〈第三章〉末っ子王子の帰郷

「これくらい当然です。従者として当然の嗜みですから。それよりヒノワ様、さっきは……。て、あ、スーイ様?」
「声が聞こえて助けに来てみたが、いらぬ世話だったようだな」
「スーイ様!」
 一直線に駆け寄ろうとするカロ。サヤが間に入り、接近の阻止を試みる。
「だめだめ! 気持ちはわかるけど離れていないと……」
「このくらい耐えてみせる。自制心には自信があるんだ。おいで、カロ」
「はい!」
 スーイの方から近づいていき、カロは彼にぎゅっと抱きつく。
「スーイ様、スーイ様、やっぱりいらしてたんですね。母が席を外した隙に部屋を出て、匂いを頼りに探し回っていました」
「……私を求めてくれていたのか」
「はい」
 密かに想い合う二人は見つめ合う。心なしかスーイの目が潤み、頬が紅潮してきているような。
「兄上、やはりまずいですよ。発情って鉄の自制心でどうにかなるものじゃないです。僕たちは二回も経験があるから身に沁みてわかっています。襲いかかっちゃう前にとりあえず離れて」
「だが、私に縋ってくれているのに引き剥がすのも……」
 カロが成人するまで待ちたいというスーイの思いを考えると、止めざるを得ないわけだが、別たれる苦しみは痛いほどわかるから、こちらとしてもつらい。
 だから、サヤが解決案を出してくれて助かった。
「アルファ用の発情抑制剤を調合することは可能です。今から材料を調達しに行くことになるので、少々時間はかかりますが」
「それを飲むと側にいてやれるのか?」
「ええ。お互いに抑制剤を服用している状態なら。だから、ひとまず離れて。薬が出来上がるまで待ってください」
「わかった。……悪いな、カロ。聞いたとおりだ」
「はい……」
 しぶしぶカロは腕を放す。
「ところで、これ、どうしようかな」
 投げ飛ばされて伸びているルマのことだ。足で突いてみるが、微動だにしない。
 サヤはしゃがみ込んで頸部の脈を確認する。
「失神しているだけみたいだけど」
「お付きに持って帰らせよう」
 ハンナを呼んで伝言に行かせた。

