〈第二章〉自称婚約者の暗躍

「サヤに言われたことを気にしているんじゃなくて、僕が思い出したいんだ。サヤとの間にあったどんなことも、きっと僕にとって大切なものだったはずだから、忘れていたくない」
「……でも、歩いて行ける距離じゃない。日帰りは出来ない。たくさんの人の目に晒されて、君がもし警察に見つかってしまったら」
「いつもより念入りに変装するよ。女性の恰好をするのはどうだろう。女性ならつばの広い帽子を被っていても不自然じゃない。これで顔は隠れるし、さらにウィッグを被って派手な髪色を隠せば、もう誰も僕がアデュタインの王子だなんて思わないはず」
「……」
「なあ、頼む」
 サヤの両手を取ってぎゅっと握る。
 彼は自分の内なる何かと闘ったのち、肩を落として項垂れた。
「……ずるいよ。俺が君のお願いを断れるはずはないのに」
「やったー。じゃあさっそく支度しよう」
「言っておくけど、遊びに行くんじゃないからね。てきぱき回ってさっさと済ませて素早く戻ってくるんだからね」
「わかってるよー」
 これが自分たちにとって新たな一歩になるといい。

 二日後、サヤの休みにあわせてリズドーの街へと発った。汽車の手配をしたのは、言うまでもなくサヤである。
 アデュタインはドンディナほど鉄道網が発達していないので、ヒノワが汽車に乗るのはこれが初めてだ。大きな汽笛の音を聞いたり、窓からビュンビュン過ぎ去っていく景色を見たりしているだけでも胸が躍ったが、サヤがずっと緊張した面持ちだったので、あからさまにはしゃぐことはしなかった。
 暁の頃に出発し、リズドーに到着したのは夕刻。翌日には帰らねばならないので、さっそく街へと繰り出す。
 マルルギの素朴で落ち着いた街並みとは異なり、学生が多く活気のあるリズドーはカラフルな街並みで、路上で演奏したり躍ったりする若者たちが多く見受けられた。
 同じ国でもこんなに違う。なにもかもが興味深くて心が弾んだが、大通りとその周辺を一通り回っても、残念ながら思い出すことは何もなかった。
 せっかく来たのだ。せめて記憶を取り戻す端緒となるものを掴みたい。例えば、特別な思い出の場所とか——。
「あ、そうだ。あるじゃないか。サヤの家は? 僕をよく招いてくれていたんだろう?」
 名案だと思ったのだが、サヤの反応は良くない。
「あそこか……。うーん、あそこはなあ……。まあ、そうだね。いい機会だしね」
「どうかしたのか? ……ああ、そうか」
 完全に失言だった。サヤが襲われて重症を負った場所は、彼が当時住んでいたアパート。行きたいはずはない。
「……すまない。気が向かないのも当然だな。配慮が足りなかった」
「ううん。違うんだ。入居者がいれば部屋の中には入れないだろうから、外から見るだけになるなって思っただけ」
「それでもいい。何が切っ掛けになるかわからない。でも……、いいのか?」
「五年も前のことだし、平気だよ。暗くなる前に行こう」
 大通りを外れ、緩やかな坂を上っていく。彼の通っていた大学は丘の上にあり、その近辺に学生向けアパートが多く建っているらしい。
 大学の時計塔が見えるあたりまで来て、サヤは細い路地に入り、その先にある錆びた鉄門の前で立ち止まる。
 門の向こうには、蔦で覆われた廃墟のような建物がある。傾いてはいないものの、かなりの築年数であろう。前庭に雑草がはびこっているところからして、建物がきちんと手入れされているのかどうか怪しい。マルルギにあるサヤの家が小人の家なら、ここは魔女の家のようだと思った。
 ここがアパート? 人なんて住めるのか?
「さあ、おいで。まず大家さんのところへ行こうか」
「……うん」
