(1)出会い

「いわゆる変転オメガというものですよ。遺伝子異常です」
 その医師の言葉が、伊月(いつき)には死刑宣告に聞こえた。三年前、若くしてこの世を去ったオメガの姉のことを思い出す。きっと自分も、姉と同じ道を辿るのだ。そう遠くない未来に。
 目の前には確かに夢と希望に溢れたキャンパスライフが広がっていたはずなのに、一瞬にして真っ黒に塗りつぶされたようだった。

 ——ほんの数時間前まで、伊月は自分の性別を疑ったことさえなかったのだ。
 月曜日、大学の構内を友人の瀬上(せがみ)と並んで歩く。四月から始まった大学生活にも、五月も末になるとようやく慣れ、構内でも迷わなくなってきた。二限目の講義が行われる五号館にも、すんなりたどり着く。
 階段を上って二階、瀬上は教室のドアを開ける。
「なあ、土曜日、暇?」
「土曜日? いつの?」
「次の」
「いや、次の土曜日は……、あれ?」
 後方の空いている席を目指しながら、伊月はくんくんと鼻に意識を集中させる。
「どうした?」
「なんか今日いい匂いしない? この教室、ほわーっと甘い匂いがする」
「お菓子?」
「て感じでもないかなあ。なんだろ」
「鼻いいのな。俺は何も感じないけど」
 匂いの正体までははっきりしなくても、何も感じないほど弱い匂いではない。瀬上は鼻でも詰まっているのだろうか。菓子というより花やハーブなど自然の匂いに近く、とにかく甘い。
 後ろから二列目の窓際の席を確保し、背中からリュックを下ろす。テキストや筆記具の準備をしつつ、瀬上は先ほど途切れた話題を拾い直す。
「で、次の土曜日だけど」
「おう」
「飲み会来ない?」
「飲み会って、俺らまだ十代だろ」
「堅いこと言うんじゃねえよ。ベータオンリーの合コンなんだ。アルファがいたら、あいつら軒並み掻っ攫って行くだろ。今回はベータだけだからチャンスなんだよ」
 充実したキャンパスライフのためには、まず彼女の存在が不可欠だと考えている瀬上は、四月のレクリエーションで隣の席になったときから、彼女作りに必死だった。それはそれで彼の自由なのだが、伊月を巻き込まないでほしい。
「お前、ミキちゃんといい感じって言ってなかった?」
「は? いつの話してんだよ」
「フラれたのか? フラれたんだな」
「うるさい。俺は過去を振り返らない主義なんだ。ということで、一緒に可愛い彼女作ろうぜ。合コン行こう。数足りてねえんだわ。お前は顔だけならシュッとしてるし、その田舎くさい格好とモサモサの頭どうにかすれば釣れるよ」
 余計なお世話だ。自分が「ダサい」部類であることは、他人から指摘されるまでもなく自覚している。歩いて行ける範囲にコンビニのないド田舎で育ち、都会暮らし歴は二ヶ月ちょっとなのだ。仕方ないだろう。
 ため息をつき、ペラペラとテキストをめくる。予習のためではない。なんとなく手持ち無沙汰だっただけだ。
「行かねえよ。土曜日はバニバニのライブだから。やっと清香(さやか)ちゃんに会える」
 チケットが取れたときから、ずっと楽しみにしてきたのだ。
 バニバニとは、バニラ・バニー・スターズの略で、三人組女性アイドルグループのことだ。頼れるお姉さん的ポジションであるリーダー清香、おっとり癒やし系の円莉(まるり)、いつも元気いっぱいのドジっ娘夏穂(なつほ)。それぞれ個性的で皆好きだが、伊月はその中でも特に清香のファンだった。つり目がちな目元に長い艶やかな黒髪、美しい伸びやかな歌声がとても魅力的なのだ。
 好きになったきっかけは、中学生の時に、ネットの動画投稿サイトで偶然彼女たちの動画を見たことだ。懸命に歌う彼女たちは、そこが小さな野外ステージであることを感じさせないほどキラキラ輝いていて、一目惚れしてしまった。それ以来、ずっと応援している。最近テレビの露出も増えてきて、ファンとしては嬉しい限りである。
 瀬上は顔をしかめる。
「あのなあ、それ、女の子の前で言うなよ。絶対引かれるぞ」
「俺はライブに一緒に行ってくれるような女の子じゃないと付き合えない」
「それだけじゃねえよな。黒髪美人で自分に一途で、料理上手な処女がいいんだろ。いるかよ、そんな女」
「いないなら、彼女なんていらない」
「うわあ、拗らせてる」
「俺は清香ちゃんさえいればいいんだよ」
 何にしろ、こんな都会で伊月のような田舎者を相手にしてくれるような女の子がいるとは思えない。瀬上の誘いには全くもって興味が無く、あくびが漏れる。
