〈第二章〉自称婚約者の暗躍

 階下で足音がしている。ヒノワを探しているのだろう。一階にいないのがわかると、足音は焦ったように駆け足で階段を上って二階へ。まず、ヒノワが使わせてもらっている客間へ行ったようだ。それから、他にいくつか扉を開けて、この部屋の扉が開く。
「……ヒノワ、いた」
「おかえり、サヤ」
 サヤの寝室のベッドに潜り込んだヒノワを見つけ、彼は安堵の息を漏らす。
「探したよ。隠れんぼは心臓に悪いからやめてほしいな」
「隠れてたわけじゃない。ただなんとなく……」
 なんとなくサヤの匂いに包まれていたい気分だったのだ。理由なんてそれだけ。
 動きたくないので、手招きして彼を呼ぶ。
「なあ、こっち」
「どうした? 調子悪い?」
「ちょっと熱っぽい」
「それは大変だ。診てみよう」
「んー」
 何とか上体を起こし、近づいてきたサヤに抱きつく。彼の腹に顔をうずめ、思いきり息を吸い込んだ。ああ、なんていい匂い。
「何してるの……」
「すーはーしてる。こんなの大した熱じゃない。寝ていれば治る」
「油断は禁物。診させて」
 ヒノワに顔を上げさせ、額や首筋に手を当てたり、口を大きく開けさせて喉の奥を診たりする。
「医者のやるようなこともするんだな」
「いや、専門外。多少知識があるってだけだよ。……うん、異常はなさそうだね。薬を使うほどでもなさそうだ。風邪の引き始めに効く薬草茶をブレンドしようか」
「蜂蜜たっぷりで」
「はいはい。ここに持ってくる? 下に来る?」
「下に行く。サヤがお茶を入れるところを見る」
「そんなに面白いことしないよ?」
「別にいい。見ていたいだけ」
 もう一度抱きつくと、つむじにキスをされる。
「ほら、行くよ」
「連れて行ってくれ」
「甘えるなあ」
 彼は笑ってヒノワを抱き上げる。あったかくていい匂いで気持ちいい。この上なく満たされてふわふわして幸せ。そのまま階下へ降りた。

 異常が起こったのはその夜のことだ。身体が熱くて目が覚めた。日中の比ではないほど全身が怠くて、息がしづらい。いつもの風邪と違うのは、節々や喉の痛みがないこと。
 ——それに、なんか腹がおかしい……。
 下腹の辺りが疼くような、脈打つような。そこに意識を集中させると、さらに熱さが増す。
 もしや今までにかかったことのない病気なのでは? 夜中にサヤを起こすのは心苦しいが。
「薬、もらわないと……」
 何とか起き出す。廊下を歩いているうちにも熱は高まるばかり。南方にあるという灼熱の砂漠で遭難したかのような気分で、壁に寄りかかりながら、なんとかサヤの部屋の前まで辿り着く。
 なかなか手に力が入らず、弱々しくドアをノックする。
「サヤ、いいか……?」
「……ん? どうしたの?」
 すぐに返事が返ってくる。起きていたようだ。まだ仕事が残っていたのかもしれない。
 声を聞いただけで胸の辺りが切なくなり、肌がざわつく。
 ——ああ、好き。ほしい……。
 今すぐ抱きつきたい。あの甘い匂いを思う存分吸い込んで、いっぱい触って、撫でてもらって……。キスもしたい。森の遊歩道でしたような、大人のやつ。あれから軽いキスは何度かしたけれど、ああいうのはあの時一度きりだ。
「サヤ、サヤ……」
 欲が暴走を始める。熱が高まるにつれ、普段の自分ではない何かが思考を侵していく。
 内側からドアが開く。
「眠れないのかい。また怖い夢……」
 優しげなサヤの声が不自然に止まった。彼はさっと袖口で鼻と口を押さえる。
「……まずいな。とりあえず君はいったん部屋に戻った方がいい」
「なんで……? 助けて、サヤ。苦しいんだ。薬を……」
「薬は万が一のことを考えて持ってきているやつがあるよ。それを君の部屋に届けるから、君は先に戻って」
 顔を背けながら突き放すようなことを言う。
 ——なんで……。
「嫌だ。サヤ」
 縋るように抱きつく。もう一人になんてなりたくない。
「側にいて。離さないでよ」
「薬を飲んで落ち着いた後なら、いくらでも側にいてあげるよ。でも、今はまずい。とにかく放して」
「やだ、やだ」
 駄々っ子のように首を振ってしがみつく。この苦しさをどうにかしてくれるのは彼しかいないのだと、本能が知っていた。
 しかし、サヤはまだ抱きしめ返してはくれない。
「……いいかい。君のそれは病気じゃない。発情期だ」
「発情期……? でも」
「君自身にはわからないだろうが、君は今すさまじい量のフェロモンを撒き散らしている。君自身の意思はどうであれ、君の身体は俺も発情期に引きずり込もうとしているんだ。でも、前だって同じような成り行きだったから……。今度はもっとちゃんと……、発情期に流されるんじゃなく」
 発情期のオメガからは、アルファを性行為に誘うフェロモンが大量に撒き散らされる、と本で読んだことがある。フェロモンの影響を受けたアルファもまた発情し、抑えがたい性衝動に駆られる。誘うことも誘われることも、本人の意思は関係ない。
 サヤも苦しげで、息が荒い。匂いが急激に強く甘くなっていく。必死に耐えているのだ。ヒノワに引きずられるのを。ああ、もどかしい。
「……なんで駄目なんだ? 番が発情期を共にするのは当然のことだろう? そもそも番はそのための存在じゃないか」
「いや、でも、ヒノワ、ほんとに駄目……」
「サヤ」
 手足を絡めて密着させ、身体を擦りつけるようにする。経験のないヒノワが思いつく限りの誘惑。欲しい、ねえ、あなたが欲しい。他の誰でもなく。
 ——ああ、そうか……。
 ヒノワの発情期は彼の——番ためのものなのだ。彼が側にいなかったから、アデュタインにいるときは発情期が来なかった。そういうことなのだ。
 ありったけの熱を込め、耳元で囁く。
「……して、サヤ」
「ヒノワ……」
 低く呟いた彼の表情から躊躇いが消え、瞳の奥にはヒノワと同じだけの熱があった。本能が理性を覆い隠した瞬間。縺れるようにしてベッドへ引きずり込まれる。
 ——確かに覚えがある。重なる肌から感じる鼓動の速さも、混じり合う吐息で交わす会話も、熱に溺れる激しさも、愛しい人と悦びを共有する幸福感も。