 やはりここで間違いないらしい。ギシギシと音を立てる門を開け、敷地内に足を踏み入れる。建物の正面のドアからは入らず、建物と鉄柵の隙間を通り、裏へ。きょろきょろしながら通っていると、あちこちで雑草が気になった。片っ端から引っこ抜きたい。
 建物の裏には、正面のドアより小さな入り口があり、サヤはそれをノックする。すると、中からばたばたと物音がし、ドアから魔女——もとい高齢の女性が姿を見せる。彼女が大家らしい。
 以前住んでいた部屋を友達に見せたい、とサヤが伝えたところ、現在空室とのことで、自由に見ていいと鍵を貸してくれた。笑った顔がチャーミングなとてもいいおばあさんだった。魔女だなんて思ってごめんなさい。
 今度こそ正面入り口から入る。鍵を持って軋む階段を上り、二階。そこには塗装のはげかかった緑の扉が三つ。サヤは一番奥の扉を開ける。
 室内は意外と綺麗——などと観察する余裕は、ヒノワにはなかった。部屋に一歩入った途端、強烈な寒気に襲われたから。
 サヤは感慨深げに部屋を見渡す。
「懐かしいな。何年か暮らした場所だからなあ。屋台で買ってきたお菓子を、よくここで一緒に食べたっけ」
「サヤ……、なんかここ、嫌だ」
 怖い。怖くてたまらない。足の震えが止まらない。彼はすぐヒノワの異変に気づいてくれた。
「え、なに、どうした?」
「嫌だ……」
 頭が締めつけられるように痛い。耐えきれずにふらつくと、サヤに支えられる。
 直後、脳内に浮かんできた光景。床を染める赤、血の海。そこに倒れた男。「怖い夢」と同じ。
 サヤは以前何と言っていたっけ。彼はここで襲われた——大学からアパートまで帰ってきて、部屋の扉を開けたとき、背後から刺された、と。そしてそれを、そう、ヒノワは目撃した。この部屋の中で。
「僕……見た。見たんだ。覆面の男……、サヤの背中に体当たりして、サヤが倒れて、背中にはナイフが突き刺さってて……。血がいっぱい広がって……」
「落ち着いて、ヒノワ。あの日は君と会う約束はしていなかったと……。いや、でも、合鍵は渡していたから、約束のない日にふらっと来たことは何度かあったか。ドアを開けてすぐに襲われたから、室内をよく見ていなかったし、君が来ていた可能性もあるのか?」
「その覆面の男、血だらけの姿でこっちに近寄ってきて、僕を担ぎ上げて……」
 そのまま部屋を出ていこうとした。助けを呼ばねばならないのに。このままだとサヤが——、ヒノワは大切な番を失ってしまう。
 抵抗虚しく、男はヒノワを担いだまま部屋を出て、アパートを出て、どんどんサヤから遠ざかっていく。身を引き裂かれるような絶望感。必死にもがき続けていると、ついに男はヒノワを取り落とした。
 ヒノワは階段を転がり落ち、地面にしたたか頭を打ちつけた。薄れゆく意識の中で誰かの声を聞いた。「ヒノワ、ヒノワ!」——と。
「嫌だ……、嫌だ、嫌だ!」
「ヒノワ」
 力強い腕で抱きしめられる。ヒノワの大好きな甘い花の匂いに包まれる。
「……大丈夫だから。俺は生きているし、覆面の男はもうここにはいない」
「ああ……、ああ、サヤ」
 あの時なくしたはずのはずのものは、確かにここにあって。
「深呼吸しよう。息を深く吸って……、ゆっくり吐いて。上手だね。もう一回できるかな」
 すーはーすーはー、何度か繰り返していると、乱調な心臓の鼓動が鎮まってくる。
「……とりあえず、ここを出よう。君にとっても辛い場所だからね」
 かろうじて頷く。おばあさんに鍵を返した後、彼に導かれるままアパートを立ち去った。
 ——そうだ。大きすぎる喪失の悲しみから逃れるために、ヒノワは多くのもの箱に入れてしまい込み、自ら鍵を掛けたのだ。