 そのとき。
「……はは」
 すぐ前の席から吹き出し笑いが聞こえてくる。
 こちらを振り返った男は知り合いではなく、見覚えがない。彼は笑いを噛み殺し、手の甲で口元を押さえた。
「ああ、ごめんごめん。ドルオタは処女厨ってほんとだったんだと思って、ちょっとおもしろくて」
「……は?」
「そんな怖い顔しないでよ。気を悪くしたらごめんね」
「……」
 再び前を向いた男を、憮然として睨む。初対面で失礼なやつだ。
「おい、ちょっとこっち」
「何だよ」
 瀬上が腕を引っ張るので、席を二つ隣にずれる。瀬上は失礼な男の方を見ながら、声を潜める。
「あの人、先輩だよ、二年」
「へえ、この講義二年も受けるんだ」
「毎回外から先生を呼んでくる特別講義だからな。あの人、前に飲み会で見たことある。アルファでさあ。すごい遊び人らしくて、飲み会の時も一人で女の子根こそぎ持って帰ってたわ。あんなの全員相手できんのかね」
「ふーん……」
 モテるだけあって整った顔立ちではあった。それに、野暮ったい田舎者の自分が敬遠してしまうような、垢抜けてさっぱりした雰囲気をまとっていた。やはり、アルファは別の世界の人という印象だ。——アルファ、それだけで特別扱いされる人たち。
 この国には、男女性の他にαβΩ性(ABO性)という性別が存在する。アルファ、ベータ、オメガにそれぞれ男女があり、計六種類の性別。
 人口比率的にはベータが大多数で、アルファが一割、オメガはそれより少ない。アルファ、ベータ、オメガ並び順は、そのまま社会的な序列だ。知能も身体機能も優れ、社会的地位も高いアルファ、多数派で平均的なベータ、昔は「産む性」と言われ、現在でも差別対象となりやすいオメガ。
 近年性別格差が問題視され、改善されては来ているそうだが、いまだ消えない。いびつな世界で、伊月はベータという大きな器の中に埋もれ、安穏と日々を生きていたのだった。
 特別扱いなどされなくていい。特別が良いこととは限らない。何事も普通が一番なのだ。——身内を見ていたから、特にそう思う。
 ぼんやり考え事をしていると、九十分の授業は意外と早く終わる。何とか眠らずに耐えた。のんびり片付けをしているとき、瀬上につつかれる。
「あれ、忘れ物かな」
 瀬上は例の先輩が座っていた辺りを指す。机の上にハンカチらしき紺色の布が置かれていた。先輩自体はさっさと出ていっていない。
「ほっとけよ。必要だったら取りに来るだろ」
「見つけちゃったんだから、そういうわけにもさあ」
「仕方ねえなあ」
 片付けに手間取っている瀬上の代わりに取りに行く。
 手に取った瞬間、ふわりと甘い香りがした。鼻を近づけると、より明確に感じる。この教室に漂っているのと同じ匂いだ。
 香水の香りがハンカチに移ったのか、こういうことには疎くてよく知らないが、男がつけるには甘すぎる気がする。かといって女っぽいわけではない。ずっと嗅いでいたくなる、柔らかくて優しい匂い。例えるなら、なんだろう、「初恋の味」の匂いバージョンのようだ。
「伊月? どうかしたのか?」
「これ、すごくいい匂いがする」
 瀬上にハンカチを渡す。彼は匂いを嗅いで首をひねる。
「ん? 石鹸の匂いのこと?」
「じゃなくて、甘くてきゅんとなる匂い」
「きゅん? しないけど? まあいいや。早く学生課に届けて昼飯行こ」
 やはり瀬上は鼻が詰まっているのだろう。こんなにいい匂いなのに。
 リュックを背負い、ハンカチを持って教室を出た。

 その日は五限目が休講になって、早く帰れることになった。なんてラッキーなのだろう。今日はバニバニのコラボグッズの発売日で、早く買いに行きたかったのだ。
 バニバニには「バニバニうさぎ」というマスコットキャラクターがいる。バニラ・バニー・スターズという名前にちなみ、モコモコのうさぎがアイスクリームと星を持っている、という可愛らしいものだ。メンバーのイメージカラーである、青、ピンク、黄色の三匹がいて、ファンはどの色を身につけるかで、推しを主張する。伊月は恥ずかしいので、普段は持ち歩いておらず、大事に部屋に飾っているが。
 このバニバニうさぎと女子中高生に人気の「うさのすけ」というキャラクターが、今回コラボした。いつもはライブでしか販売されないバニバニうさぎグッズが、一般の雑貨店などで手に入る。これは是非とも入手したいところだ。
