〈第二章〉自称婚約者の暗躍

 ドアの鍵を開けずに抵抗することも考えたが、恐らく無駄だ。軍人ならサヤから無理矢理鍵を取り上げることなど容易だろうし、鍵がなくても侵入方法などいくらでもある。
 死刑台に上るような心持ちで開錠する。スーイは後をついてきていた二人の仲間を外に残し、中に入っていく。
 居間にいたヒノワは、スーイを見て全てを悟った様子だった。
 ——奪われてなるものか……。
 何か武器になるものはないか? すぐ手にできそうなのは、ローテーブルの上の鋏ぐらいしかない。
 軍人相手にこれで真正面から立ち向かおうとするのはあまりに無謀だ。ならば、ヒノワを人質にとって脱出を試みるか? そちらの方が可能性は高そうだ。
 ローテーブルはスーイの背後に位置しており、死角だ。さっと手を伸ばし、鋏を取る。ヒノワとアイコンタクトを取ると、彼は大きく首を振った。
「……駄目だ、サヤ」
「……」
「そんなことをしても、絶対に逃げ切れない」
「でも……、もう嫌なんだ、君を失うのは」
 叶うなら、君の邸の庭に咲く一輪の花になりたい。君の心を癒し、君に愛でられて生涯を終える、可憐な花に。
 ヒノワがこちらへ歩み寄ってくるのを、彼の兄は止めない。
「僕だってそうだ。僕の人生からまた君がいなくなってしまえば、今度こそ僕の心は死んでしまう。だが、方法は考えるべきだ。前に言ったように——」
「何か勘違いをしているようだが……」
 手と手を握り合う恋人たちのやり取りに、スーイは口を挟んでくる。
「私はサヤ・ラウェンを逮捕するためにここに来たのではないぞ」
「……どういうことです、兄上」
「第一にお前たちから事情を聞くためだ。ルマが好き勝手動き始めたようだから、それを警戒するためでもあった」
「……」
 ヒノワと顔を見合わせる。スーイの思惑が読めず、不信感を露にしてしまう。
 彼はルマと対峙していたときより幾分リラックスした様子で、ソファを指す。
「とりあえず座らせてもらってもいいか」
「こちらとしては拒否できる状況ではありません」
「そう硬くなるな、ヒノワ。私は軍人としてここに来ているわけではないよ。お前の兄としてきた。まあ、お前たちも掛けたらどうだ」
 決して離れはしないという意思表示のように、ヒノワはサヤの腕にしがみついたまま首を振る。
「それならそれでもいいが、疲れないか?」
「疲れません。……では、兄上は軍部の命令ではなく、父上の命令で来たということですか。そもそも王立軍のトップは父上なので、どちらも同じことですけど」
「いや、私の独断だ。部下を連れてきたのは、ルマが行動を起こしたときに対処するためで、お前たちをどうこうするためではないよ。現に今は外に出している」
「兄上が独断で動く必要がどこに?」
「お前たちの話を聞いて、それから対応を考えるためだよ。話してくれ、ヒノワ。お前は本当に拉致されたのか? お前が邸に送った手紙を読んだが、とてもそんな風には思えなかったのでな」
 ヒノワの無事を知らせるために、邸にいる使用人宛に送った手紙。できれば内密にするよう、手紙の最後に書き添えていたのだが。
「あれをご覧になったのですか……」
「マリとカロに頼んで見せてもらった。あいつらも最初は拒んでいたが、第三者の不可解な思惑が絡んできたのでな。私が無理を言ったのだ」
「不可解な思惑とは?」
「だいたいわかるんじゃないのか。ルマ・ロージアンだ。あいつはサヤという名の人物が拉致の犯人であろうと私に告げ、居場所を探すよう仕向けてきた。その後ルマは捜査情報をドンディナ警察を通じて知り、さっきのあれ、というわけだ」
「あれというのは……」
「実は帰り道にルマと遭遇して、銃を突きつけられたんだ」
 サヤが告げると、ヒノワは表情を強張らせる。
「え……」
「でも、大丈夫だった。君のお兄さんが助けてくれたから」
「あいつ……、またサヤを……!」
「また?」
 眉をひそめたスーイに、サヤから説明する。
「五年前も、俺はルマに殺されかけました。あの時は銃じゃなくてナイフでしたけど」
