〈第三章〉末っ子王子の帰郷

「俺は出てるね。何かあったら呼んでください」
「ありがとうございます」
「そうだ、あと……」
 カロに聞こえないよう、小声を出す。
「この後スーイ様がいらっしゃる予定だけど、一応服は着替えて出た方がいい。発情期の匂いが服に付いている可能性がある。スーイ様に影響があってはいけないから」
「はい」
「了解した」
 薬のおかげでカロはしばらくすると落ち着き、眠った。ほっと一安心だ。
 もうヒノワがここで出来ることはないだろう。スーイが来ているとハンナに聞き、着替えてから応接室へ行く。そこにはすでに平服に戻ったサヤもいる。
 スーイはヒノワが来るやいなや立ち上がった。この兄が狼狽を隠せていないのはなかなか見られるものではない。
「聞いたぞ、ヒノワ。カロは大丈夫なのか?」
「ええ。今は落ち着いて眠っています。まあ、病気じゃないですし、オメガとしては正常なことですから、心配いりませんよ」
「……そうか、よかった」
 彼は重く息を吐き、どさっと座り直す。ヒノワもサヤの隣に腰掛ける。
「それにしても、発情期の時は本音が剥き出しになるというか……、隠す余裕もなくなるというか、僕もそうだったけど」
「何かあったのか?」
「言うか言わないか随分迷ったんです。カロは恐らく言われたくないだろうし。でも、諸々対処の必要なこともあろうかと思い……」
「言ってみろ。私は口が硬い。決して口外はしないと誓おう」
 サヤを見ると、彼は賛同の意味を込めて頷く。
 伝えておこう。スーイなら決して悪いようにはすまい。
「発情の熱に苦しんでいたとき、カロは何度も兄上の名前を呼んでいました。発情期にはアルファを求めるものですが、ただアルファであるだけではなく、兄上がよかったということだと思います」
「それは……、喜んでもいいことなのだろうか」
「いいと思います。ただ、マリもハンナも聞いていたので……、兄上とカロが何らかの関係にあると思われたかもしれません」
「まだ何もないぞ」
「細かいことは彼女たちにはわからないでしょう?」
「まあ、そうだな。訂正しておくべきか……。いや、聞かれたわけではないのに、わざわざこちらから言い出すのもな。さてどうする……」
「そのあたりはお任せします」
「ああ」
 スーイには今日の謁見の報告をするために来てもらったのだが、何やら真剣に考え込んでいる彼に切り出しづらい。時間はあるから、この後お茶をしながら聞いてもらってもいいか。そこで改めてお礼を言って——。
 今日これからの計画を頭の中で練っていると、廊下がにわかに騒がしくなる。バタバタ、というよりドスドス走る音がして、強めのノックがドアを揺らした。
「ヒノワ様、困ったことになりました!」
 ハンナの声だ。
「どうした? 入っていいぞ」
 彼女はドアを開け、早口で捲し立てる。
「ロージアン様がいらっしゃって……。今マリさんが対応してくださっているのですが、どうにも納得されずにごねてらっしゃって。どういたしましょう。ああ、どうしましょう」
 真っ先に応じたのはスーイだ。
「私が行こう」
「いえ、あの、スーイ様、俺が……」
「僕も行く。あいつにはガツンと言ってやらなければ気が済まない」
 サヤが名乗りを上げ、ヒノワもそれに続く。
 戦地に赴くような心持ちで、高らかに宣言する。
「よく見ておいてくれ。僕があいつをこてんぱんにしてやる。よくも僕のサヤを」
「殴る蹴るはさすがに……」
「自重する。兄上はとりあえず待機していてください。ここは僕たちでケリをつけたい」
「そうか? いくらでも使ってくれて構わんがな。では、まあ、危なくなるまでは隠れて見守っておくことにしよう。サヤ、打ち合わせどおりに」
「はい」
「打ち合わせ?」
「君が来る前にちょっとね。ルマ・ロージアンへの対応について話し合いをしたんだ」
 それは心強いことだ。
 兄とハンナを残し、二人で玄関ホールへ。ちょうどルマがマリに詰め寄っていたところのようだ。
 彼は足音でこちらに気づき、舌打ちをする。ここに通いつめていた頃に見せていた「物腰柔らかな好青年」とは、決して相容れない仕草だ。
 彼は吐き捨てるように言う。
