〈第三章〉末っ子王子の帰郷

 【ドンディナからアデュタインへ——ヒノワ】

 兄の突然の訪問を受けたその日。彼が去って行ってから、ばたばたと荷造りを始めた。
 心配性のサヤは色々と鞄に詰め込んでいたが、ヒノワが入れたのは、一泊分の着替えくらいだ。あとはサヤさえいてくれればいい。
 翌朝、迎えに来たスーイと共に馬車で出発した。スーイのおかげで馬車内をチェックされることもなく国境の検問所を抜ける。アデュタインに入ってすぐ宿で一泊。早朝に発ち、住み慣れた邸に帰り着いたのは夜も更けてから。
 二日間の旅を終え、邸の前で停まった馬車を降りる。まだ地面が揺れているような心地で、サヤに掴まりながら歩くのがやっとだ。スーイは長時間の移動による疲れを一切見せず、この家の主人より先に中へ入っていく。えっちらおっちらヒノワたちもそれに続いた。
 玄関ホールではカロが出迎えてくれた。スーイは彼に親しげに声をかける。
「こんな時間にすまない、カロ」
「構いません。どうなさったのですか。ヒノワ様の件で何か進展が?」
「マリはどうした」
「すぐに来ます。寝間着のままだと失礼なので、着替えておりまして。急ぎでしたら呼んで参ります」
「いや、着替えてからでいい」
「ではこちらへどうぞ。……ところでそちらの方々は? 部下の方ですか?」
 そうか、これではわからないか。ヒノワは顔を隠すためにずっと被っていたマントのフードを取った。
 カロは目を見開き、口を掌で覆う。
「ヒノワ様……? うそ、本物……?」
「ああ。心配かけてすまなかった、カロ。戻ってきたよ」
「ヒノワ様!」
 ヒノワの年若い従者は、足が縺れそうな勢いで駆け寄ってきて、きつく抱きつく。
「よくご無事で……。手紙はいただいていましたが、万一のことがあったらと気が気ではなくて。僕……」
「……ごめんね」
「いいえ、いいえ。ご無事ならそれでいいんです。スーイ様、ありがとうございます。ヒノワ様を連れ戻してくださって」
「そのことだが」
 スーイが複雑な事情について言及しようとしたとき、廊下の奥からカロの母も姿を見せる。
「ヒノワ様……?」
「マリ、今戻った。心配をかけたな」
「……ご無事でようございました」
 いつもはあまり感情を表に出さないマリであるが、微かに語尾が震えていた。
 自分がドンディナで楽しく暮らしている間、彼らにどれだけの心労を掛けていたのかと思うと、胸が痛む。無事だと手紙を出せばいい、そういう問題ではなかった。ヒノワは実に未熟で、駄目な主人だ。
「本当にすまなかった……」
「ヒノワ様が謝られることではないでしょう? 悪いのは犯人です。……ん? 犯人って結局いたんですか? 駆け落ち?」
 カロの疑問を解決するには順序立てて長い説明をする必要がある。だが、事前に話し合っていた順序などお構いなしに、サヤがすっと手を上げる。
「俺です。俺が彼を攫いました」
「サヤ、それを真っ先に言っちゃうとややこしく……」
 彼の顔を見れば考えていることは大体わかった。勢いで連れ去ってはみたが、ヒノワがいなくなったことで残された者がどれほど悲しむことになるのか考えなかった、今ひしひしとそれを感じて罪悪感で苦しい、といったところか。
 カロはヒノワを庇うようにして間に入り込む。
「……どういうことです?」
「カロ、長くなるから落ち着いて話したい。とりあえず彼に危険はないよ。僕の大切な恋人で番だから」
「番って……」
「ちゃんと説明する。応接室へ行こう」
 当事者であるヒノワとサヤ、そしてスーイ、カロ、マリの五人は、応接室へ移動する。
 そこでは、本人の希望で主にサヤが語った。五年前にドンディナで出会い番になったこと、不幸が重なり離ればなれになったこと、サヤが仕事でアデュタインに派遣され、連れ去りを思い立つまでの経緯、ドンディナでの二人きりの生活、スーイがやって来て現在に至るまでの流れ。
 昨日と今日馬車の中でかなり時間があったため、話す内容については二人でじっくり相談していた。わかりやすい説明だったと思う。
 サヤは最後にこう締めくくった。
