〈第二章〉自称婚約者の暗躍

 その日から機を窺い、ヒノワのあとをつけ、件の男のアパートを突き止めた。ヒノワがアパートの部屋で待っている。男がこの部屋に戻ってきたら、ヒノワと——。そう思うと居ても立っても居られなかった。顔を隠す物を適当に調達してから、護身用の武器を持って男を廊下で待ち伏せし、部屋のドアを開けたところを背後から襲った。
 あの場から連れ出したヒノワを、階段の上から取り落としてしまった時にはひどく焦った。倒れた彼をすぐさま病院へ運んだのはルマだ。名乗りもせず立ち去ってしまったが、ルマの素早い対応のお陰で大きな後遺症もなくすんだのだから、もっと感謝してもらいたいものだ。
 なに、手に入れてからゆっくり聞かせてやればいい。
「そのために……」
 計画を実行に移す。
 自分が仕向けたことではあるものの、サヤ・ラウェンが拐かしの咎で警察に逮捕されてしまえば、ルマとて容易には手を出せなくなる。居場所を突き止められたのなら、警察はもう用済みだ。あいつが逮捕される前に行動を起こす。慎重に、だがゆっくりもしていられない。
 死に損ないを今度こそあの世へ送ってやろう。この手で、確実に。殺し屋を雇う方法もあるけれど、できるなら自ら恨みを晴らしたい。
 そして、自分がヒノワの新しい番になる。いったん結ばれた番関係を解消する方法はない、と言われているが、どちらかが死ねば無効になる。ヒノワを手に入れるためには、どうしたってあの男が邪魔なのだ。

 【マルルギにて——サヤ・ラウェン】

 リズドーから戻って数日、何事もなく日々は過ぎていく。
 裏庭で畑仕事をするヒノワを時折窓から眺めながら、サヤはキッチンでことことシチューを煮込んでいた。
 ヒノワはリズドーを訪れたことを切っ掛けに、徐々に記憶を取り戻しているようだ。思い出話をして笑い合うことも増えた。何年も渇望していたものがすぐ側にあるということを少し怖いと感じるのは、サヤが臆病だからだろうか。
 また窓に目をやると、ヒノワの姿が消えていた。直後、靴音がして、キッチンに明るい声が響く。
「見てくれ、サヤ! トマトだ。トマトが出来てた!」
 ヒノワはこちらへ駆け寄ってくると、収穫用にしている籐籠を自慢げに見せてくる。籠の中に三個のミニトマト。形はいびつだが、真っ赤で美味しそうだ。
「おめでとう。よく育ててくれたね。時期を外したから心配だったんだけど、上手く実ってよかった」
「ああ。緑の実がまだいっぱいあるから、これからどんどん採れる」
 喜色満面のヒノワの頬は泥で汚れていたが、それは彼の生来の美しさを欠片も損なわせるものではない。
 ——眩しいな……。
 初対面で彼の髪色を見て日輪草のようだと思ったが、日輪草はサヤの方かもしれない。彼という太陽に焦がれて太陽に向かって咲く花。
 ヒノワは無邪気にサヤの腕を取る。
「記念すべきトマト収穫第一弾、一緒に食べよう」
「君がほとんど世話をしたんだから、君が食べなよ」
「駄目だ。一緒に食べるんだ」
 一つをサヤの口へ押し込み、彼も一つ食べる。爽やかな酸味が旨い。残るはあと一つ。
「これは半分こ」
 ヒノワはヘタを外し、小さなトマトの中程を歯で挟む。半分食べてから渡されるものだと思ったが、彼はそのまま動かない。じっとこちらを見つめている。
「うーん……、これは反対側から俺も食べろってこと?」
 彼は首肯する。
 無理があるのではないか、と思ったが、面白そうなチャレンジではある。唇を寄せ、サヤも齧りつきにいく。だが、案の定上手くいかず、トマトは滑ってサヤの口内へ躍り込んで来る。舌で押し戻して再度挑戦するも、また失敗。今度はヒノワの口内へ。
 そうして同じことを繰り返していると、もはやただのキスと変わりなくなってしまう。何となくやめたくなくて、トマトの押し戻しあいを続けていたが、何度目かにヒノワの口へ入った途端、彼はぴたりと動きを止める。
「……もしかして、飲んじゃった?」
 こくりと彼は頷く。
「喉に詰まってない?」
「大丈夫……。抜けていった」
「それならよかった」
「ふふ、なんだか楽しかった」
「俺も」
 からからと笑いあう。ああ、可愛いヒノワ。俺の愛しい人。いつまでもこんな時間が続けばいいのに。

