(2)文化祭

 夏休みが明けてすぐ話題に上がるのが文化祭のこと。この高校ではクラスに一人文化祭リーダーを決め、学級委員長と協力して準備を引っ張っていくのが慣わしだ。
 A組の文化祭リーダーは羽島で、自ら立候補する気合の入り様。イベント事が大好きな彼は、去年もリーダーを務めていた。A組の出し物は投票の末お化け屋敷に決定した。
 ちなみにB組はコスプレ喫茶らしい。「大川くんっていう客寄せパンダをゲットしたB組最強じゃねえか。負けてらんねえ!」と羽島は一方的に闘志を燃やしていた。体育祭とは違い、文化祭に勝ち負けはないのだが。
 放課後、教室で稔実が来るのを待ちながら、お化け屋敷の怖がらせ案を出しあっているとき、羽島が言い出した。
「明日の土曜日、視察に行くぞ」
 急すぎる提案に、出た案のメモを取っていた千田が眉根を寄せる。
「視察?」
「お化け屋敷の視察だよ。リドリンランドのやつ、怖いって評判だったよな?」
「あれまだやってたっけ」
「やってるやってる。さっき調べた。千ちゃんは委員長だから絶対参加として……」
「え、そうなの?」
「用事あんのか」
「ないよ、ない。が、それにしても急すぎる」
「これもクラスのためだ。客寄せパンダに対抗するためには、緻密なリサーチと地道な努力をするしかない」
「入場料は自腹だからな? 予算から出ないよ」
「わかってる! それでも俺はやるのだ。で、利都はどうする? 来る?」
 話の矛先を向けられ、考える。元々そう活発な方ではなく、休日に予定を詰め込むタイプではないので、明日は空いている。
「行こうかな。どうせ暇だし」
「いいなー。俺も行きたい。リドリンランドって行ったことないんだよね」
 話に割って入ってきたのは、客寄せパンダ、もとい稔実。いつの間に来たのか、すぐ後ろにいた。
「利都が行くなら俺も行くー」
「大川くんは別クラス……。けどまあ、視察に支障がないならいいか」
「絶対に邪魔はしないよ!」
「ならオッケー、文化祭リーダーの俺が許可しよう」
「やったー! 利都、遊園地デートだよ!」
 ハイタッチを要求してきたので、勢いに押されつつ応じる。
「う、うん……」
「楽しみだねえ」
 早速次のデートの機会が巡ってきた。まったく展開が早いなあ。

 計画を立てた時点では、当日の天気予報は曇りで、暑くなくてちょうどいい、などと話していたのだが。
 翌日になってみると、朝からどうにも雲行きが怪しい。窓を開けてみると雨の匂いがする。
「これは降るかもなあ。まあ、降ったら降ったで、別のところへ遊びに行けばいいか……」
 約束の時間もあるので一先ず出発することにし、折り畳み傘を持って家を出る。
 今日は利都が稔実を迎えに行くことになっており、一緒に電車で現地へ行って、羽島、千田と落ち合う予定だ。
 利都の自宅マンションから一つ隣の通りに入って一、二分の場所に、稔実の住まいはある。いかにも「昭和から家族の歴史を見てきた祖父母の家」という古い一軒家だ。彼は洋風の城で優雅に暮らしているようなイメージだったので、初めて見たときは意外だった。
 一般の高校生なのだから、城になど住んでいるはずはないのだが。なんというか、容姿や言動も含め、彼にはそういったことを想像させるような浮世離れした面があった。
 雨が降り出したのは、稔実宅に到着するのとほぼ同時。それも小雨ではなく土砂降りと言ってもいい降り方だ。すぐに軒下に入ったため、幸いそんなに濡れなかったが、利都を家に招き入れた彼は、親切にもタオルを貸してくれた。