 翌朝、万が一の時のためにとサヤが用意してくれていた緊急発情抑制剤をもらって飲んだ。その日の夕方頃になると、大分体調は落ち着いた。
 通常は発情期の数日前、発情の兆候が現れ始めた時に抑制剤を飲み始めるのだが、それを飲まずに発情期に入ってしまった場合、緊急発情抑制剤を服用することになる。通常の抑制剤とは違い、緊急発情抑制剤はなかなか効果が出づらいらしい。衝動はましになったが、怠さが抜けない。
 居間のソファに座り、ぼんやりとテーブルの上の花を見つめる。鈴蘭のような丸い形の黄色い花。ビーズが連なっているみたいで可愛らしい。
「どうぞ」
 キッチンから戻ってきたサヤは薬草茶のカップを差し出し、軽食の皿をテーブルに置く。
 ヒノワは渡されたカップを両手で持ち、隣に腰掛けた彼にもたれかかる。片時も離れずくっついていたい。
 毛先を弄る彼の指先の刺激が心地良くて、もっととねだるように腕に頬を擦りつける。
「んー」
「調子はどう?」
「まだモヤモヤが残っている感じ」
「そっか。もっと効き目の強い薬もあるんだけど、どうしても副作用が強く出ちゃうから……。でも、あと数日の我慢」
「うん」
 発情期はだいたい五日から一週間程度続く。それが二、三ヶ月に一度の周期で繰り返される。
 不自由な体質。でも、この人がいるから。
「発情期が明けるまで側にいられるようにするね」
「仕事は? 今日も休んだんだよな」
「問題ないよ。気にしないで。発情期の番を放置するなんて人として最低の行いだよね」
 最低、というのは言い過ぎかもしれないが、ドンディナの価値観ではそうなのか?
「俺には君以上に大事なものなんてないんだよ」
 髪やこめかみ、目元へのキス。確かめるように首筋の噛み跡に触れる指先。サヤにもきっとくっついて触れあっていたい欲求がある。側にいるとヒノワの発情に影響されて、同程度の発情状態になるらしいから。
 カップを持ちかえ、彼の手に指を絡めにいくと、ぎゅっと握り返してくれた。
 彼が持つカップの水面の揺らぎを何とはなしに眺めているうち、ヒノワのものと液体の色が違うことに気づく。
「お茶、別のやつなのか?」
「ああ、うん、まあね」
「なんで?」
「俺のはいつものやつだけど、君のは避妊作用のある茶葉を使ってる」
「ひにん……」
「発情期に番が交わるってそういうことだよ。これは薬じゃないから気休め程度のものだけど、飲まないよりは」
「サヤの子供なら産んでもいいよ」
「発情期中だからそう思うだけだ。今は実際出来たら困るだろう。……うん、でも、君の承諾を得てからにするべきだったね。もちろん、無理強いはしないよ。俺と同じの入れてこようか?」
「ううん、これでいい」
 彼の言うことは正論だ。身を隠してひっそりと暮らしているこの状況で子供などできようものなら、苦労するのは目に見えている。
 絡んだ指を解き、サヤの太腿に掌を置く。撫でながら、潤んだ瞳で見上げる。
「なあ」
「つらい?」
「んー」
「してばっかりっていうのもさ。何かお腹に入れて、ちょっと身体を休めないと」
「食べさせて」
「どれがいい?」
「ハムのやつ」
 テーブルの上の皿には、ピックが刺さった一口大のサンドイッチが並んでいる。サヤはその中から一つを取り、口元まで運んでくれる。ヒノワは口を開いて待っているだけでいい。
 続けてチーズ、玉子のサンドイッチももらう。自分が思っていたより腹が減っていたようだ。
「……おいしい」
「どんどんお食べ」
「もしかして、食べさせやすいようにこの大きさ?」
「ああ」
 心底お世話が楽しい様子だ。変わった趣味だが、ヒノワにとってはいいことばかり。素晴らしい番をありがとう、神様。

 【マルルギからリズドーへ——ヒノワ】

 共に迎えた朝、傍らに横たわる彼の情愛に満ちた眼差し、指が髪を梳く擽ったさ、愛しさが溢れ出しそうな胸の切なさ。覚えがある。以前のヒノワも知っていた。
 過去の自分は彼とどんな場所を訪れ、どんな言葉を交わしていたのだろう。どんな風に愛し合っていたのだろう。思い出したい。過去の自分を。
 発情期が明けてしばらく。朝食の席で出たヒノワの提案に、案の定サヤは渋い顔をした。
「五年前によく出かけていた街にまた……か」
「そう。もう一度行ってみれば、何か思い出すかもしれないだろう?」
「君がここにやって来た初日に記憶を取り戻してほしいとは言ったけれど、今はあまりそう思っていない。記憶がなくてもまた君は俺を愛してくれた。もうそれで充分なんだ」

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