(1)出会い

「酒飲んだのなんか初めてなんだよ。ああ、今日は注射したからかな。飲酒駄目だったのかな」
「予防接種?」
「ううん。……うわっ」
 何もないところで転びそうになってしまい、腕を掴んで支えられた。追い打ちをかけるように、ぽろぽろと雨まで降り出してくる。
「傘、貸してあげるよ。うちここなんだ」
 陽介は目の前のマンションを指すが、首を振る。
「いい。うちはここからあと五分ぐらいなんだ」
「一人で帰れるの? そんなにフラフラしてるのに。いいからおいで。あの写真のことだけど、清香は別に彼女ってわけじゃない。ただ仲がいいだけ。中で詳しく聞かせてあげる」
「……」
「気になるよね」
 少し強引だと思いはしたものの、先輩の自宅に呼ばれただけだ。断り続ける気力もなかったので、おとなしく招かれることにした。

 陽介の部屋は伊月のところより広かった。ワンルームではなく、寝室が別にあるようだ。大学生の男の一人暮らしにしては、ずいぶん綺麗に整頓されていている。
 壁に外国の街並みであろう風景写真のパネルが飾られていたり、棚に背表紙の美しい洋書が並べられていたり、テレビ台に小さな観葉植物が置かれているのが目につく。いつでも女の子を呼べて、かつ女の子が喜びそうな部屋だと思った。
 陽介はすぐ別室に着替えに行った。その間、伊月は借りたタオルで服の上から身体を拭く。少し雨がかかっただけなので、そう濡れてはおらず、着替えが必要なほどではない。
 部屋を観察しているうちに涙は引いた。リュックに入れていたポケットティッシュで鼻をかみ、すっきりさせると、借りたタオルからまたあのいい匂いがしているのに気づいた。今日の二限の教室で漂っていた匂い、そして陽介のハンカチの匂いだ。そういえば、この部屋全体から同じ匂いがする。入ったときは涙のせいで鼻が詰まっており、わからなかったのだ。
 この部屋の匂いは教室とは比べものにならないくらい濃い。お部屋の消臭スプレーのように、部屋中に香水を振り撒いているのだろうか。頭がくらくらするほどだが、不思議と不快ではない。冬の日に長湯したときのようにぼんやりしてきて、心地良い。好きだ。この匂いは、好き。
 甘い匂いに、香ばしく苦味のある匂いが被さる。着替えを済ませた陽介が、温かいコーヒーを入れてくれた。
「どうぞ」
「どうも」
 入れてくれたコーヒーを一口飲む。とても美味しい。アルバイトをしているカフェで販売しているオリジナルブレンドなのだという。バイト先までモテそうなものを選んでいる、などと考えてしまうのは、モテない田舎者の僻みだろうか。
 カーペットに腰を下ろした伊月の横に、拳二つ分くらいの間隔を開けて、陽介も座る。
「で、死にたくなるようなことって、何があったのかな」
 柔和な眼差しが伊月の顔を覗き込む。
 本人からあの匂いが一番しているのが、狭い空間だとはっきり感じられる。匂いの方に引っ張られそうになるが、カップを鼻に近づけてコーヒーの匂いで紛らわせようと試みた。
 内心を悟られぬよう、平坦な口調で返す。
「そっちが先。あの写真どういうこと? 仲がいいって?」
「友達だから、あれくらいいくらでも撮れる」
「ほんと? なんで? どういう繋がり?」
 芸能人と友達になれるって、何者なのだ、この男は。彼は素っ気なく手を振る。
「それは後。君の事情を話してくれたら教えてあげる」
「興味ねえだろ、俺のことなんて」
「んー、興味はある。大学で初めて見かけたときから気になってたんだ、君のこと。葛城(かつらぎ)伊月くんだよね。綺麗な名前だね。ちなみに僕は堂島(どうじま)陽介です」
「気になるほど目立たねえだろ、俺」
「ううん。あの集団の中で一番目立ってた」
「それはあれか。田舎くさいとかそういうこと?」
「まあ、確かに田舎くさいけど、目立ってた理由はそれじゃないね」
「何だよ」
「それも後」
「ずるい!」
「話してみなって。楽になるかもよ」