「本当に申し訳なかったと思っています。故郷でヒノワを思う方々の存在について、俺はあまりにも軽く考えていたのかもしれない。あの時は他に何も頭になく、ただ彼を取り戻さねばとそれだけだったのです」
「……」
 カロは深刻な面持ちで何かを考え込んでいる様子だ。かなりショックを受けているのが見て取れる。対して、さすがマリは強く、もういつもの調子に戻っているように見えた。
「マリはその、あまり驚いていないんだな」
「驚いてはいますよ。ただ、やはり、という思いもあります。ヒノワ様の首筋の傷……、私は森で狼に襲われたという人を知っていますが、ヒノワ様の傷はどうしたって獰猛な獣によるものには思えませんでしたから。では何の傷かと考えたとき、可能性の一つとして頭にはありました」
「そうか……」
「それで、ヒノワ様はこれからどうなさるおつもりですか」
「父上ときちんと話をするよう、兄上から言われているけど……」
「それがよろしゅうございます。陛下のご判断を仰ぎましょう」
「でも、サヤが連れて行かれてしまうと思うと怖い」
「……そうですね。一つ昔話をしましょうか」
「昔話……?」
「ええ。ヒノワ様にも関係のあるお話です」
 マリの昔話。それは、母ミラがマリだけに打ち明けていた、自身の過去に関すること。
 ミラには結婚前ドンディナで暮らしていた当時、「運命の人」だという恋人がいた。だが、隣国の王に見初められたことで、両親が強引に結婚話を押し進め、恋人と引き離されて他国へ嫁がされることになった。
 アデュタインに移り住んでから、彼女の体調は徐々に悪化し始める。出産後は子のため強く生きようと持ち直したものの、ついぞ回復することはなかった。
 番にはなっていなかったとはいえ、想い合った半身と引き離されたことが、ミラの心身を壊したのではないか、とマリは言う。
「運命による結びつきはそれほどまでに強いということでしょう。ただ、勘違いしないでくださいましね。望まぬ結婚であったとは言え、ミラ様はヒノワ様のことを真実愛していらっしゃいました」
「……ああ。それはよくわかっている」
「そして、これはこれまでどなたにも申し上げたことがないのですが、ミラ様が亡くなり、ヒノワ様が帰国していらした後、国王陛下は内密に私をお呼びになりました。そしてお聞きになったのです。ミラ様には故郷に想い人がいたのではないかと。陛下は以前から勘づいていらっしゃったようですね。ヒノワ様がお産まれになってしばらくした頃でしょうか、ミラ様にそのことをお尋ねになったことがあったそうです。しかし、ミラ様は頑なに否定され……」
 何度聞いても答えは同じ。
「陛下は悔いていらっしゃいました。ご自分のせいで硬く結びついた恋人たちを引き裂き、ミラ様の死期を早めてしまったと。ヒノワ様たちの話をお聞きになれば、陛下はきっと今の私と同じことをお考えになるでしょう」
 沈黙を続けるヒノワの代わりにスーイが口を開く。
「つまり、番と引き離してしまえばヒノワもミラ妃と同じ状態になってしまうと?」
「ええ。現にヒノワ様はこの五年、人が変わったように無気力になっていらっしゃいました。陛下もそれを案じていらっしゃいましたし……」
「まあ、何のお咎めもないということはなかろうが、母親と同じ目にあわせたくはない、とはお思いになるだろうな」
「父上はそんなに甘い方でしょうか……」
 謁見しても短い言葉を交わすだけで、笑みを向けてくれたことさえないのに。
「情け深い方ではあるよ。立場上、表向きはそう見えぬよう振る舞っていらっしゃるが。とりあえず、父上に全て話してみなさい。下手な嘘で誤魔化そうなどとは考えないことだ。あの方には見破られてしまう」
「是非そうなさいませ、ヒノワ様」
 スーイとマリから次々に説得を受ける。サヤを窺うと、すでに彼の意思は硬いようだ。
「お二人とも親身になっていただいてありがとうございます。俺の方はもう覚悟ができています。ヒノワは……」
「……僕も」
 本当はまだだったけれど、サヤがそうするというのなら、一緒に頑張りたい。
 スーイは満足げだ。
「わかった。お時間を取っていただけるよう、私からお話ししておく」
「お願いします」
 これでもう逃げられない。腹をくくるしかない。

