〈第三章〉末っ子王子の帰郷

「夜分にすまなかったな。帰るとしよう」
「はい」
「謁見の日取りが決まったら、また打ち合わせに来るよ」
「お待ちしております」
 きっと別れの時は近いのだろう。

 【ヒノワ邸にて——ヒノワ】

 カーテン越しの柔らかい日の光。
 きっと今頃サヤはキッチンで朝食を作ってくれていて、出来上がったら呼びに来てくれる。
 ——たまには手伝おうかな……。
 心配性のサヤはヒノワに火を使わせるのも包丁を使わせるのも嫌がるけれど、卵を割ったりレタスを洗ったり皿を並べたりすることは出来る。
 ゆっくりと目を開ける。
「……?」
 そこはマルルギのサヤの家ではなく、生まれてからほとんどの時間を過ごした邸の寝室。
 そうか、昨日帰ってきて——。サヤのための客間も用意されていたが、ヒノワが一人で眠るのは嫌だと我が儘を言って、一緒に寝てもらった。そのはず。しかし、サヤはいない。
「サヤ……、どこ?」
 もしかして、夢だったのか? ドンディナでの日々は全て眠っているヒノワが見た幻で、現実はまだ灰色の世界のままなのでは?
「そんなわけない……、よね?」
 そうだ。夢のはずはない。サヤは確かにヒノワといたのだ。
 ベッドから飛び出して、身支度も調えずに部屋の外へ出た。
 彼のために用意された客間を真っ先に見にいったが、いない。ではどこだ。食堂か? サヤを探して駆け回っていると、洗濯籠を抱えたマリと出くわす。
「まあ、ヒノワ様。そんな恰好で……。呼んでくださればお手伝いしますのに」
「マリ、サヤは!?」
「……え?」
 なんだ、この反応は。きょとんとして。サヤを知らない? 元から存在していなかった? 後から考えれば、あまりの勢いにびっくりしていただけなのであろうが、そこまで頭が回らない。
「サヤ様なら……」
 恐怖に突き動かされるようにして、彼女の話を聞く前に走り出す。
 邸中を探し回り、足の疲れを感じてきたころ、ようやく馴染みのある匂いを感知する。嗅覚を研ぎ澄ませてそれを辿っていき、厨房に近い廊下でハタキを手にしたサヤを発見した。
「サヤ!」
「……わっ」
 走ってきた勢いのまま抱きつく。サヤはよろめいたものの受け止めてくれる。
 ああ、この匂いだ。
「よかった……、いた」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもない! 起きたらいないから焦った。馬鹿!」
「ああ、うん、ごめんね?」
「謝罪が軽い。一緒に寝たんだから、朝まで一緒にいないと駄目だ」
「朝というか、もう昼……。泊めてもらったせめてものお礼に何か手伝いがしたくて、マリさんに頼んでこうして掃除を」
「なら僕に声をかけてからにすべきだろう。いつもの部屋で一人目を覚まして、前に戻ったのかと思った。びっくりした。心臓が痛い。苦しい」
「……ごめんなさい、ヒノワ。君を不安にさせるつもりはなかったんだ。どうか許して」
「殊勝な顔をしたってだめ。許さない」
「困ったな。俺はどうすればいい?」
「じゃあ」
 とびきり優しくキスして、と言おうとしたが。
「ヒノワ様、どうなさったんです!」
 すわ一大事、とばかりにカロが駆けてくる。ほとんど突進と言っていいスピードだ。
「大きな声が! もしかして、何かされたんですか!?」
 カロはヒノワを庇うように引き寄せると、サヤを睨む。
「うちのヒノワ様をいじめないでください!」
「いや、あの……」
「違う、違うんだ、カロ。勝手にいなくなられたから、ちょっと拗ねてみせただけで、いじめられたわけじゃない」
「この人は少し早起きだっただけでしょう。そんなことで拗ねるんですか? やっぱり何かヒノワ様が嫌がるようなことを」