 【ヒノワ邸にて——カロ・トルル】

 母にこっぴどく叱られた後、カロはまた一人で自室に籠もっていた。
 ベッドの上で膝を抱え、母の説教の原因となった出来事を思い出す。我ながら大胆なことをしてしまったものだ。
「スーイ様に抱きつくなんて……」
 顔の赤らみが引かない。
 薬をもらって発情の症状が抑えられ、微熱ぐらいになった後も、スーイに会わねば、としばらくそればかりで頭がいっぱいだった。さきほど顔を合わせて側に呼ばれたときは、この上なく満たされた心地になった。
「……これって」
 自分がスーイに恋情を抱いているということか? いつに間に?
 あんな行動を取ったのだ。きっとスーイにはこの気持ちが知られてしまったに違いない。彼は初めての発情期に戸惑うカロを哀れに思い、拒絶しなかったのだろう。
「懐の深いお優しい方だ……」
 ますます惹かれてしまう。
 さきほど、薬を飲んでから来てくれると言っていたけれど、母が断っておくと言っていた。寂しいが、その方がいいだろう。わざわざそこまでさせるのは申し訳なさすぎる。
 相手は王子様。幼い頃から共に育ったヒノワが特別なだけであって、本来なら親しく声をかけていただくだけでも恐れ多い方なのだ。
「……でも、会いたいなあ」
 隣に座っていてくれるだけでいいのに。
 ノックの音がして、伏せていた顔を上げる。きっと母だ。カロが部屋を抜け出していないか見回りに来たのだろう。
「いるよ。どうぞー」
 しかし、ドアが開き、現れたのは母ではなかった。まさしく会いたいと思っていた人がそこにいた。
「スーイ様、なんで……」
 姿を見ただけで、また熱がぶり返してきそうになる。本当に厄介だ。この発情期というものは。
 立ち上がろうとすると、そのままで、と止められた。
 彼はそろそろとベッドサイドへやって来る。
「行くと約束しただろう。私は約束を守る男だ」
「母からお話は……」
「丁重に断られたが、お前のあの様子が心配でな。こちらから頼んで通してもらった。ヒノワも味方してくれたぞ。あいつは兄思いのいいやつだ」
「そうだ、ヒノワ様……。結果がどうだったのかお聞きしていなかった」
「概ね予想通りだ。あの二人にとって悪い結果じゃない。落ち着いてからゆっくり聞くといい」
「……はい」
 今日はヒノワにとって今後の人生を決める大切な日だったのに。自分の事情で大騒ぎしてしまった。なんて恥ずかしい。
 でも、ほっとした。ヒノワにとってつらい結果ではなくて。
 よかったですね、と笑みを交わしあって、はたと気づく。スーイは立ったまま話をしている。椅子をすすめるべきか——いや、そうじゃない。引き取ってもらうべきだ。
「あの、使用人の部屋にまで、わざわざありがとうございます。僕はもう大丈夫ですから」
「迷惑だったか?」
「え、そんな、滅相もない! 嬉しいんですが、申し訳ないんです。スーイ様のための薬を作ってくれたサヤさんに対しても、心配してくださったヒノワ様に対しても、ですけど」
「気にしなくてもいい。私は頼ってほしいと思うよ。サヤもヒノワもそれは同じだ。お前さえよければ付き添わせてほしい」
「いいえ……、さっきまではスーイ様のことで頭がいっぱいだったんですが、優しくお気遣いいただいて衝動が和らぎました。だからもう大丈夫。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「迷惑などではない。邪魔だと言うなら出て行くが、そうではないと思っていいのだろう?」
「……はい」
「少しだけ話をしよう」
「本当にいいんですか?」
「いいと言っている」
「ありがとうございます……。あの、椅子、出しますね」
「いや、いらないよ。隣、いいか」
「隣ですか……」
 ベッドにいるカロの隣。一緒のベッドに座るだなんて、ヒノワとだってそんなことはしたことがない。
 返事を待つことなくスーイは腰掛ける。ベッドが沈み、身体がそちらに傾きかけたが、慌てて姿勢を正す。
 何か話さないと。せっかくここにいてくださるのだから。
「……なぜスーイ様はそんなにお優しいのですか? 素晴らしいお人柄だと思いますけど、皆にそうだと疲れませんか?」
「皆にではないよ。いくら乞われたって、自ら抑制剤を服用してまで番でもないオメガの側にいようとは思わない。お前以外は」
「どうして……。僕がヒノワ様の従者だからですか」
「お前がお前だからだよ」
 スーイの手が、たんぽぽの綿毛に触れるようにそっとカロの頬に触れる。あったかくて大きくて硬い掌。心臓の高鳴りはどうやったって抑えられるものではない。
「……よくわかりません」
「今はそれでいい」
「……?」
 顔が近づいてきて、額に唇が触れた。これはもしかしてキス? なんで、どうして。
「これくらいなら許してくれるか」
 許すもなにも、何が何だかさっぱりわからない。ただただ鼓動がうるさい。
「薬を飲んだのにドキドキします……」
「私もだ。嬉しいよ」
 頭を撫でられる。つい甘やかされて育った癖が出た。
「それよりさっきのがいいです」
「さっきの?」
「おでこに……」
「……困ったな。あと一回だけだぞ」
 額に二度目の口づけ。高揚感でふわふわと宙に浮くみたい。
「わあ。じゃあ、次は」
「もう駄目だって」
「ぎゅっとするのも駄目ですか?」
「しょうがないなあ」
 緩く抱きしめられる。広い胸の中で、より近くに感じるスーイの匂い。どんな果実より甘く、カロを惹きつける香り。
「いい匂い……」
「そんなにすり寄るな。お前とのことは大人になるまで待ちたいのだよ」
「僕はもう大人です。ヒノワ様の従者なんですよ。スーイ様から見れば半人前でしょうけど……」
「お前は立派な従者だよ。そういうことではなく、成人するまで、ということだ」
「成人すれば、もっとキスしてくれるのですか」
「いくらでも」
「……ふふ、楽しみです」
「ほら、もう終わり」
 彼はじゃれつくカロの肩を掴んで離れさせる。
「うー」
「そんな顔をするな。そのかわり話をしよう」
「どんなお話がいいですか。スーイ様がなさるような難しいお話はなかなか……」
「何でもいいんだよ。お前の好きなもの、苦手なもの、普段の過ごし方、何でも」
「はい……、なら、聞くに堪えなかったら止めてくださいね」
 元々お喋りは大好きだ。快くスーイが聞いてくれるので、ついついたくさん話してしまった。