 その願いが簡単に叶うはずもなく。
 異変を感じたのはその翌日のこと。出勤途中に自分を見つめる誰かの視線を感じた。初めは気のせいかと思ったが、仕事帰りにも同じことが起こった。周囲を探ってみたものの、姿は確認できない。
 ——まずい……。
 いつからだ? 誰が? 監視されている、確実に。今すぐあの家を出ないといけない。
 アデュタイン国外に出ているし、ここまで追っ手が来るのはもっとずっと先のことだと思っていた。ヒノワを連れて外に出るときは充分に注意をしていたはず。どこからバレた?
 逃走資金が貯まるまでは、あの家でひっそりと暮らしていく予定にしていたのだが——。
 ——甘かった……。
 駆け足で家路を急ぐ。家にはヒノワが一人だけ。彼を探す人々に連れて行かれでもしたら、またあの暗澹たる日々に逆戻り。いや、もっとひどい。再びまみえる可能性が限りなくゼロに近くになるのだから。いつかまた、という微かな希望に縋って生きることさえできなくなる。
 近道を通ることにし、畑の畦道を突っ切る。農夫たちも仕事を終え、帰宅している時間帯。見咎められることはあるまい。
 農機具小屋の脇に差し掛かったとき、何かを落とすような音がして、反射的に足を止めた。何も見当たらず、再び走り出そうとしたとき——。
「……?」
 背中に当たった、金属ような硬い感触。
「まさかこうも上手くいくとはね。ほんと間抜け」
「……」
 初めて聞く男の声。気配などなかったはず。慌てすぎて気づかなかったのか?
 振り向こうとすると、より強く「硬い何か」を押しつけられる。
「ああ、動くなよ? お前に突きつけてるの、銃だから」
「……誰だ。警察か」
「さあねー」
「警察ではないということだな」
 背中を冷や汗が伝う。男はそれには答えず、せせら笑いを漏らす。
「はは。お前も馬鹿だよね。五年前に大人しく死んでおけば、二度も殺されることはなかったのに」
 ——ということは、やはり。
「ルマ・ロージアン……」
「気安く呼ぶな、下賤の輩が。忌々しい」
 下賤ではないはずの彼の、大きな舌打ちが響く。
「すんなり殺してやるのもなあ。散々僕を虚仮にした報いを受けさせたいよ」
 カチャリという金属音に肝が冷える。
 落ち着け。こんなときこそ冷静に。ひとまず逃げ出すチャンスを窺うため、出来るだけ会話を繋ぐことだ。
「……俺がいつ君を虚仮にしたと? これまでまともに言葉を交わしたこともないと思うんだが」
「お前が彼を誑かしてから今に至る全てだよ」
「このことは警察は知っているのか」
「知るわけないだろう。知っていたら止められるさ。でも、君が逮捕されたとしても死刑になるとは限らないし、死刑になったとしてもすぐには執行されない。だとすると、こうしちゃうのが一番確実で早いよね」
 絶対にサヤを殺せるという自信があるせいか、べらべらとよく喋る。
 そうだ。もっと喋れ。その間に誰か通りかかれば、あるいは。……いや、この時間、滅多に人は通らないか。大声を出したところで、民家まで届くかどうか。護身用に相手の気を逸らすための軽い爆薬でも作っておくんだった。
 どうする? 考えろ。とりあえず会話を途切れさせてはいけない。
「俺を殺したところで彼は手に入らないと思うよ」
「お前が生きていれば確実に手に入らない。番の絆というのは強力らしいからね。それを断ち切ってしまえば、あとはじっくり。どうとでもなる」
「番になっていたことまで知って……」
「僕は耳がいいからね。……さあ、お喋りはそろそろ終わり。リズドーでは殺し損ねたが、今度こそは……ね。最初はどこにしようかなあ」
