(1)出会い

 案内してくれた駅員と背負って連れてきてくれた男の会話も、ぼんやりとしか聞こえない。
「あいにく、今担当者が……」
「いいですよ。薬はどこですか? 私が注射します。やったことありますから」
 ベッドサイドにやってきた男は、駅員から渡されたらしい、細長い透明のパッケージの何かを持っていた。苦しむ伊月に、男は問う。
「なあ、君、何か今他に薬飲んでいるか?」
「いえ、何も……」
「わかった」
 男は椅子に座り、伊月の二の腕の外側を脱脂綿でアルコール消毒した。そして、パッケージの封を切って中身を取り出し、注射する。あまりに手慣れていて、注射自体に不安は感じなかった。
 次第に熱っぽさが引き、頭がクリアになっていく。それに伴い、下半身の興奮も鎮まる。あれは解熱剤の注射だったのか? 彼は医療関係者なのだろうか。
 礼を言うために起き上がろうとすると、止められる。
「もう少し安静にしておいた方がいい」
「……すみません」
「こういうこと、初めて?」
「あ、はい……」
「月一の注射にはちゃんと行ってる? やはり行っておいた方がいいよ。こういうことあるから」
「えっと、月一の何?」
「まだ混乱してる? だから、発情抑制剤の注射。月に一回クリニックに受けに行くやつだよ。予定期間中に飲む錠剤とはまた別の。注射と錠剤をセットで使えば、ほぼ百パーセント発情期は回避できる」
「発情……、ってなんかオメガみたいじゃないですか」
 オメガの姉がいたし、保健の授業でも習うので、ベータの伊月でも多少は知識がある。
 「産む性」と言われるだけあり、オメガには特に妊娠しやすい発情期がある。オメガは男女問わず妊娠能力があるので、男女どちらにも発情期はあるという。通常は薬で発情期が来ないようコントロールするが、間違って来てしまうことも無いでは無いらしい。
 発情期の期間、オメガはアルファを性行為に誘うフェロモン(オメガフェロモン)を大量に撒き散らす。このフェロモンはベータ、オメガには効果が無い。アルファ対してだけ有効で、はっきりした理由は不明。オメガフェロモンの影響を受けたアルファもまた発情し、抑えがたい性衝動に駆られる。——そう保健体育の教科書には書いてある。
 男は怪訝そうな顔をする。
「は? 君、オメガだろ」
「ベータですけど……」
「ああ、外ではそういうことにしてるってこと? 別にそれはそれでいいと思うけど、私に今更隠すことでもないだろう」
「そういうことじゃなく、ほんとにベータなんです。え、どうしてオメガだなんて」
「さっき注射したの、緊急発情抑制剤だぞ。オメガの発情期が来た後に、発情期を止める薬。あれが効いたんだから、君はオメガで、さっきまで発情期だったってことだろう。アルファらしき奴も何人か襲いかかろうとしてきたから確実だ」
 自信満々に言い切られる。
「オメガ……、発情期……」
 それはとても、恐ろしい言葉のように響く。突然、動悸がし始める。またしても息が苦しい。何かから逃げ出したくて、がばっと起き上がる。その瞬間ふっと意識が遠のいた。
「おい、どうした」
 返事をする前に、何もかもわからなくなった。

 伊月は救急搬送された。助けてくれた男も付き添ってくれ、救急車の中で意識を取り戻した。
 運び込まれた総合病院で検査を受ける。気を失ったのは緊急抑制剤の副作用なのかを調べるらしい。ベータのはずなのに発情期が来たと言うと、オメガかどうか調べる性別検査も受けることになり、採血された。出生時性別検査でも、中学校で行われる第二次性別検査でもベータだと言われたのに、今更変わるものなのだろうか。どうか間違いであってくれと祈った。
 待ち時間の間、付き添いの男はどこかに電話をかけていたようだ。仕事中だったのだろう。悪いことをした。家族が来てくれることになったと嘘を言い、彼には帰ってもらった。帰り際、彼から連絡先を書いたメモを渡された。
 長い間一人で待ち、スマホのバッテリー残量が二十パーセントを切ったころ、診察室に呼ばれた。
 結果、緊急抑制剤の副作用はなし。意識を失ったのは精神的なショックによるものであろうということだった。
