(1)出会い

「そうじゃない。昨日はショックなことあったからさ。自棄になってたっていうか……。頭痛いときに腕つねったら、一瞬頭痛いの忘れる、みたいな、そういうのを期待してた。そんな乱暴なことはされなかったけど、初めてであれはすごい衝撃的だったから、結果的には上手くいったのかな」
「お役に立てたようで何より」
「馬鹿なことしたとは思うけどね」
「そんなことなら僕は歓迎だよ。いくらでも利用して」
「やりたいだけだろ」
「そうかもね」
 陽介は視線を合わせ、手を握ってくる。やけに色気のある目つきで指を絡めてくるから、昨夜のねっとりとした濃密な空気がよみがえりかけ、慌てて手を引っ込める。
 生々しく記憶がよみがえってきて、頬が赤らむのを止められない。
「やらしー。何考えてるの?」
「何でもない」
「なら、なんでニヤニヤしてたのさ」
「してない」
「してた」
「言いがかりだ!」
「可哀想だからそういうことにしといてあげる。ねえ、朝ご飯食べる? 今日何限から?」
「二限」
「じゃあ食べる時間あるね。といっても、食パンぐらいしかないけど」
 昨晩は食事を取っていないから、当然ながら腹は減っている。だが、それより気になることがある。諸々の体液であちこちがベタベタのカピカピなのだ。
「シャワー浴びたい」
「先に行っておいで。着替え貸してあげる」
「いいよ。いったん家に帰ってから着替える」
「あのぐっしょりパンツ、また穿くの? パンツだけでも替えなって。新品あるから」
「うん、じゃあお願い」
 だるい身体に何とか言うことを聞かせ、ベッドを降りる。
「お風呂は廊下に出て左のドアだよー」
 よたよたと歩く伊月を、呑気な陽介の声が追いかけてきた。

 二人ともシャワーを済ませた後、居間のテーブルで朝食を取る。コーヒーとトースト二枚、バター、オレンジマーマレード、イチゴジャムのみだ。
 結局ジャージも借りて、すっかりリラックスモードでトーストをかじる。イチゴジャムをつけたのだが、果肉がごろっとしていて、香りが良く、甘さも適度でいい。
「ジャム美味しい」
「お土産でもらったんだ。有名な店のやつなんだって」
「へえ。いいなー。高そう」
「朝はパン派?」
「いろいろ。大学前のコンビニで適当に買って持ってって、講義前に食べてる」
「三食コンビニなの?」
「さすがにそれはないよ。学食だったり、スーパーのお惣菜だったり、駅前のお弁当屋さんの弁当だったり、実家から送ってくれたご飯のお供だったり」
 正直、料理を作っている時間があれば、アルバイトの時間を延長して稼ぐか、バニバニのDVDや番組録画を見ていたい。
 陽介は、ほうほうと頷きながら耳を傾けている。
「自炊はしないわけね」
「炊飯器で米炊いてレトルトカレーかけたり、パスタゆでて市販のソースかけるくらいはする」
「それは自炊かなあ」
「あんたはするの?」
「しない。だから、伊月ができる人だったらいいなって思ったんだよ」
「……ん? なんで?」
「まあ、そうなるよね。いいよ、こっちの話だから」
 こっちとはどっちなのかは不明だが、大して興味が湧かないので聞き返さないでおいた。
 一枚目のトーストを平らげた陽介は、スマホをチェックし始める。
「あ、昨日の晩に来てる。ほらほら、見て」
 見せてきたのはメッセージアプリのトーク画面だ。送られてきている写真が真っ先に目に入る。写っているのは、バニラ・バニー・スターズの「いつも元気なドジっ娘」キャラの夏穂だった。新曲の衣装を着ており、こちらに向かってピースサインしている。背景は楽屋か。よく見ると、後ろに小さく清香と円莉もいる。
「……なにこれ」
「夏穂の写真」
「見たらわかるよ!」
「清香がいいの? ほら、これとか」
 画面を上にスクロールし、何日か前の写真を出す。私服姿らしい三人娘が、クレープのようなお菓子を片手に自撮りしている。
「こんなの見たことない」