「されてないから! これは甘えの入った我が儘というか……、ああ、もう、自分で言って恥ずかしくなってきた」
「ほんとですか? 疑わしいなあ」
「大丈夫! そうだ、カロ、朝食は……」
「すぐご用意できますよ。厨房に伝えてきますね」
「じゃあ、俺もお茶を入れに。ヒノワの好きなブレンドの茶葉、持ってきてるんだ」
「結構です。ヒノワ様の好みは僕が把握していますから」
 サヤの申し出を跳ね除け、カロはぷいっとそっぽを向く。ずいぶん嫌われてしまっているようだ。間を取り持つのはヒノワの役目だろう。
「なら、サヤ、食後にもらうよ。よければ皆にも振る舞ってやってくれ。サヤのブレンドは美味しいから」
「そうだね。そうさせてもらえれば嬉しいな」
「……ヒノワ様がそう仰るのでしたら」
「そうむすっとするなよ」
「してません」
「してるだろ。頬がリスみたいになってるぞ」
「なってないです!」
 仲のいい主従の気安いやり取りであったのだが、サヤには喧嘩になりそうに見えたのか、止めに入る。
「やめてやめて。仕方ないよ。当然の反応だ。あんなことまでした身だし……」
「サヤはとってもいいやつだぞ、カロ」
「そうかもしれませんけど、でも、スーイ様の方がずっといい方だと思います」
「なんでそこに兄上が?」
「昨日、少しスーイ様とお話しさせていただいたんです。その時に、スーイ様のような立派な方がヒノワ様のお相手ならいいなって話を」
「王子殿下と比べられても……」
「サヤは世界一いい男だぞ」
「う、うん……、ありがとう」
 照れるサヤに対し、カロは気にいらなげに鼻を鳴らす。
「スーイ様の方がずっと素敵です。黙してあまり語られませんが、真に兄弟思いでいらっしゃって、ヒノワ様の捜索に大変力を尽くしておいででした。誠実なお人柄から部下の方々からも慕われていらっしゃいますし、陛下からのご信頼も厚くて……。あと、ご自分の邸の者でない僕たちのような使用人のことまで気にかけてくださるほどお優しい」
 早口で、うっとり熱っぽく語る。
 その口振りから、ヒノワとサヤが感じ取ったのは同じことだったようだ。顔を見合わせ、驚きを共有する。
 単刀直入に聞いてみることにした。
「……カロは兄上のことが好きなのか?」
「好きですよ。ご立派な方ですから」
「うーん。僕の言っている意味と違う気が」
「ああ、そうだ、ご朝食でしたよね。行ってきますね」
「頼む」
「ヒノワ様、お食事の前にお召し替えを。厨房に指示したらお部屋へお手伝いに行きますね」
「はいはい」
 カロの初々しい背中を見送り、ハタキを片付けたサヤと寝室まで戻る。
 ここなら他人に聞かれることもないのに、ついひそひそ声になる。
「いつの間にあんなことになっていたんだろう」
「本人に自覚はないみたいだね。あの子もオメガなの?」
「ああ。発情期はまだのようだが」
「なら、成人すれば結婚できるのか」
「いや、兄上の方がどうなのかは……。かなりの年の差だしな。カロが十五で、兄上は確か三十くらい? 出会った頃の僕たち以上に子供と大人」
「それだけ離れていたら恋愛対象として見るのは難しいかもなあ」
「兄上に探りを入れてみようかな」
「いや、カロくん自身がよくわかっていない段階で、横からお節介をするのもさ。そっとしておいた方がいいよ」
「えー、そう?」
「絶対そう。こっちが余計なことをして、カロくんがスーイ様と気まずくなるのは可哀想だろう?」
「まあ、確かに」
 見守るしかないわけか。歯がゆいな。
 そうこうしているうちにカロが手伝いに来て、お前は邪魔だとサヤが追い出されていた。