 【ヒノワ邸にて——カロ・トルル】

 お茶のお替わりを入れるため、カロはそっと応接室を抜け出し、厨房へ向かう。室内の四人は国王との謁見について詳細を話している。
 あの場では絶対にせぬことだが、一人になり、小さく嘆息する。ヒノワを連れ去った犯人がヒノワの番だった。突然知らされた真実にまだ動揺していた。
 番とは伴侶のことだ。あの男がヒノワの夫。小さい頃からこの邸で共に過ごした兄弟のようなヒノワが、カロの知らぬ間に——。
 サヤ・ラウェンは人が良さそうで穏やかそうな雰囲気ではあったが、自分たちに薬を嗅がせて眠らせ、ヒノワを攫っていった男であるという事実に変わりはない。マリもスーイもそのことに抵抗を感じないのだろうか。あの二人が添い遂げられるよう進んで手を貸そうとしているのは何故。
 このもやもやを自分の中でどう処理すべきか考えながら、冷めてしまったお茶を流しに捨てているとき、厨房の入り口付近でカタッと物音がする。そちらに目をやると、大きな人影があった。
「カロ」
「……スーイ様。どうなさったんです。お客様がこんなところまでいらっしゃるなんて」
 応接室で話を仕切っていたはずのスーイがいた。
 厨房は完全に使用人のエリアで、普通、客はおろか邸の主人でさえ滅多に顔を出すことはない。使用人と距離の近かったミラ妃やその子であるヒノワは別だったが。ミラ妃が亡くなる前は、よく母子でつまみ食いに来ていたものだ。
 言外に戻れと伝えたつもりだったが、スーイはこちらへ歩み寄ってくる。
「部屋を出ていくお前の顔に、憂いが浮かんでいるのが見えたから」
「そうですか? 見間違いでしょう。茶葉のストックをどこに仕舞ったか、考えていただけです」
「それならいいが。ああ、今日のところはもう解散して、詳しいことは明日以降ということになったから、茶はいいぞ」
「かしこまりました。スーイ様はもうお帰りですね。お見送りを……」
「カロ」
 いったいどういうつもりか、彼はカロの頭のてっぺんに手を置き、ぽんぽんと軽くたたく。
 これまでこの人にこんなに近づいたことはない。懐かしいような初めて嗅ぐような、爽やかで甘い香りが鼻腔をくすぐる。さすがにいい香水を使っているようだ。
 こちらを見つめたまま何も言わないので、首を傾げて先を促す。
「……スーイ様?」
「ああ、すまない。ぼんやりして」
「お疲れですか。長旅でしたもんね」
「いや、そういうわけではないよ。……なあ、カロ」
「はい」
「すぐには受け入れられないことだろうが、ヒノワのためだ。わかってやってくれ」
「あの方は本当にヒノワ様を幸せにしてくださるのですか?」
「私は彼の人となりを詳しく知っているわけではないが、ヒノワ自身はその道しかないと信じているようだ」
 それはカロにもなんとなくわかる。邸に帰ってきたヒノワは片時もあの男から離れようとせず、彼と共に生きるために必死になっている様子だったから。
「……それがヒノワ様のお心に添うことなのであれば」
 応援せねばならぬのだろう。カロの立場としては。たとえ納得などできなくても。
 スーイは気が早く、もうその次の話をする。
「ヒノワが嫁いで行き場がなくなれば、うちの邸に来るといい。もちろんマリも、他の使用人も」
「スーイ様はお優しい方ですね。ヒノワ様のお相手もスーイ様のように立派な方ならよかったのに」
「立派か。私が?」
「もちろんですとも。スーイ様の奥様になられる方はきっと幸せですね」
「……それは本心か?」
「ええ」
「そうか」
 今度は頭を撫でられる。ぽんぽんだったり、なでなでだったり。今日のスーイはやけに親しげだ。本当の兄弟のスキンシップみたい。
 不思議そうに見上げるカロに気づいたのか、スーイはさっと手を引っ込める。

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