「ああ、そういえばさっき本人もそういうことを言っていたな。そうか……」
「あれで諦めないでしょうね、多分」
「サヤ、駄目だ。ここは危ない。逃げよう。遠くへ……、ルマもアデュタイン軍もドンディナ警察も追いかけてこられないくらい遠くへ」
「逃げるって……。いや、そうしようとは思っていて、伝手を探してはいたんだけど、いきなりは」
「とりあえず行くしかないだろう。売れるものは何でも売って資金を作って」
 スーイはまた強引に割って入ってくる。
「こら、勝手に話を進めるな。お前たちはもっと他人を頼ることを覚えるべきだな。安心しろ。私が守ってやるから。……その様子だと、やはり連れ去りは狂言で、実際は駆け落ちか」
「違います。俺が連れ去ったことに間違いはありません」
「何を言うんだ。僕が連れてってくれって頼んで……」
「ヒノワまで罪を被ることはない。番の結婚話に焦って、俺が計画して実行したことです」
「犯行に使われた薬剤も君が?」
「はい。自分で調合しました」
「どおりで入手経路が判明しないわけだ」
「……兄上、その」
 言いにくそうなヒノワの後を継ぐ。
「番云々に関して、何も仰らないんですね」
「知っていたからな。五年前、ドンディナでヒノワは付き纏いにあっていて、そいつが今回の連れ去りの犯人、などとルマが言うものだから、信憑性は薄かったが一応調べたのだよ。付き纏いの事実はあったのかどうか、当時ミラ妃に付き添ってドンディナへ行った者たちに話を聞いた。邸から付き添って行った二人の使用人、そしてミラ妃の主治医」
 使用人たちはどちらも「そういった話はなかったと思う」と証言した。
 ミラ妃の元主治医はスーイの説得を受け、長く迷った末、重い口を開いた。ヒノワの首筋には番を持った際にできる噛み跡が残されていること。結婚前に番を持つのは王族として醜聞になり、ヒノワの立場を悪くするから黙っていてほしい、とミラ妃から口止めされていたこと。番の相手はヒノワの恋人であったから、彼から悪質な付き纏いをされていたのではない、他にそういった話は聞いたことがない、ということ。
 ヒノワは納得がいかない様子だ。
「その先生は、今は僕の主治医でもありますが……。しかし、先生は言っていました。これは野犬か狼に襲われたときに出来た傷だと。事実をご存じだったとは思えません」
「ミラ妃との約束を忠実に守っていたのだろう」
「本人にまで嘘をつく必要はないでしょう」
「番に会いたくても会えない現状で、その事実を知らせるのも酷だろう」
「それはそうですが……」
 スーイは足を組み替え、てきぱきと話を進める。
「ルマの件に戻すぞ。おそらく性懲りもなくあいつはまた来る。このまま警護してやりたいのは山々だが、私はいつまでもドンディナにいるわけにはいかなくてな。そこで、だ」
 意志の強い瞳が二人を交互にとらえる。
「一つ提案をする。君たちもいったんアデュタインに戻らないか?」
「……アデュタインへ?」
「ああ。君の邸まで送り届けよう。まさかあの小狡いガキも、君たちが逃げ出したはずのアデュタインに戻ったとはなかなか考えるまい。時間が稼げるはずだ」
 抱きつくヒノワの腕にいっそう力がこもる。
「嫌です。そんなことをすればサヤが捕まってしまいます」
「ここにいたってどうせすぐに捕まるぞ。ドンディナ警察の作った容疑者リストの一番上にはサヤ・ラウェンの名前がある。別の国に逃亡したとしても、素人二人で追っ手を撒けると思うのか」
「……」
「国に戻って父上ときちんと話をしなさい。なぜあのような事件を起こすに至ったか、事情をきちんと説明すれば、恩情をかけていただけるかもしれない」
「父上が許してくださるはずがない」
「完全に何もなかったことにすることは難しいだろうな。しかし、お前たちに同情すべき点もあるということは、父上もわかってくださるはずだよ。少なくともドンディナ警察よりは親身になってくださるだろう。父上の決定はすなわち国としての決定だ。うまく説得すればお前たちが二人で穏やかに暮らす道が開ける」
