〈第三章〉末っ子王子の帰郷

 一方兄は渋い顔だ。
「……余計なことを言った。聞かなかったことに」
「できません!」
「だろうな……」
「え、いつからです? きっかけは? どんなところに惹かれ」
「落ち着け。興奮しすぎだ。お前の様子見でこの邸へ定期的に通い出してからだよ。おそらく、私とカロには運命の導きがある。感じるんだ。上手く説明できないが」
「とてもいい匂いが?」
 運命の人とは匂い——唯一運命の相手にしか認識できず、自分自身でさえ嗅ぐことのできない匂い——で惹きあうのだと、サヤが言っていた。実際、ヒノワはサヤから甘い花のような香りを感じるし、サヤの方もそうだという。
「する。しかし、成人するまではきっちり待つつもりだ。彼はまだまだ子供だから。頼む、ヒノワ、このことは誰にも」
「お気持ちだけでもお伝えにならないんですか? カロだってきっと」
「しない。今のカロなら、私にそうだと言われれば、疑うことなくそうだと思い込んでしまうだろう。それでは駄目だ。彼自身で考えて判断して受け入れてもらえなければ意味がない」
「さすが兄上です!」
「くれぐれも内密に、だぞ?」
「もちろんです。あ、でも、サヤにだけは言ってもいいですか? 絶対我慢できない……。カロ本人にもマリにも他の使用人にも絶対言いませんから」
「まあ、彼にだけなら」
「よかった」
 さっそく報告しよう。サヤだってきっと微笑ましい気持ちになるはず。
 今日ここに来て初めて、兄は相好を崩す。
「ヒノワ、変わったな。いや、元に戻ったと言うべきか」
「そう……でしょうね」
「それだけ番の存在は大きいということだな」
 ここで言わねば、もう一生伝える機会はないかもしれない。
「あの、兄上、僕たちのために色々とありがとうございます。ドンディナまで迎えに来てくださったばかりか、父上との謁見まで取り計らってくださった。今回のことだけじゃない。母が亡くなってからの五年間、ずっと僕を見守ってくださっていましたね。それなのに、僕は素っ気ない態度を取るばかりで、礼の一つも言ったことがなかった。本当に申し訳なく思っています」
「構わないさ。お前が健やかになってくれたのなら。それに、カロに会いに来る口実がほしかったのもある」
「たとえそうでも感謝しています、兄上」
「ああ」
 母に恵まれ、使用人に恵まれ、兄に恵まれ、番にも恵まれた。なんて幸福な人間なのだろう。
 ヒノワは一人ではない。明日は自分にできる限りのことを精いっぱい頑張ろう。