「これじゃさすがに無理だね。次の電車には間に合わない」
「はっしーに連絡して相談するよ」
「とりあえず入って。お茶入れるね」
 利都を居間に通し、稔実は廊下の奥の台所へ行く。
 卓袱台の前に座って、一息つく。雨のお陰で、図らずも初めてのお宅訪問をすることになった。初めて見る大川家の内部。居間は年季の入った畳敷きで、物が少なくすっきりしており、どこか懐かしく落ち着く匂いがする。
 稔実は海外へ発った両親と離れ、ここで祖父母と暮らしているわけか。孫の稔実はどんな風なのかな。やはり祖父母思いの孝行者だったりするのかな。料理上手だから、おばあさんと台所に立っこともあるだろうし、代わりに食事を作ることもあるかもしれない。食材を一緒にスーパーへ買いに行ったりも。夜はきっとここで皆でテレビを見る。
 大川家について勝手に想像を巡らせていると、スマホに着信があった。リーダー羽島からだ。応答する。
『あ、利都?』
「はっしー、俺も連絡しようと思ってたんだ」
『そっちどう? こっちはすごい雨! 千ちゃんとこもだって』
「こんなに荒れてちゃ外に出られそうにないね。各自待機してしばらく様子見る?」
「さっき外を見た限りでは、昼過ぎごろにならないと止まないと思うよ」
 情報が提供されたのは、お盆を持って戻ってきた稔実から。
「え、そんなのわかるの?」
『なに?』
「いや、止むのは昼過ぎになるって稔実さんが」
『そっちはもう合流済みか。小降りくらいなら行けないこともないけど、どっちにしろ今の状態じゃ無理だもんな。雨がマシになったら連絡するわ』
「うん」
 電話が切れる。内容を端的に報告しておく。
「しばらく待機って」
「了解」
 彼は腰を下ろすと、卓袱台にお盆を置き、急須で緑茶を入れてくれる。慣れた手つきだ。正座の姿勢も急須に添えられた指先も美しい。
 室内には空調が効いているので、湯呑みから湯気が出ていても暑苦しい感じはない。
「どうぞ」
「ありがとう。……そういえば、今日は一人? うちの人は出かけてるの?」
「うん。休日出勤」
「仕事してるんだ。土曜日も、なんて忙しいんだね。もしかして実家でもそんな感じだった?」
「うん、まあ、同じような感じ」
「だから料理したりとかお茶入れたりとか慣れてるんだね」
「自分の身の周りのことくらいはね。家事は一通り出来るんだ」
 子供っぽい無邪気な発言もあるが、こういうところは大人だ。
 そういえば、こうして室内で二人きりになる機会は、これまであまりなかった気がする。この間のデートの時も、二人きりというわけではなく、常に周りに誰かいた。
 雨音に混じってやけに耳につく秒針の音。雨のせいで少々息がしづらいような湿っぽい空気。雨によってこの家だけ世界から隔離されているような、そんな錯覚。
 ——ドキドキしてきた……。
 誤魔化すようにお茶を口にする。熱すぎず苦すぎず、とても良い加減だ。稔実もお茶を飲んでいる。彼の中では茶葉は野菜には含まれないのだろうか。お茶くらいは野菜嫌いの例外なのかもしれない。
 湯呑みを置くと、彼は窓の外に目をやる。
「昼からでも決行するのかな? 入場料もったいないよね」
「別の日にした方がいいかも」
「遊園地デート、楽しみだったのになあ」
「また行こうと思えば行けるよ」
「うん」
「……」
 彼の緊張も伝わってくる。こんな状況、どうしたって意識してしまう。顔が赤くなってないかな。視線を感じるような気がするけど、動揺しているのがバレている?