***************

 二日後、邸を訪れたスーイは告げた。
「陛下が明日時間を取ってくださるそうだ」
「明日って……、えらく急ですね」
「キャンセルになった予定が急に出たらしい。忙しい方だから、こちらが都合を合わせるしかない」
 近いうちにその日が来るとはわかっていたが、具体的な日にちを突きつけられると緊張感が弥増す。
 自分たちの一生を左右することになるかもしれない謁見について、さっそく確認に入ろうとしたが、サヤはそれ以前のことで引っかかっていた。
「……あの、申し訳ないです。何を喋るのかばかり考えていて、今更気づいたんですが、俺は礼服の一着も持っていないんです。今からでも間に合うでしょうか?」
「僕のを貸すよ。無駄にたくさんある」
「ヒノワのものはサイズが合わないだろう。それに、王族用の仕立てのものをそうでない者が着用するなど不敬だと取られかねない。うちの家令用に誂えたものがあるから、それを借りてくれば何とか」
「すみません、殿下。何から何まで……」
「気にするな」
 いい人だ。本当にこの兄は。忙しい中、頼りない末弟のために時間を捻出してくれて、あれこれ心を砕いてくれている。彼なら信じてみたいと、自然とそう思えるようになっていた。
 父に取ってもらえる時間はそう長くない。なるべくコンパクトでわかりやすく、わざとらしくない程度に情に訴えかけるように。三人で説明のためのシナリオをさらに練り直す。
 王宮内での最低限の礼儀作法について、サヤにレクチャーもしなくてはならない。時間はあっという間に過ぎていった。

 長い打ち合わせが終わり、帰りがけのスーイをこそこそと追いかける。サヤはまた家事の手伝いをすると言って厨房に行き、ここにはいない。
「兄上、よろしいですか?」
 サヤには止められたが、少しだけスーイの恋愛事情について探りを入れてみるつもりだった。散々心配をかけたカロのために、何かしてやりたいという気持ちだ。
 スーイは足を止める。
「どうした。まだ気懸かりなことでも?」
「明日のことではないのですが、お聞きしたいことがありまして」
「何だ」
「ここではちょっと。どうかこちらへ」
 二人きりになれる場所——庭にある小さな温室へ連れて行く。
 灰色の世界にいたヒノワが作り始めた、色とりどりの花が咲き乱れる美しい空間。今ではちゃんと彩りを感じられるようになった。昨日サヤとここでお茶をしたが、彼もこの場所を気に入ってくれたようだった。
 注意深く言葉を選びながら兄に問う。
「あの、兄上には、その、結婚を考えているような方はいらっしゃいますか?」
「いや、いないが、それが……。ああ、兄より先に結婚することを気にしているのか? 確かに年長の兄弟が先に結婚すべきという風潮もあるが、他の弟や妹も結婚していっているし、お前が先でも別にいいんだぞ。私は気にしない」
「そうではなくて……。では、好きな人は? どんな人がタイプですか。年上とか年下とか、可愛い系とか綺麗系とか」
「なんだ、見合いでもセッティングしてくれるつもりか?」
「違います。ただ、ちょっと、その……。えっと、年の差や身分差、性別は気にしますか? すごく年下だったり平民だったりオメガだったりしても……」
「すごく年下、平民、オメガ……、ああ、そういうことか。まいったな。私はそんなにわかりやすいか?」
 スーイは気まずそうに頭をかく。
「……?」
「心配しなくても、お前の従者にいきなり無体を働くつもりはないよ」
「……え?」
「ん?」
「従者って、もしかしてカロ? え、兄上、そうだったんですか!?」
「わかった上での質問ではなかったのか……?」
「わかりませんよ、そんなの! そうなんだ、すごい……」
 二人は想い合っているわけか。身分も年の差も超えた愛、とても素敵だ。あちこち飛び跳ねたい気分になる。

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