 【王都の車中にて——ヒノワ】

 翌日、二人揃って国王との謁見に臨み、そして予定通りの刻限で終了した。
 正直なところ、緊張で何を話したのかよく覚えていないが、失敗したわけではないというのは確実だ。
 しかし、帰りの馬車で、サヤはずっと黙り込んだままだ。
「どうかしたのか?」
「……本当によかったのかな」
「え、何が?」
「拉致の犯人と通じ、騒ぎを大きくした咎で、王子の称号の剥奪、以降の生活費の支給もなし。……ヒノワに下った処分はスーイ様が予想されていた通りだね。本来罪がないはずのヒノワが罰せられなきゃなんないのは納得できないところではあるけど」
「称号も生活費も要らないよ。父上もそういう僕の考えをおわかりになった上だろうな。何のお咎めもなしということでは、この件を知っている身内に示しがつかないから、一応の罰を与えることにしたのだろう。あんなことですんで本当に幸運だった。おそらく、兄上が裏で働きかけてくれたお陰もあるのだと思う」
「問題は俺だよ。俺には今後許可なくアデュタインへの入国禁止って……。ヒノワに比べて軽すぎる。騒ぎを引き起こしたのは俺だっていうのに」
「もっと罰せられたかったのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「人的にも物的にも直接的な被害があったわけじゃないからな。僕を捜索する労力はかけさせてしまったが、……まあ、連帯責任ってことかなあ。僕の持っている社会的に価値のあるものを捨てさせる代わりに、サヤも許すっていう。僕にとっては要らないものだから喜んで投げ出すけどね」
「……ごめん。ヒノワばかりが失うことになって。俺が馬鹿なことをしたばっかりに」
「何も失っていないよ。大事なものは何も」
 今は眼前の雲が消え去ったような、とても清々しい心持ちだ。未来を思い描くのが楽しい。
「僕も働くよ。まだ自分に何が出来るのかわからないけれど」
「ヒノワ……」
「僕はとても満足しているんだ。父上に話してよかったよ。これでサヤが逮捕されることはない。警察や軍に怯えることなく二人で暮らせる。サヤはどう思う? 僕と一緒に死にたいと思うような結果か?」
「……ううん。上出来」
「だろう? なら、もうそんな辛気くさい顔はやめてくれ。僕たちはもう自由に生きられる」
「そうだね……。ドンディナに戻ったら、さっそく再就職先を探さなきゃ」
「医療院、クビになったのか?」
「まだクビにはなっていないけど、これだけ休んじゃえばね」
 ドンディナを発つ前、国立医療院でサヤの助手を務めているナギーに手紙を残し、しばらく留守にする旨を伝えてはいたらしいが、上司に報告し許可を得るという段階を踏んでいないので、席は残されていない可能性が高いという。
 それならそれでもいいのではないか、と思う。サヤには薬剤調合師としての知識や技術があるし、器用なので、いくらでも仕事は見つかるだろう。そう、たとえば——。
「んー、薬草茶の茶葉を扱うお店を開く、っていうのはどうだ? 色んな種類を用意して、お客さんの悩みにあわせてその場でブレンドしたりするんだ。サヤのレシピはよく効く上に美味しいから、きっと繁盛する」
「……やっぱりヒノワはすごいな。俺の心をすぐに軽くしてくれる」
「それはサヤもだよ」
「ありがとう。本当に」
 一緒に生きていこう。僕たちにはそれが出来る。