「もうちょっと近くに行ってもいい?」
「……いいよ」
 稔実はこちらににじり寄ってくると、人一人分くらいだった距離を半分に詰めた。お互いに無言。さて、何の話をしよう。趣味は何? よく行く店は? 好きなテレビ番組は? 犬派か猫派かどっち? なんだそれ。動物の好みを聞いてどうする。何か気の利いた話題はないものか。
「……利都の好きな動物ってなに?」
 思わず噴き出しそうになってしまった。間を持たせるために、同じようなことを考えていたとは。何だか可愛い。しかし、気が利いてはいないが、話の続くネタではある。
「んー、犬か猫かで言ったら犬かな」
「なぜ? 人懐こいから?」
「それもあるけど……、俺、小学生の時、犬に助けられたことあってさ」
「へえ、犬に……」
「あの神社……初川稲荷の夏祭りで、親とはぐれて迷子になったことがあるんだ。寂しくて不安で泣いているとき、綺麗な白い犬が魔法みたいに現れて、両親のところまで連れてってくれた。親には夢でも見たんじゃないかって言われたんだけど」
「それ、ほんとに犬? 稲荷神社なんだから、狐でしょ?」
「そうなのかなあ。前のこと過ぎてよく覚えてないや」
「そっかー」
 さらに近寄って来たかと思うと、彼は戯れかかるように利都を抱き寄せる。
「え、なに、急に」
「人懐こくしてる」
「なんだか嬉しそう……」
「まあね」
 至近距離で見つめられる。目が合うだけで溶かされてしまいそうな笑み。まずい。動悸がする。急激に血圧が上がって、これは心臓の危機。
「ち、近い……」
「やだ?」
「やじゃないけど」
「じゃあ、キスは?」
「きす……」
「やだ? んー、口舐めるのはどう? なるべく犬っぽくする」
「犬っぽいからいいとか悪いとかいう問題じゃ」
「だってせっかく二人きりだし。でも、利都が嫌なら我慢するよ」
 首を傾げておねだり。
 ——誘惑されている……。
 ああ、もう、拒否する理由が出てこない。ここは彼の家で、自分たちは一応付き合っているわけで。
「……ちょっとだけなら」
「ありがと。ちょっとだけね。なら、まずぺろっとだけ」
 利都の緊張を和らげるように、稔実は後頭部にそっと片手を添えて口を寄せ、唇の真ん中あたりをぺろりと舐める。
「んっ……」
 短かったので、濡れたものが当たった、くらいの感覚だった。
「どう? 大丈夫そう?」
「うん……」
「次はもうちょっと長く」
 上唇、そして下唇を塗りつぶすように舌先が滑る。利都の様子からこれも大丈夫だと判断したのか、ちゅっちゅっと何度か唇が触れ合う。
 全く犬っぽくない。騙された気分。しかし、騙されたがっている自分もどこかにいる。キスは嫌じゃない。全然嫌じゃない。
 しっとりとした掌が利都の頬をさする。
「可愛い……、顔真っ赤」
「うぅ……」
「もうちょっと大丈夫そう?」
「もうちょっとだけ?」
「うん、もうちょっとだけ」
「なら……」
「頑張れそう? いい子。利都も口開けて舌出して。べーって。……そう」
 こわごわ差し出した舌に、彼の舌が触れ、絡む。舐めて、吸って——。舌先が歯と歯茎の境をなぞり、上顎をくすぐり。
 むず痒いやらくすぐったいやら、利都がもぞもぞし始めると、彼はいったん舌を抜き、触れるだけのキスに戻す。しばらくしたらまた入ってきた。そのうち、逃げ出しなるようなくすぐったさは、別のものに変わっていく。
 だんだん頭の芯が痺れてぼんやりしてくる。背中がぞくぞくしてたまらない。
 利都の全身の力がくったりと抜けてきたころ、彼は利都の腰のあたりに腕を絡ませたまま、唇と唇を数センチ離す。
「利都の口おいしい……」
 口元を拭う長い指を、無意識に目で追ってしまう。
「……」
「安心して。今日はまだキスだけ。キスだけならいいでしょ?」
「……ん」
 返事として、頷く以外考えられなかった。
「雨が止むまで……、しよ」
 何度も口づけを繰り返す。やっと解放してもらえたとき、お互いに興奮しているのがわかったが、深呼吸することで何とか紛らわせた。
 彼について一つわかったことがある。距離の詰め方が高校生らしいと思って安心しかかっていたけれど、それは間違いだった。こんな大人のキス、反則だ。慣れている証拠じゃないか。

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