 SNSのツイートによると、すでに店舗によっては売り切れになったグッズが出ているらしいので、いくつかの店舗を回るつもりだった。
 伊月の住まいは大学近くの学生向けマンションで、重い荷物をいったん置きに帰るか迷ったが、一刻でも早くと気持ちがはやり、直接最寄り駅から電車に乗った。
 車内はまだ空いている時間帯で、席を確保できた。リュックを胸に抱えて揺られていると、うとうとしそうになってしまう。寝過ごしたらいけない。居眠り厳禁だ。
 実は、二、三日前から寝不足で身体がだるい。初めての一人暮らしで、夜は寂しいときがあり、ついついバニバニ関連のDVDを見ながら夜更かししてしまうのだ。
 昨日は清香が去年主演した『とろける月』という映画を見ていた。切ない恋愛もので、何度見ても泣ける。バニバニに出会ってからというもの、つらいときはいつも彼女たちに助けられてきた。伊月にとってとても大切な存在だ。
 眠いが、グッズゲットのため頑張らねば。そして、今日は早く寝よう。
 並々ならぬ決意を胸に、主要駅で降りる。大きい駅の近くには、取扱店舗が多くあるからだ。改札を抜けて駅を出る。スマホでグッズの残り状況のツイートをチェックしつつ、在庫の多そうな店を目指して歩き始めた。
 ——だが、おかしい。徐々に足が重くなってくる。熱っぽさを感じる。寝不足でだるいのだと思ったが、風邪だったのか。一歩進むごとに息が荒くなり、汗が噴き出す。背中のリュックの重みが何倍にも増したようだ。
 まずい。これは高熱かもしれない。しかし、風邪の時のような喉の痛みや頭痛、節々の痛みはない。かわりに、下腹部がどくんどくんと脈打つのがわかるくらいに疼く。身体の真ん中の奥が、きゅうきゅうと締めつけられているような感じがし、そこから甘い毒のような痺れが絶え間なく吐き出される。
「なんで……?」
 はたと立ち止まる。股ぐらのものが頭をもたげ始めているのに気づいたから。性的興奮を起こさせる刺激など、何もなかったはずなのに。今、自分を慰めたくてたまらない。
 ——何これ、怖い……。
 その場に膝を突く。通行人の迷惑になることは理解できるが、そんなこと気にしていられない。乱れた息を必死で整えようとしながら、自分で自分を抱きしめる。そのとき、なぜか教室で嗅いだあの甘い匂いを思い出した。嗅ぎたい。あの匂いが。——どうして?
「君、どうしたんだ?」
 頭上で男の声がする。顔を上げると、縁の太い眼鏡をかけた、スーツ姿の若い男が立っていた。
 何か答えなければと思うが、声にならない。
「……」
「……もしかして、突然来たのか?」
「え、あ、そう、突然……」
 突然、熱が出た。
 男もしゃがみ込み、伊月と目線を合わせる。
「安心して。私はアルファじゃない。ここはまずいな。とりあえず移動しないと。駅には絶対薬があるから、駅員を捕まえて聞こう。立てるか?」
 男の言う意味はほとんど理解できなかったが、最後の質問に対してだけ首を振る。足に力が入らない。
 彼は頷き、しゃがんだまま伊月に背を向け、両手を差し出す。おんぶしてくれるらしい。この状況は一人ではどうにもできない。素直に従い、彼の背によろよろとしがみつく。
 男は立ち上がって、周囲に鋭い視線を投げる。
「おい、こっちを見ているアルファ。犯罪者になりたくなかったら、これ以上近づくなよ」
 歩いている最中も、「緊急事態。アルファ近づくな」と繰り返し大声で言っていた。いったいどういうことなのだろう。アルファが何か関係あるのだろうか。
 駅に入り、彼は最初に見つけた駅員に声をかける。駅員はどこかに案内してくれるようだ。途中、こちらへ突進してきた男女が二名ほどいたが、別の駅員に取り押さえられていた。
 たどり着いたのは医務室だ。学校の保健室のような場所で、伊月はリュックを下ろしてベッドに寝かされる。
 熱はますます高まるばかりで、少しでも気を抜けばズボンの前に手をやってしまいそうだ。これまで感じたことのないほど強い性的な衝動。みっともないことをしてはならないと、あらん限りの力でシーツを握りしめ、それでも抑えきれず、枕に噛みつく。
 情けない。恥ずかしい。混乱で涙がにじむ。

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