 坂を下るのが覚束なかったため、サヤに負ぶわれ、駅からほど近い川辺の宿に到着した。空きがあってすぐ部屋に入れたのは幸いだ。
 人心地つき、冷静さを取り戻したヒノワは、思い出した内容を伝える。
「サヤが襲われた日と僕が記憶を失った日、同じだった。繋がっていたんだ」
 元凶は同じ覆面の男。奴は終始無言だったが、最後の最後でヒノワの名を呼んだ。あの悲痛な声の主をヒノワは知っている。
「ルマだ……」
「ルマ?」
「ルマ・ロージアン。僕に求婚していた男。この国の国家元首の息子」
 今ようやく理解した。あの男になぜあれほど拒否感を覚えたのか。
「……執政の坊ちゃんが? 俺を刺してヒノワを攫ったと?」
「そうだ」
「なるほど。何年経っても犯人が捕まらないわけだ。権力者様の子供だったからか」
「執政が裏で手を回していたかどうかはわからないが、何らかの力が働いていてもおかしくはないな。……あの事件の後からルマは一切接触してこなくなった。僕が入院していたとき見舞いにも来なかったと思う。それまではそう、頻繁に、しつこいほどジェスター邸に……祖父母の家に通い詰めていたというのに。僕がアデュタインに帰って、それから五年……、なぜ今になって」
 なぜ今になって求婚してきたのか。
「五年前に接触を断ったのは、事件の発覚を恐れて、とか? なぜ今頃っていうのはわからないけど、ほとぼりが冷めるまで待っていたとか……、それにしても間が開きすぎ? いったん諦めた後再燃したとか?」
「許せない……。あいつが諸悪の根源なんじゃないか! サヤをあんな目に遭わせやがって。よく僕の前にのこのこ顔を出せたものだな」
 サヤが重症を負ったのも、借金を負ったのも、ヒノワが大切な記憶を無くさなければならなくなったのも、五年もの間番と引き離されたのも、サヤが王子連れ去りを強行するほど追い詰められたのも、全部。
 番を失いかけた当時の光景が蘇ってきたからこそ、余計に腹立ちが大きくなる。
「くそっ、何発か殴ってやらないと気が済まない!」
「物騒だなあ。ヒノワまで犯罪に走ることないよ」
「殴るくらい可愛いものだ。本当ならサヤと同じ目に遭わせてやりたいところだが、我慢して言っている。あいつさえいなければ、僕たちは……」
「過去のことは変えられない。たらればをいくら言っても詮無いことだ。それより、これからどうするか考えよう」
 彼は宥めるようにヒノワの肩を抱き寄せる。それに甘え、彼の腰に腕を回してもたれかかる。
「あいつがサヤを襲ったのは、僕を手に入れるため?」
「多分ね」
「どうやってサヤのことを知ったんだろう。母上くらいにしか話していなかったのに」
「君を尾行したとか……。俺たちは頻繁に会っていたから、俺の存在を知るのは簡単だったと思うよ」
「……あいつも今頃僕を探しているんだろうか」
「わからない。でも、君にしつこく求婚していたということなら……」
「探していそうだな」
 多くの敵がいて、彼らはヒノワとサヤの穏やかな生活を壊そうと狙っている。
 守りたい。守らねばならない。今度こそは。

 【ドンディナのロージアン邸にて——ルマ・ロージアン】

 ドンディナの自宅に帰ってきて十日あまり。
 ルマは自室で、ドンディナ警察の「知人」から得た報告書に目を通していた。そこには、ヒノワ王子連れ去り事件の容疑者の名前と経歴がずらりと記載されている。
 サヤという名前、ドンディナ出身であり、リズドーに居住歴があること、薬学に詳しいこと、だいたいの年齢、それだけの情報から、警察はよく調べてくれた。彼らはまず国立調合師協会に問い合わせることから始めたようだ。
 リストの一番上に上がっている人物、それは。
「サヤ・ラウェン……ね」
 リズドー大学薬学部卒業、国立調合師協会所属、国立医療院の研究員、年齢は二十五歳。アデュタインの王立第一大学に臨時の薬学講師として派遣され、半年の任期を終え、ドンディナに帰国したのが先々月。
「こんなの、ほぼこいつで確定じゃないか」
 リズドー大学は彼が五年前に住んでいたアパートからほど近い。年齢もあう。派遣先から帰国した時期とヒノワが行方不明になった時期も重なる。
「さて、どうしようかねえ」
 やることは決まっている。問題はその方法だ。前回は怒りで我を忘れて突っ走り、失敗した。今回は慎重に行かないと。
 五年前——いつものようにジェスター邸を訪れたその日、ヒノワが深刻そうな様子で、周囲を窺いながら母ミラ妃の部屋に入っていくのを見かけた。ずっとすれ違っていたので、彼の姿を見たのは久しぶりだった。
 いかにも秘密を抱えているというのが見てとれ、少しドアを開いて立ち聞きを試みた。ヒノワは母に打ち明けていた。初めての発情期で番を持ってしまったことを。頭が真っ白になり、次に沸々と怒りが湧いてきた。——奪われた。ヒノワはルマが手に入れるはずだったのに。

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