 【ヒノワ邸にて——ヒノワ】

 父王との謁見が済んだ翌日、ヒノワは庭園でサヤとまったりとした時間を過ごしていた。心地よい陽気で、絶好のお昼寝日和。知らずあくびが漏れる。
 暖かな風に乗って、カロの笑い声が聞こえてくる。今スーイが来ていて、部屋で話が盛り上がっているのだろう。
 多分、あの二人は上手くいく。ヒノワはそう確信していたが、しかし、そう思わない人もいるわけで。
「そういえば、マリがまた溜息をついていたな……」
「俺も見た。あれなんでなの? 俺とヒノワのことはすんなり認めてくれたよね」
「カロが一方的に懸想して、同情した優しい兄上が発情期の間だけ顔を見せに来ている、と思っているんだと。兄上にも好意があるようだと説明しても信じないんだ」
「あれだけ年の差があれば無理はないかも」
「兄上からもきっちり説明する機会は持つそうだよ。多忙な方だし、せめて発情期中はより多くの時間をカロの側にいるために使いたいみたいで、説明は後回しになっているようだが」
 あの人になら安心してカロを、そしてここの使用人たちを預けられる。
「僕がここを出ていったら、兄上のところでうちの者たちを引き受けてくださるという件、他の使用人にはもう伝えてあるが、カロには発情期が明けてから伝えようと思う」
「それがいいよ。君と離れるのは彼にとってつらいことだと思うから、冷静に聞ける状態の時の方がいい。そういえば、いつまでに出ていかなきゃならないかは指定されていなかったよね?」
「ああ。でも、ずるずる居座るわけにはいかないよ。僕はもう王子ではないから、邸も使用人の生活も維持できない」
「君だって寂しいよね……。住み慣れた家を離れるというのは」
「寂しいが、それが自立というものだろう。サヤだってそうじゃないか。親元を離れて一人で生活している」
「俺の場合はまあ、仕方なくというか……。物心着いた頃から家族は祖父母だけで、彼らも俺が大学に入る前に他界したんだ。入院費の借金で首が回らなくなったのはそういうわけ。出してくれる家族がいなかったから」
 初耳だ。短い間とはいえ一緒に暮らしていたのに、彼の家族について何も知らなかったなんて。
「水くさいじゃないか。話してくれても……」
「言う機会がなくてね」
「ご家族には式を挙げる前にご挨拶に行かなければと思っていたんだ」
「式……?」
「え、結婚するんだろう? 僕たちを縛るものはもう何もない」
「それは当然。でも、そうか、式のことなんか考えたことなかった」
「ドンディナではしないのか?」
「するよ。でも、ヒノワがまた隣にいてくれるっていうだけで満足してたから……」
「新しい生活が落ち着いたらしよう。お世話になった人を呼んで」
「そうだね」
 思い描く未来はどこまでも明るく、さまざまな彩りに満ちていた。

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