「嘘つきめ。やはり匿っていたではないか」
「匿うも何も、僕は自分の邸に帰ってきただけだが」
「些細な表現の違いはどうでもいい。君がここにはいないと僕に嘘をついたことが問題なんだよ」
 忌々しげにマリを睨む。立場の弱い者にあたるとは、器の小さい奴だ。
「当家の使用人を威嚇するのはやめてもらえないか。もういい、マリ、ありがとう。カロのところへ戻っていてくれ」
「かしこまりました」
 邪魔にならぬようマリは速やかにその場を離れる。
 さて、勝負だ。腕を組んでルマと対峙する。
「それで、今日はどんなご用かな。ちょうどよかった。僕は君に色々と言いたいことがあってね」
「今日は応接室に通してくれないの?」
「まあ、座るところは必要かな。君は客じゃないからお茶は出ないけどね。来たまえ」
 気は逸ったが、なるべくゆったり堂々と歩き、再び応接室へ移った。兄やハンナはすでにおらず、茶器も片付けられている。
 ルマはふてぶてしいほど悠然と腰を掛け、サヤを指す。
「で、なんでそこの犯罪者までここにいるわけ? 君たちがあの襤褸家からいなくなって、僕、随分探したんだけど。まさか再び国境を越えていたとは。誰の入れ知恵?」
「お前に説明する必要はない。それより何だ、犯罪者って。犯罪者はお前だろう。一度ならず二度までも、お前は僕の番を殺そうとした」
「二度? 確かにマルルギの襤褸家近くでそこの男に武器を突きつけたのは事実だけど、それは捕えられている君を解放してもらいたかったからだ。本気で殺す気なんてなかった」
「よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えたものだな。五年前にリズドーで事件を起こしたのも……」
「何のことだかさっぱり。言いがかりはやめてもらおう。証拠はあるのか?」
「僕が目撃者だ。リズドーのアパートでサヤを襲ったお前を見た」
「君は記憶喪失だったはずでは?」
「リズドーの事件現場に直接行って思い出したんだ。確かにお前だった」
「ふうん。思い出した、ねえ。本当にそれ、僕だった? 顔はちゃんと確認できたの?」
「顔は……覆面を被っていたからわからなかったが、声は聞いた」
「声だけ? 似た声の人間なんてたくさんいるし、五年も前のあやふやな記憶だろう? どれだけ信用できる証言なんだろうね」
 ニヤニヤと意地悪く笑う。ああ、本当に嫌な奴。こんなのと結婚するつもりだったなんて、目を覚ませと数ヶ月前の自分を殴ってやりたい。
 それまで沈黙していたサヤが口を開く。
「確かに五年前の事件について、犯人を罪に問うことは難しいかもしれない。でも、先日のマルルギでの事件はどうかな」
「僕にやられたと告発するか? いいぞ。僕はさっきと同じことを言うだけだ。お前一人が何を言ったところで——」
「俺一人じゃない。一部始終を見ていた目撃者がいる」
「は? ああ、間に入ってきた邪魔者のこと? 銃なんか持っていたし、絶対堅気じゃないね、あいつ。金を握らせて証言させる気? その辺のごろつきと執政の子息である僕、どちらの発言に信憑性があるかは言うまでもないよね」
「アデュタインの王子殿下とドンディナの執政の子息なら?」
「王子殿下って……、ヒノワはあの場にいなかったよね? 嘘の証言をさせるのか?」
「お前が邪魔者だのごろつきだのと言っていたのはスーイ様のことだよ。あの時俺を助けてくださったのはスーイ様だ。あの方はお前と俺の会話を全て聞いておいでだった。お前が五年前の犯行を認めたことも」
 ここでルマの表情にわずかな揺らぎが生じる。ほんの少しの焦り——。
「……嘘だ。そんなわけない。全然違う。別人だった。僕を動揺させて有利に事を運ぼうとする作戦?」
「すぐにバレるような嘘はつかない。ヒノワ連れ去りの容疑者である俺が、捕らえられることなく国境を越え、今この邸にいられるのはスーイ様のおかげだ。国王陛下に謁見し、赦しをいただき、逮捕を免れたことも。何から何まであの方に頼りっぱなしで自分が情けないけど……、この恩は今後の人生を彼の大事な弟のために捧げることで返すつもりだ」
「陛下に謁見だと。お前のような下賤の者が? 人を馬鹿にするのも大概にしろよ」
