へ走って、古びた茶色の紙に包まれた小さな箱を持ってくる。
 応接室で、それをスーイに渡した。
「ヒノワ様が攫われてから、十日と少し後に届いたものです。ここ、『もう一人の母と可愛い弟へ』って書かれています。多分うちの母と僕宛じゃないかと」
「開けても?」
「どうぞ」
 彼は包みを取り去り、中身を改める。
「これはペンダントと手紙か?」
「そうです。ペンダントはヒノワ様がいつも身につけられていたもので間違いありません。中に入っていたミラ様の肖像画がなくなっていますが、デザインがミラ様による特別なものなのでわかります。手紙の方もヒノワ様の筆跡です」
「読むぞ」
「はい」
『心配をかけていることだろうと思う。申し訳ない。事情があってしばらく帰れないのだが、僕は元気だから、どうか気を病まないでほしい。我が儘を許してくれ。追伸、この手紙とペンダントは、なるべくなら君たちの元に留め、内密にしてほしい。』
 もう何十回も読み返した内容。彼がそれに目を通し終わるのを、緊張して待った。
「これは……。無理に攫われたとは思えない内容だな」
「そうでしょう。もちろん、犯人に書かされている可能性もありますけど……」
「駆け落ちに見せかけることで捜索を打ち切らせようとする作戦、か? しかし、その場合、『内密に』などとは書かないだろうし、普通、こんな手紙一枚で行方不明の王族の捜索をやめるわけがないのは明白だ」
「ごもっともです。僕はこれがヒノワ様自身の言葉のように思えてならなくて……」
「私もそう思う」
「やはり、本当に駆け落ちってことでしょうか? ヒノワ様に恋人の影はなかったように思うのですが」
「まだ何とも言えんな。ともかく、有益な情報をありがとう」
 スーイは手紙とペンダントを丁重に箱へ戻し、元のように包み直す。彼の生真面目さはこんなところからも窺い知れる。
「スーイ様、どうかヒノワ様をお願いします。ヒノワ様のお心に添う結果になるよう、僕たちは祈っています」
「ああ」
 力強く頷く彼に、今は頼るしかなかった。

 【マルルギにて——ヒノワ】

 窓から差す光が大分傾いてきた時間帯。玄関で物音がする。
 迎えに出なければと思うのに、身体が怠くて動く気になれない。熱っぽいから、風邪かもしれない。きっとこれまでの疲れが出たのだろう。
 朝から家の中の掃除、それから花壇と畑の手入れをし、昼ご飯を食べた後、少しだけと横になったらこの時間。

1 2 3 4 5