 銃口が背を滑り上がってくる。
 ——ここまでか……?
 ここで死ぬのか。愛しい番を残して。
 覚悟を決める間もなく——。
「そうだな。私は頭を狙うとしよう」
 背後からくぐもった男の声。役者のようによく通るルマの声とは違い、布越しに喋っているかのように不明瞭で、少々しゃがれている。
 ルマにとっても想定外だったようで、低く誰何する。
「……誰だ」
「動くなよ。お前に突きつけているのは銃だから」
 さきほどのルマと同じことを言う。ルマにもまた銃が向けられているらしい。
 いいところを邪魔され、ルマは突如加わった第三の男に苛立ちを露にする。
「見ていたのか?」
「ああ。危なくなったら止めに入ろうと思っていた。決闘なら見逃すが、丸腰の相手を不意打ちで襲うなど卑怯すぎる」
「事情も知らぬくせに勝手なことを言うな。いいから放っておいてくれないか。金なら後でいくらでも……」
「出来ない相談だな。言っておくが、お前に向けられている銃は一つではないぞ。離れて二人いる」
「……」
「この状況はどちらに不利か理解できるか。死にたくないならここを立ち去れ」
「お前らは誰? なぜこいつを助ける」
「通りすがりの者だ。卑怯な殺しの現場を見過ごせなかった。さあ、早く」
「……仕方ないね。僕だって死ぬのも怪我するのも嫌だ」
 ルマはしぶしぶ銃を捨てる。憎しみのこもった目でサヤを睨みつけ、彼は畑の向こうの茂みの中へ消えていく。
 いったん危機は去った……のか?
 ほっと胸を撫で下ろして振り向くと、そこには長身の男がいた。男は口を覆った布と帽子を外す。声の印象より若々しく精悍な容貌だった。
 彼はまさしく命の恩人。
「ありがとうございました。助けていただいて……」
「礼には及ばん」
 布越しだったとはいえ先ほどの声と違いすぎて驚く。低いがしゃがれてはおらず、澄んだ声色だ。声を作っていたのか? 何のために? ……いや、今気にすべきことではない。
「あなたがいなければ本当に危なかったですから。本当に助かりました」
 命を救ってもらったのだから、言葉だけでは不十分だろう。だが、礼として渡せるほどの金も物も持ち合わせていないし、何より今は時間がない。家にいるヒノワのことが気にかかる。
 そわそわするサヤの考えを読んだかのように、男は言う。
「早く家に帰らなくていいのか。あいつは今一人なのだろう。念のため部下に護衛させてはいるが」
「……?」
「行くぞ」
「あの、どこへ……」
「お前の家だ」
「どうして」
「ああ、自己紹介がまだだったな、サヤ・ラウェン。私はアデュタイン王国第二王子のスーイだ。王立軍に所属している」
「王子……軍……」
 ヒノワの兄で、アデュタインの軍人。つまりはヒノワを血眼になって探している者。
「話がある。ヒノワにもな。共に聞いてもらいたい」
「……」
 全身から血の気が引いていく。ああ、もう逃げ切れない。危機は去ってなどいなかったのだ。
 男から半歩遅れ、茫然自失の体で家までの道のりを歩く。これでまた引き離される。またあんな思いを味わうくらいなら、もういっそ殺してくれと思う。しかし、サヤが死ねば番関係は解消され、ヒノワはまた新しい番を持つ——あるいは持たされる——かもしれない。
 ——絶対に嫌だ……。
 どうすればいい? 一体どうすれば。まだ打てる策は。軍人相手に何が出来る?
 混乱した頭で良い案など思いつくはずもない。何も浮かばないまま自宅に到着した。

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