「馬鹿になどしていない。事実だ。ドンディナ警察はアデュタイン国家からの要請で俺を捜査していた。でも、これで彼らが俺を追うことはもうない。……過去のことでお前の罪を追求するつもりはないよ。お前がヒノワから手を引いて、今後俺たちに関わらないでいてくれたら。逆を言えば、この先俺たちに危害を及ぼすようなことがあれば、こちらもそれなりの対応を取る。まずはお前のしたことを世間に公表する」
「僕を脅すというのか? 下賤の身で?」
「下賤下賤って、俺はごくごく普通の家の出だけど」
「僕から見たら下賤だ。くそっ……、元はと言えば、横から掻っ攫っていったのはお前の方じゃないか。僕の方が先にヒノワを知っていた。奪われたものを取り返して何が悪い」
 ルマはさっと懐から銃を取り出し、サヤに向かって構えた。
「僕に逆らった罰だ。今ここで死ね」
「おい、やめろ!」
 咄嗟に割って入ろうとしたところ、サヤは首を振る。そして、改めてルマに向き直る。
「ルマ・ロージアン、冷静になれ。アデュタイン王子の邸でドンディナの執政の息子が発砲しする、そのことの意味をよく考えろ」
 長年続いた両国の友好関係は、一瞬で崩れ去るだろう。アデュタインの王族はアデュタインの国そのものだ。その住まいで武器を使うということは、この国に対して戦争を仕掛けるのと同じこと。ルマもそれがわからないほど馬鹿ではないだろう。
「……お前が言うな、拉致犯め。一時の激情に身を任せたいと思うほど、僕は腹が立っているんだ」
「どうか抑えてほしい。もう一度言う。今後俺たちに関わらないでいてくれたら、お前の罪を追求するつもりはない。銃を捨ててくれ」
「……許さない」
「俺もだよ。お互い良く思っていないなら、関わり合わないのが一番だ」
「……」
 ルマは低く唸り、ついには銃を床に落とす。そして、乱暴にドアを開けて出ていった。荒々しい靴音が遠ざかっていく。
 それが聞こえなくなった頃合いで、スーイが入ってくる。
「なんとか上手くやってくれたな。いやはや、こんなに弁の立つ男だったとは」
「そんなこと……。打ち合わせのお陰です。……はあ」
 サヤは脱力してソファの背もたれに体重を預ける。
 確かに、銃を構えた相手に対して一歩も引かぬあの勇姿、かっこよかった。あいつの落とした銃で二、三発殴ってやっても良かったのに、とは思うが。その寛大さも彼の美徳だろう。
 これで何とかなっただろうか。過去の罪を公表するとまで言われて、なおも襲撃を仕掛けてくるほど愚かではないと信じたいが。
 三人で一息ついているとき——。
「やめてって言ってるでしょ!」
 廊下から怒鳴り声が聞こえ、またしても緊張が走った。
 スーイが前傾姿勢になる。
「あれはカロ……?」
「あいつ、なんで部屋の外に……。……あ」
 この場にいた三人が、同じ考えに行き着いたに違いなかった。
 まずスーイが部屋を飛び出す。ヒノワもサヤもそれを追うが、鍛え方が違うため、とても追いつけるものではない。あっという間に差が開いていくので、声だけでも届かせたいという思いで腹から音を押し出す。
「兄上、駄目です! 薬で抑えているとはいえ、カロは発情期で!」
「関係ない。放っておけるか! ルマもアルファなんだろう。番になどされようものなら、この邸を血で染めるのはルマではなく私になるだろうな」
「ここは僕たちが……」
「……」
 立ち止まったスーイの背中が見えた。おそらくあの廊下を曲がったところにカロがいる。
 全速力で駆けてやっとの思いで辿り着いた、まさにそのとき、招かれざる訪問者の身体が宙を舞う。投げ飛ばされたのだ。スーイに、ではない。彼は呆然とそれを見つめていたから。
 投げたのはカロだ。腕をまくり、倒れたまま動かないルマに威勢良く叫ぶ。
「小っさいからって舐めるな! 僕はヒノワ様の従者だぞ。体術の心得くらいあるんだ。ひ弱なボンボンに負けてたまるか!」
 思わず拍手を送ってしまう。
「素晴らしい。カロ、よくやった! すごくすっきりした!」

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