 それくらいで楽になるなら、初めからこんなに悩んでいない。ぎゅっと握りしめたマグカップは予想以上に熱く、持ち直す。
「話したぐらいでどうにかなるか」
「そんなに深刻?」
「俺にとってはな」
「気になるなあ。僕、口は堅いよ。誰にも言わない。もしも僕が君のこと誰かに喋ったら、君もさっきのこと広めていいよ。僕が駅でコーヒーぶっかけられてたって」
「モテなくなるかもな」
「それは困る。だから、君のことは誰にも言わない」
 内緒話に耳を貸すときのように距離を詰められる。匂いの引力がさらに強くなって、気を抜くと彼の方にふらふら倒れ込みそうだ。心臓が勝手に騒ぎ始める。
 この香水の名前が知りたい。なんて魅力的なんだろう。自分で付けることはしないけれど、伊月も自宅に振りまきたい。
 こんな匂いに包まれて寝られたら、きっと気持ちがいい。今日はいろいろなことがありすぎた。ひんやりしたガラステーブルの上に突っ伏す。
「ねむい」
「あ、逃げた」
「本当に眠いんだって」
 何かを見極めようとするような強い視線を感じる。
「君ってさ」
「ん?」
「ベータだって聞いたんだけど」
「それが?」
「ほんとはオメガだったりしない?」
 落ちかけていた目蓋が、ぱっちり開く。反射的に背筋が伸びる。
「え、なんで……?」
「そう。やっぱりオメガなんだ」
「なんでわかったんだ? アルファってそういうのわかるもんなのか?」
「んー、ただそうじゃないかなって思っただけ」
「いつ気づいた? 今日?」
 矢継ぎ早の質問に、陽介はのんびりと答える。
「初めて見かけた時かな」
「今日より前ってこと? 俺だって昨日までは自分がベータだと思ってたんだぞ。オメガ混じりなんだって知ったのは今日で」
「どういうこと?」
「変転オメガって知ってる? あれなんだって。要はさ、遺伝子異常の欠陥品なの」
「変転オメガ?」
 陽介はスマホを出してきて検索し、内容をさらっと読んでいた。その表情は真剣で、嫌悪の色が現れる様子はない。
「男でオメガとか引くだろ」
 男なのに妊娠できて、発情期もある、特異な性。言われる前に自分から言ってしまえと口にしたが、彼がそれに頷くことはなかった。
「全然。僕は好きだよ、オメガの子。駅でコーヒー掛けてきた女の子、自分はオメガだって嘘を言って近づいてきたんだ。同じ大学だから、僕がオメガ好きだってどっかで聞いたんだろうね。彼女とは結局何にもないんだよ。食事しただけ」
「あんたはわざわざオメガを選んで付き合うのか?」
「必ずしもオメガである必要はないよ。でも、オメガの子って顔が可愛いくてエロい子多いから、付き合いたがるアルファは多いね。恋人がオメガだと勝ち組感ある」
「そんなもんなの?」
「そんなもんなの。僕が特殊なわけじゃないよ。……そっかー、君はオメガなんだ。やっぱそっかー」
「何だよ」
 彼は伊月の頭にそっと手を添える。にこにこして、とても嬉しそうだ。公園で四つ葉のクローバーを見つけたときの姉も、たしかこんな表情をしていたな、と思い出す。
 しかし、姉が絶対に言わないことを、彼は言い出した。まったく突拍子もなさ過ぎる。
「キスしていい?」
「……は?」
「キスしたいな」
 親指の腹で伊月の唇を撫でる。ただ触れるだけではなく、性感を煽るような手つきで、腰の辺りがむずむずとする。
 心なしか彼の匂いがさらに濃くなっているように思う。それに気を取られ、振り払う機会を見失ってしまう。
 かろうじて、会話だけ繋げる。
「……あんたゲイなの?」
「さあ。男の子で付き合ったことがあるのはオメガの子だけだけど、アルファとオメガの場合でもゲイっていうのかな」
「知らねえよ」
「君は? 女の子じゃなきゃ駄目?」
「当然だろ」
「オメガなのに?」
「昨日までベータだったんだよ」
「せっかくオメガになったんだし、僕と試してみない?」
「マジで言ってんの?」
「まずはキスだけ。嫌だったらやめていいよ」
「……」
 この男は伊月を性的な対象として見ているということか? 伊月がオメガだから? オメガなら誰でもいいのか?