「……わかりました。仰るとおりにします」
「サヤ!」
 相談もなく承諾したサヤに、ヒノワは声を尖らせる。だが、サヤは全てを諦め投げやりになったわけではないのだ。
「殿下の仰っていることは正しい。どのみちこの状況では逃げ切れないし、少しでも可能性のある道を選ぶ方がいい」
「そう、かもしれないけど、でも」
「ヒノワ、この兄を信用してほしい。決して悪いようにはしない」
「……」
 反論したくとも味方はおらず、たとえ受け入れ難くても、ヒノワにはここで形だけでも頷くほかできなかったのだろう。
「……わかりました。父上がサヤをいじめるなら、王宮中の壺を壊して回ってやる」
「君はまたそういうことを……」
「そうと決まれば早い方がいい。お前たち、明日の朝発てるか」
「まあなんとか」
「荷物はなるべく少なくな。アデュタインでも買えるものは置いていけよ」
「はい。最後に、兄上。これだけは聞いておきたいです」
「何だ」
「なぜ僕たちのためにそこまでしてくださるのです。放っておいたって僕はそのうちドンディナ警察によってアデュタインへ連れ戻されるでしょう」
「……ミラ妃には昔世話になったからな」
「母上に?」
 五年前に他界したヒノワの母、ミラ妃。彼女とスーイとの繋がりは、ヒノワにとって意外なものであったらしい。
「まだヒノワが産まれる前、あの方が王宮で生活なさっていた時のことだよ。私はこう見えて、小さい頃は勉強が大嫌いでね。王太子である兄だけが頑張ればいいと思っていた。うるさい教育係からよく逃げ回っていたのだが、そんな時に私を匿ってくれたのがミラ妃だった」
 ミラ妃は幼いスーイを自室に連れて行き、菓子を与え、不満を聞き、スーイの機嫌が直るまで待ってから帰した。彼女と話すと、不思議と頑張ろうという気になれたのだという。
 そんな出来事が何度かあり、スーイは彼女にとても懐いていたらしい。
「ミラ妃に赤ん坊が産まれてからしばらくして、王宮を出て行くことになったとき、彼女は私に言った。離れて暮らすことになっても、この子のいいお兄ちゃんでいてあげてね、と」
「それを今実行しているとでも?」
「ああ」
「どれだけ律儀なんですか……」
「他ならぬあの方からの頼みだからな。今でもミラ妃を慕うお前の邸の使用人たちのためでもある」
 サヤはこのスーイという王子と初対面ではあったが、ここで話しただけで、真に信頼して付き従ってもいいと思わせるような実直さや、人心を引きつける力を感じた。彼は上に立つべくして生まれてきた人間なのだ、おそらく。立場は同じようなものでも、ルマ・ロージアンにはないものを彼は持っている。
 スーイはすっくと立ち上がる。
「さて、そろそろお暇しよう。私は宿に戻るが、護衛役は残していくよ。家の中にまでは入ってこないから安心したまえ」
「お気遣いに感謝します、兄上」
「ありがとうございます」
「では、明日」
 軍人らしくきびきびと、余韻も残さずに彼は去って行った。
 彼が出ていった後の扉を、しばしじっと眺めていたが、ぽつりとヒノワは呟く。
「……よかったのかな、これで」
 それはわからない、誰にも。神にしか。
「今の状況では彼を信頼するしかないよ」
「信頼はできる、と思う。彼はとても兄弟思いだから。でも、兄弟思いであると同時に、父にとても忠実だ。父が僕たちを受け入れなかった場合、どちらの側につくのだろうな」
「もしも思惑通り行かず、未来永劫引き離されることになったとしたら……」
 これまで何度も考え続けてきた、恐ろしい可能性。
「俺と一緒に死んでくれる? ……なんて」
「いいよ」
「即答?」
「サヤがそうしたいならそれでいい」
「そっか。それを聞いて少し気が楽になった」
 そっと彼の肩を抱く。寄り添ってくるこの温もりをずっと離さずにいられますように。

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