 性別検査についてだが、運ばれたのが、偶然専門機関が併設された病院であったため、その日のうちに検査結果が出せたらしい。行われたのは出生時性別検査や第二次性別検査より詳しい検査だ。「とってもめずらしいケースだから、先回しにしてもらったよ」と医師は少々興奮気味だった。
 医師から難しいことを立て板の水のごとく説明されたが、理解できたのはこれくらいだ。
 伊月は遺伝子異常らしい。 αβΩ性において、二つ性別の性質を併せ持った事例が稀に存在していて、伊月の場合はベータとオメガ。
 ベータでもありオメガでもあると同時に、ベータとしてもオメガとしても不完全であるので、発情期が来るのが遅れていて、初めて発情期を迎えた今後はオメガとしての性質が強くなるらしい。いわゆる変転オメガだ。
 変転、と言うと、突然性別が変わったようだが、そうではなく、伊月は生まれつきオメガの性質を隠し持っていた。発情期がきっかけでそれが表に出てきてしまったのだ。
 これからは発情期が二、三ヶ月に一度定期的に来るようになるだろうということ、抑制剤処方のためオメガ専門クリニックに通う必要があるということ、通常オメガ以外には抑制剤が処方できないので、役所で性別変更手続きが必要だということ、発情期があるということは妊娠能力があるということだが、通常のオメガより妊娠率は低いだろうということ、等々。
 どれもこれも、伊月の心に重くのしかかった。

「発情期って何だよ。妊娠能力って何だよ。産むの? 俺が?」
 オメガの男は男性と言いながら両性だ。妊娠することもさせることもできるが、たいてい世間では産む方だと見なされる。「産む性」だから。
 男なのに両性であることと、そして、男女ともにおとずれる発情期が、オメガへの差別の大きな理由だ。両性なんて奇妙、普通じゃない。発情期なんて動物みたいで野蛮、巻き込まれるアルファが可哀想。それが、オメガではない人々にとっての、ごくごく一般的な感覚だ。性に奔放だとか、あばずれだとか、そういうイメージを持たれることもある。
 オメガ、伊月はオメガ。——姉と同じ。オメガであるというだけで虐めの対象となり、抱えきれないほどの痛みをその身に受けて、三年前にこの世を去った姉と同じ。棺の中で花に囲まれ、淡く微笑んで見えた姉の白い面差しは、まだ記憶に新しい。
 性別格差を無くすだとか、差別を無くすだとか言われているが、いまだオメガに対する世間の風当たりは強い。姉を見ていたからわかる。蔑まれて踏みつけられて、彼女は自ら死を選んだ。姉を亡くしたときのやり切れなさも思い出し、行き場のない負の感情がごちゃ混ぜになって、身体の中で暴れている。
 病院からとぼとぼと駅へと歩く。途中のコンビニで、年齢を偽って酒を買った。レジで身分証の提示を求められたら、おとなしく引き下がろうと思っていたが、適当なバイトだったらしく、年齢確認のボタンにタッチさせられただけだった。
 コンビニの前で三分の一ほど飲み、気持ち悪くなって結局捨てた。こんなもの、何が楽しくて大人は飲むのだろう。
 苛々して、ひどく投げやりな気分だった。駐車場でたむろしている不良に喧嘩でもふっかけてやろうか。勝てるはずなんてないのはわかっている。いっそ痛めつけられたいと思った。身体を傷つけられても、心が楽になればいい。そんな度胸もないけれど。
 電車に乗り、住まいの最寄り駅兼大学の最寄り駅で降りる。
 改札を出たところで、喧嘩する男女に出くわした。
「最低! 信じられない!」
 甲高い声で怒鳴る女の方は知らないが、男の方は今日教室で伊月を笑った先輩だった。乗降客たちは彼らの方をちらちら見こそすれ、足を止めることはない。しかし、伊月は立ち止まった。家に帰ってもすることがなかったから、ちょっとした暇つぶしで見学する感覚だった。
 怒りをぶつけられた男が、うんざりしているのは傍目にもわかった。
「いや、嘘ついてたのは君でしょ? 最初にちゃんと言ってくれてたら、僕は君の誘いに乗らなかった」
「でも、陽介(ようすけ)くんもちょっとは私のこといいって思ったから」