「そりゃそうだろうね。完全なプライベートショットだもん。その前のも見ていいよ。くだらないのばっかだけど」
 陽介はテーブルにスマホを置く。他人宛の写真を無遠慮に見るのは誉められたことではない。しかし、好奇心には勝てず、彼のスマホを手に取る。メッセージは見ないようにしながら、日付を遡っていく。
 人が写っていないものもかなりある。料理や風景、洋服、化粧品等々だけを写してあるものだ。人物は夏穂が中心で、ときどき清香や円莉も写り込む。場所は様々。服装も様々。Tシャツと短パンだけというラフな姿のものや、パジャマ姿まであった。どれも雑誌やテレビで見たことがないものばかりだ。かなり細かくチェックを入れているつもりなのに。
 伊月をドルオタと揶揄った男のスマホに、なぜこんなものが。
「すごい。こんなにいっぱい。なんで……? え、なんで? なんでなんでなんで」
「夏穂が頼んでもないのにバンバン送ってくるんだよ。自撮り大好きだから」
「直接やり取りできるって……、あんたの親、事務所の社長?」
「なわけないじゃん。妹なんだよ」
「誰が?」
「夏穂が僕の。ちなみに清香は小中同じで実家も近所。円莉は昔からの知り合いではないけど、うちの実家に遊びに来ることはある」
 言われてみれば、似ている気がする。陽介の輪郭を丸くして、目尻を少し下げれば、かなり夏穂に近づく。先ほど感じた既視感の正体はこれだったのか。バニバニファンでありながら、なぜ気づけなかったのだろう。夏穂のキャラと陽介の印象が違いすぎたからかもしれない。
「夏穂ちゃん、雑誌のインタビューやラジオでよくお兄さんの話をしてるけど、それって……」
「僕のことじゃない? あの子のお兄ちゃんは僕だけだから」
「あの、あのお兄さん! イケメンで優しくて歌上手いってよく言ってて、清香ちゃんや円莉ちゃんにブラコンってからかわれてる、あの……。すごい、お兄さん……。お兄さんと同じ大学……。地元出てきて良かった」
 パンを食べるのも忘れ、真横の男を見つめて感動に浸る。彼は息を吐き出して、胡座をかいた足を組み替える。
「オタクがだだ漏れだよ? そんな感動のされ方はちょっと違うんだよなあ。やっぱ言わなきゃよかったか」
「ライブとかに招待されたりする?」
「来てって言われるけど、あんまり行かないかな。あの独特のじとっとした熱気が苦手というか。この中の何人かは帰ってから妹で抜くのかと思ったら、複雑というか」
「ライブグッズが実家にいっぱいあったり……」
「母さんが集めてるよ。あのうさぎのぬいぐるみとかうじゃうじゃいる」
「バニバニうさぎ? あれ、ライブごとに衣装が違う新作出るし、地方ごとでデザイン違ったりするし、数量限定だし、コレクターたくさんいるんだ。最近は他のうさぎキャラとコラボしたりもして……。……あ」
 思い出した。調子に乗って質問攻めにしている場合ではなかった。スマホを陽介に返し、リュックから自分のスマホを取り出す。急いでツイート検索しなければ。どうか間に合ってくれ。——だが。
「わー!」
「……何事?」
「昨日がそのコラボグッズの発売日だったんだ。でも、売り切れ報告ツイートばっかり!」
「発売日に買いに行けばよかったのに」
「行くはずだったんだよ。突然発情期になんてならなければ……。くっそー。オクで探すかフリマアプリか」
 まずはメジャーなオークションサイトを開いて、出品があるか調べる。
 陽介は伊月の言いたかったこととは別の点が引っかかったようだ。
「え、発情期? なったの?」
「うん。それで判明したんだよ、性別。駅から店に行こうとしてる途中に突然来てさあ。あれさえなければ、確実にゲットできてたのに。うわあ、やっぱめっちゃ高騰してる」
 おのれ、転売屋。グッズはほしいが、転売屋を潤わせるのはファンとしてあるまじき行為だ。奴らから買うくらいなら諦めるしかないだろう。
「くやしい……」
「大丈夫だったの?」
「だから、買い逃したって」