 軽蔑を込めて見つめ返していたのだが、返事をしないのを了承と取ったのだろう。撫でていた箇所に唇を重ねてくる。温かくて柔らかい感触。それほど拒否感は湧かない。陽介はこちらの様子を窺いながら、二度三度触れあわせる。
 なぜ自分は抵抗しないのだろう。抵抗した方がいいのは理解できる。この男からははっきりとした情欲を向けられているのを感じる。
 このまま彼のすることを許せばどうなるのだろう。乱暴なことをされるだろうか。嫌なことを忘れるくらい、ひどい目に遭わされたい気もした。これは不良に喧嘩をふっかけるのと同じ、自傷願望の延長なのだ。オメガだとこういう扱いを受けるのだと知るいい機会でもあるかもしれない。
「今、最悪の気分なんだ。それ忘れさせてくれるんなら、いいよ」
 ——何を言っている。やめろ。理性の声は、限りなく小さい。自分の暴走を止めるものが、今はない。
 答える彼の口調は、あまりに軽かった。
「オッケー。難しいこと考えずに、僕に任せてくれれば大丈夫」
「……本当だな」
「うん。舌、こうやってべーってしてみて」
 言われた通り、舌を出す。人に向かってこんなことをしたのは、小学生以来だ。
「そう、いい子。ああ、先に言っとくね。鼻で息するんだよ」
 再び唇が近づく。舌に舌が絡まり、吸われる。伊月の反応を見ながら、どんどん無遠慮になって口内を動く。
 キスって唇をくっつけるだけじゃなかったのか。テレビドラマや映画でやたらと長々唇をくっつけ合っているシーンがあって、何をやっているのかと思っていたが、具体的にこんなことをしていたわけか。
 口の中を舌で撫でられるのは、案外くすぐったいものだ。そのくすぐったさが、頭の奥を痺れさせる。凝り固まっていたものの一部がどろりと溶け出し、再び下肢に熱を持たせる。まるで、発情期の情動の一部が戻ってきたかのように。
 あのとき、確かに思ったのだ。「あの匂いが嗅ぎたい」と。望んでいたものはすぐ傍にあり、伊月を包み込んでいる。
 陽介は唇を離し、かわりに額と額をくっつける。
「……いいね。素直な子は好き。もっと気持ちいいことする?」
「うん……」
「いい子」
 カーペットの上に寝かされる。シャツを裾からまくり上げて、彼の手のひらが素肌を滑る。細かな震えが肌を走った。こんな風に他人に触れられたことなんてない。
「くすぐったい……」
「ここは?」
「そこも」
「ここはどう? ここは?」
「ひゃっ……! 全部だよ」
「全部気持ちいい?」
「くすぐったいの」
「じゃあ、こっちはどうだろ」
 こちらが何か考える前に、するりとズボンが脱がされ、素足が剥き出しになる。まだ下着をつけているとはいえ、脱がすなと怒らないのは、伊月が平常の状態ではない証拠だ。
 爪先、足の甲から、ゆっくりと手が這い上がってくる。初めはきわどい部分を避け、接触に慣れさせるように、ただ撫でるだけだ。手のひらの温もりがじんわりと皮膚の下まで浸透して、ふわふわ気持ちがいい。
「スキンシップって幸せホルモンが出るんだって。いっぱい触ってあげるね」
「……うん」
「可愛い。いい子」
 ——いい子ってほめられた……。
 さきほども言っていた。彼の口からこぼれる言葉までくすぐったく感じる。
 手が足の付け根まで辿り終わったあと、再度唇同士が触れあう。髪や耳にもキスが落とされる。シャツが脱がされ、首筋にも、鎖骨の辺りにも、胸元にも、腹にも。手のひらで触れられたところを、今度は唇で辿っていく。乱暴なことなど何もされない。
 そもそも、こんなことをして彼はおもしろいのか? 男の身体にべたべた触ってキスすることが。見たところは実に楽しそうではある。その顔つきを見ていると、緩みきった警戒心はさらに解ける。

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