「ごめんね。嘘つきな子は嫌いかな。恋愛って信頼関係っていう前提がないと上手くいかないよね」
「……ああ、そう」
 女は陽介と言うらしい男を睨みつけると、手にしていたドリンクカップの中身を彼に向かってぶちまける。彼のシャツが茶色に染まったところからして、コーヒーだったようだ。足音荒く女は去って行く。
 どん底に気分の時は、他人の不幸が楽しい。陽介と目が合う。不機嫌そうに、彼はこちらを見返した。
「なに笑ってるの?」
「別に。かっこ悪いなって思って」
「まあ確かにね。かっこよくはなかったね。……ああ、どうしよう。このシャツお気に入りなのに」
「ご愁傷様」
「クリーニングに出すしかないなあ」
 陽介は肩を落とし、鞄からコンビニのレジ袋を取り出した。その中に投げ捨てられたカップを拾って入れる。どうやら片付けをするらしい。ゴミ箱から取ってきた新聞で床を拭く。何とはなしに、伊月はそれを眺めていた。
「几帳面だな」
「そのまま放っておくわけにもいかないだろう」
 大体拭き終わると、使用済みの新聞も袋に入れ、まとめてゴミ箱へ捨てていた。片付け終わり、彼はがさごそとズボンのポケットを探す。
「……ああ、落としたんだった」
「ハンカチ、二限の教室にあったぞ。学生課に届けた」
「そう。そりゃどうも」
「これ」
 伊月は厚手のウェットティッシュを一枚取りだし、差し出す。それを受け取り、彼は手を拭う。
「こんなの持ってるんだ。潔癖さん?」
「持って無い方が不潔なんだ」
 偉そうに言ってはみたものの、ただ、綺麗好きの母にいつも持たされていた名残というだけだ。
 陽介は使ったウェットティッシュもゴミ箱に捨てた。
「親切にしてもらえるのはありがたいけど、言葉に棘があるよね、君」
「そうか?」
「そう」
 確かに先輩に対する態度としてふさわしくなかったが、精神がささくれ立っているのでまともな対応など出来ない。大きな失礼発言をして怒らせる前に退散しよう。
「じゃあ、俺帰りまーす」
「待って。君、この後暇?」
「俺が暇かどうか、あんたに関係ある?」
「あるから聞いてる」
「じゃあ、暇じゃない」
「じゃあって何? ああ、待ってってば。そうだな。ウェットティッシュのお礼に良いもの見せてあげる」
 彼は伊月を壁際に連れて行くと、自分のスマホの画面をこちらに向けた。画面いっぱいに表示されているのは写真で、恋人同士のように肩を寄せ合った男女が写っている。男は陽介。女は——、バニバニの清香に似ていた。
「可愛いでしょ。清香っていうの」
「……本人?」
「うん」
 ファンとアイドルという雰囲気ではなく、両者ともとてもリラックスしていて、親密に見える。しかも背景は家の中だろう。どちらかの自宅で撮ったのか。
 憧れの清香が、遊び人と噂の男と? 泣きっ面に蜂とはこのことだ。ひどいダメージを受けたメンタルにとどめを刺されてしまった。涙がぼろぼろと溢れてくる。
 陽介はぎょっとしてスマホを引っ込める。
「泣くほど? ドルオタってそこまで?」
「バニバニと清香ちゃんは俺の生きる希望なんだ」
 姉が亡くなったショックからも、バニバニのおかげで立ち直れたのだ。涙が止まらず、しゃくり上げ始めた伊月に、陽介もさすがに慌てた様子だった。
「いや、あの写真はね?」
「……帰る」
 ふらふらと駅出口に向かって歩き出す。彼も追ってきた。
「大丈夫?」
「もういい。もうどうでもいい。どうせもうすぐ俺は死ぬんだ」
「は? 僕のせいで自殺とか嫌なんだけど」
「ついてくんな」
「僕もこっちなんだよ」
 鼻をすすりながら、夜道を歩く。まだ少し外は肌寒い。
 よろめいて、何度か陽介にぶつかる。
「アイドルに入れ込みすぎると身が持たないよ」
「あの写真のことだけじゃない……。俺にだっていろいろあるんだ」
「なに? リアルで失恋?」
「してねえよ」
「君、もしかして酔ってる?」
「少しだけ飲んだ。ちょっとはマシな気分になれるかなって。でも全然駄目だった」
「少しってどのくらい?」
「缶ビール半分も飲んでない」
「それで酔う?」

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