「じゃなくて、外で発情期になって襲われなかったのかってこと。昨日、もうすぐ死ぬって言ってたのって、もしかして」
「襲われはしなかった。すぐに気づいて助けてくれた人がいたんだ」
「……そう、よかった」
 よかった、か。一応心配してくれたということだろうか。女癖男癖に難はありそうだが、そう悪い人でもないのかもしれない。
 陽介は伊月の皿のパンを千切り、口に放り込んでくる。
「いっぱい食べときな」
「はーい」
「昨日は全身から氷柱が生えてるくらい刺々しかったのに、今日はずいぶん穏やかなんだね。少し安心したよ」
「ショックで混乱してたからなあ。誰も相談する人がいないし、あのまま家に帰ってたらどうなってたか考えると、ちょっと怖いよ」
 寝られずに一晩中泣いていたかもしれないし、部屋の中でものを壊して暴れていたかもしれないし、窓から飛び降りようという衝動が湧いたかもしれない。
 恐ろしい妖怪のように取り憑いていた不安と混乱は、一晩経つとかなり薄らいでいた。変転オメガと診断された事実は変わらないというのに。声や汗や何やかやと共に外に出てしまったのだろうか。今はやけにすっきりしているのだ。
 冷静になって考えてみれば、性別がすぐ他人にバレるわけではない。バレなければ差別的扱いを受けることもない。高校までとは違い、大学というところは人と人との繋がりが薄い。慎重に行動すれば、そう簡単にバレないだろう。ベータが多数を占める世の中では、特に情報が無ければ、目の前の人間をベータと見なすのが普通だ。
 ——多分、おそらくは。明らかになったときのことを考えると、やはり恐ろしいが。
 陽介の手のひらが頭を一撫でしてから、肩を叩く。スキンシップは幸せホルモンが出るのだったか。人の温もりは安心する。
「帰らせないでよかった」
「うん。ありがと」
「ありがとうは違うんじゃない? 僕は下心丸出しで連れ込んだんだよ?」
「あんた自身がどんな目的でも、あれくらい頭がぶっ飛ぶような経験が、俺には必要だったんだよ。一人だと心が潰れそうで、ものすごく苦しかった。最中はほんとに嫌なこと忘れられたし、限界まで疲れたおかげでぐっすり眠れたし」
「よければ今後も協力するよ。ほら、近所だし」
「下心つき?」
「ないわけじゃないけど、相談に乗ってやるかわりにやらせろ、なんて非道なこと言うつもりないから安心して。他の人に泣きつくくらいなら、事情を知ってる僕のところに来てくれた方がいいかな。もちろん、ただ単に欲求不満の時に来てくれても歓迎します」
 ほら、やっぱり悪い人じゃない、と思いかけたが、最後の部分で台無しだ。
「どうしようかなー」
「考えといて。今はもう不安なこととかないの?」
「不安だらけだよ」
「例えば?」
「役所で性別変更の手続きをしなきゃならないらしくて、すごく嫌だ。無視してベータのままでいたい。でも、変更しなきゃ抑制剤が処方してもらえないらしいし、発情期来るの恐ろしいなら変えるしかない」
「さっさと済ませちゃいなよ。ついてってあげようか?」
「いいの?」
「うん。平日はなかなか難しいから、土日で開いてるときは……」
 ささっとスマホで検索する。
「今週の土曜日なら午前中開庁してるみたい」
「土曜日……、まあ、午前中なら大丈夫か」
「午後から何かあるの?」
「バニバニのライブ」
「ああ、好きだねえ。役所には朝一番で行ってさっさと帰ってくるようにしようか」
 願ってもない申し出だ。二人で行っても一人で行ってもやることは変わらないのだが、一人だと心細い。逃げ出したくなるかもしれない。しかし、甘えていいものだろうか。
「ほんとにいいの? 下心つき?」
「なしでいいよ。さあ、早く食べちゃって。いったん帰らなきゃならないんだろう?」
「うん」
 マーマレードをつけた二枚目の食パンを口に詰め込む。
 彼の家を出る前に、連絡先を交換した。

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