 【ヒノワ邸にて——ヒノワ】

 午後のお茶の時間になった頃、カカリイの邸に帰り着く。
 馬車の音を聞きつけたカロあたりが飛んで出てくると思ったが、来ない。代わりに、マリと同様この邸に仕えて長いハンナが、ひどく慌てた様子で玄関から出てきた。
 彼女はヒノワの姿を認めると、前につんのめりそうになりながら立ち止まる。
「まあ、お帰りなさいませ! ヒノワ様」
「ただいま。どこかに行くのか?」
「ええ。お医者様のところへ。カロの調子が悪いみたいで……」
「カロの?」
「ええ。ヒノワ様が大変な状況なので申し上げていなかったようなのですけど、最近具合が悪くて、今朝になって熱が上がったらしいんです。それもなんだか様子がおかしくて」
「そんなに悪いのか?」
「熱はそこまで高くないんですよ。でも、今はなぜかスーイ様のお名前を呼んで泣いていて、マリさんが付き添って宥めています」
「……兄上の? なぜ?」
「さあ、私にはさっぱり」
 昨日までは元気そうに見えたのに。自分たちのことで手一杯になり、気づいてやれなかったのは主人であるヒノワの落ち度だ。
「僕が馬で一っ走り行ってこようか。その方が早いだろう」
「いえ、ヒノワ様がそんな……」
「ちょっと待って。医師を頼る必要はないかも」
 サヤは今にも厩舎に走っていきそうなヒノワを制止する。
 そうだ。ここにも助けになってくれそうな人がいた。
「診てくれるのか?」
「そうさせてほしい。家から持ってきている薬が使えると思うんだ。カロくんはどこに?」
「ご案内しますね」
 ハンナに先導され、使用人たちの生活スペースに足を踏み入れる。
 彼らのエリアに立ち入るのはせいぜい厨房までで、ここまで来ることは滅多にない。主人がうろつくことで、彼らの休息の場所を奪ってしまいかねないから。だが、今は事情が事情だ。
 ハンナは廊下の行き止まりまで来て、その手前にあるドアをノックする。なにやらドアの外まですすり泣く声が漏れ聞こえてきている。そんなに苦しいのだろうか。
 中からマリの返事があった。
「はい」
「ハンナよ。カロのこと、サヤさんが診てくれると仰ってて……」
「症状に心当たりがあるんです。よろしいですか」
「ちょっと待ってくださいましね」
 内側からマリがドアが開ける。いつもは完璧に整えられているマリのシニヨンが、今日は少々乱れている。看病というのはそれだけ大変なのだろう。
「まあ。もうお帰りになったのですね。どうぞお願いします」
 サヤに続いてヒノワも入室したが、マリに止められることはなかった。
 マルルギのサヤ宅の客間のようにこじんまりした部屋、その窓辺にベッドが置かれていて、顔を赤くし、息の荒いカロが横になっている。
 ヒノワが来たのにも気づかぬようで、弱々しく母に言う。
「スーイ様はまだいらっしゃらないの……? 今日は来られる日だよね?」
「何度も言っているでしょう。まだいらっしゃってないし、邸にいらっしゃっても、使用人の部屋にまで足を向けられることはないわ」
「僕から会いに行く」
「いい加減になさい。ご迷惑よ。大人しく寝ていなさい」
「嫌だ。行く。スーイ様、スーイ様……」
 ぐすぐすと鼻をすすっている。
 マリは困り切ってこちらを振り返る。
「もうずっとこの調子で……。ヒノワ様までお越しいただいてすみません」
「いいんだ。それにしてもこれはどういうわけだ?」
「薬、取ってくるよ。それさえ飲ませれば大丈夫」
 直接カロの状態を目にし、サヤは何か確信を得たようだった。
「風邪薬か?」
「いや、ヒノワも覚えがあるだろう。彼は病気じゃない。発情期だ」
「ああ……、そうか」
 いつまでも子供のように思っていたが、カロもそういう年だった。
「緊急発情抑制剤、ヒノワのために持ってきたやつがある。すぐ取ってくる」
「頼む」
 サヤは足早に部屋を出ていった。
 出入り口付近でこちらを窺っているハンナにも伝えておくべきことがある。
「ハンナ、この部屋に決してアルファを近づけないでもらえるか。スーイ兄上でも駄目だ」
「かしこまりました。でも、サヤさんもアルファでは……」
「彼は僕の番だから、他のオメガには影響されない」
 番のいるアルファは、番以外のオメガのフェロモンの影響を受けなくなる。また、番のいるオメガは、発情期中であっても番以外のアルファを誘わなくなる。番関係を結ぶメリットは、精神的な繋がりが強くなる他にこういうこともある。
「なるほど。承知しました」
「よろしく」
 この部屋の門番はハンナに任せておこう。
 苦しげな息子を見守るマリの横顔には、幾分安堵の色があった。
「発情期、これがそうなのですね。知識としてはあったのですが、何分私はベータなもので……」
「初めて見たらびっくりするだろうな。思い出してみれば、僕もこんな感じだったかも。カロ、もう少しの辛抱だぞ。薬を飲んだら楽になる」
「スーイ様が来る……?」
「兄上は来ないが調合師は来る」
「きっと僕のとこになんて来たくないんだ。うぅー」
「つらいなあ。わかるよ」
 小さかった頃のように、彼の頭を撫でる。
「この前スーイ様も撫でてくださった。すっごく気持ちよくて……」
「うん」
 話していると気が紛れる。たくさん喋らせよう。
 カロを宥めているうち、サヤが戻ってきた。
「ほら、これ、できたよ」
 彼が持ってきたのは、粉薬を飲みやすいよう白湯で溶いたものだ。マリがそのカップを受け取り、カロを起きさせ、飲ませた後、再び横にならせる。
 マリの手が空いてから、サヤは注意を付け加える。
「しばらくすると効いてくるはずだよ。ただ、完全に発情が止まるわけじゃない。和らげるだけ。だから、発情期が明けるまでの間、絶対にアルファを近寄らせないで」
「わかりました」

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