(2)文化祭

「ネットで探せばいくらでも拾える!」
「いやいや、俺にとっての初鬼火はあれだし」
「もう!」
 パシャパシャと連写する羽島を制止しようとし、稔実の手が利都から離れかける。その瞬間を見計らったかのように、繋いでいなかった方の手をぐいっと後方に引かれた。
『つかまえた』
『さあさあ、こっちへ』
 二人の男の声だろうか。先ほどよりはっきり聞こえる。くすくす笑いも。
「利都!」
 幸いにもすぐに気づいてくれ、離れかけた手が握り直される。
「まったく油断も隙も……」
 稔実は似合わない舌打ちをし、見えない敵から利都を庇うように抱き寄せる。
「この子に悪戯は駄目だって言ったろ!」
『ああ、こわい、こわい。おいかりだ』
『なに、ほんのあいさつ』
「こいつらのことは無視して行くよ、利都」
「……うん」
 ぐいぐい手を引かれ、歩き出す。
『ひとのこよ、またおいで』
 背中を楽しげな声が追いかけてきた。
 駆け足で鳥居の外へ出て、階段を下る。足元がほぼ見えていない状態で、稔実は迷いなくずんずん進む。ついていけず転びそうになったところを、しっかりと支えられた。
「大丈夫? 早かったね、ごめん」
「大丈夫……」
 羽島と千田も後ろから追いかけてきて、階段の麓で合流した。歩きながら、羽島は勢い込んで質問を開始する。
「なあなあ、お前ら、誰かと喋ってたのか?」
「うん。聞こえなかったの? あれ」
「利都、鈍そうなのに霊感あったんだな」
「いや、あんなこと初めて」
「相手はどんなやつ? 何話した?」
「んー、誰だったんだろう……。声だけで姿は見えなかった。稔実さんはわかる? やっぱり狐?」
「知らないよ、あんなやつら」
 何やらお怒りの様子で答えてはくれなかったが、明らかに稔実は彼らと知り合いのようだった。
 千田はくたびれきったというように重い息を吐く。
「なんでお前ら、全然怖がってないんだよ。僕はまだ足がちょっと震えてる」
「そういやそうだね。なんかあの人たち、全く悪意を感じなくて」
 得体のしれない雰囲気に恐れを感じはしたが、目に見えないものの声を聞いたことには不思議と怖さはなかった。
 羽島は元気に胸を張る。
「俺は好奇心! 冒険者精神!」
「……慣れてるし」
 ぼそっと返す稔実に、さきほどからの疑問をぶつけてみることにした。
「稔実さんって、もしかして陰陽師とか?」
「なんで……?」
「『この子に悪戯は駄目だって言った』って話してたから、あの声の人たちと前にも喋ったことがあるってことでしょ? 陰陽師なら、ああいう『人でないもの』と知り合いでもおかしくないよね」
「この前の映画の影響受けすぎだよ」
 羽島はすぐに茶化しにかかる。
「はは、大川くんはエクソシストとかの方が合いそう。カソックっていうんだっけ? あの神父さんの服」
「この人和装も似合うんだよ。夏祭りの時に浴衣着てたのかっこよかった」
「浴衣か。俺は着たことねえわ」
「陰陽師でもエクソシストでも、ついでに言うなら霊媒師でもイタコでもないよ。見えるだけ」
「見えるだけでもすごい。ぜひ我が組のお化け屋敷にアドバイスをくれ」
 ちゃっかりと協力要請する羽島に、稔実は溜息混じりに言った。
「時間があればね」

 四人で稔実宅まで行く。帰りの時間を気にしたくないから、と我儘を言い、羽島、千田は稔実宅に泊まることが事前に決まっている。彼らは隣町から来ていて、電車が無くなると帰れないのだ。予定より大分早く引き上げてきてしまったから、終電の心配をする必要はなかったわけだが。引き留められて、利都も泊まることになった。
 家にはまた祖父母が不在だった。出張で今日は帰ってこないという。先週ここに来たときもいなかったし、随分多忙な人たちのようだ。
 夕食は稔実が用意してくれていた。出かける前に作ったという牛肉ごろごろカレーだ。野菜も申し訳程度に入っている。稔実はその野菜さえ避けて自分の皿には肉ばかり入れていたのを、しっかり目撃してしまった。
 例によって例のごとく、手作りカレーは美味しく、四人で一鍋平らげた。
 食後、順番に風呂を使った後、居間に布団を敷く。皆で雑魚寝というのは修学旅行のようで楽しい。いつまでもお喋りが止まらない羽島を黙らせるため、日付が変わるころ強制的に消灯した。
 これで一日が終わり。また明日。だが、真っ暗になると神社での出来事を思い出し、なかなか寝付けない。身体は疲れているのに、目は冴えている。人ならざる者の声を聞くという非日常の体験をしたことが、自分で思っている以上に神経を高ぶらせているらしかった。それに、おやすみを言い合った直後から聞こえ始めたイビキも気になる。羽島だろうか。
 隣の稔実が身じろぐ音がした。彼は慎重に起き出し、足音を忍ばせて居間を出ていく。
 ——眠れないのかな……。
 利都も起き出し、廊下へ出る。きょろきょろと見渡して、廊下の奥の、光が漏れている方へ歩いて行く。入り口に暖簾の掛かったその部屋を覗くと、台所のシンクの前に稔実がいた。透明のグラスを傾けている。水を飲みに来たわけか。
 利都の姿を認めると、柔らかく相好を崩す。
「君も眠れないの?」
「うん」
「水、いる?」
「もらう」
 冷蔵庫からペットボトルを出し、グラスに注いでくれる。受け取ったグラスのひやりとした表面が掌の熱を冷ます。
 彼も眠くないようだし、水を飲む間くらい話に付き合ってもらってもいいかな。彼の隣でシンクにもたれかかる。
「ねえ、稔実さん」
「なに?」
「稔実さんは俺たちが肝試しに行くのを止めたけど、あれって今日みたいに、『人でないもの』に絡まれるってわかってたから?」
「うん……、まあ」
「どうやって知ったの? 本人たちから何か聞いた?」
「そんなところ」
「その、見えるっていつから?」
「ずっとだよ。確かな記憶のある範囲ではずっと」
「……そっか」
「利都はあいつらに悪意を全く感じなかったって言ったよね」
「うん」
「事実、その通りなんだ。彼らは、知り合いである俺の知り合いが来たから、ただふざけて揶揄っただけだと思う。話しかけたのも、狐火を出して見せたのもそう。子供の悪戯みたいなものだから、どうか恐れないでほしい」
「怖くなかったよ、不思議なことに」
「そう。……ありがと」
 なぜそんなに真剣な顔で、彼が礼を言うのだろう。首をひねっていると、顎に指が伸びてきて上を向かされ、口づけられた。
「拒絶することも過剰な好奇心を持つこともなく、利都は自然に受け入れられるんだね。それって簡単なことじゃないよ」
「そうなの? だとしたら、きっと前に俺を助けてくれた白い犬だか狐だかのお陰かな。あれはこの世の生き物ではないんだろうけど、とても『良いもの』だったから」
「……そう」
 また唇が重なる。何度か、軽く触れあわせるだけのキス。耳朶を弄る指がこそばゆい。
「利都かわいい、好き」
「なんかいつも唐突」
「だってキスしたくなっちゃったんだもん。だめ?」
「いい……けど、あいつら起きてきたとき、覗かれるかも」
「ぐっすり寝てたっぽいから大丈夫……。ああ、でも落ち着かないか。上の俺の部屋、行く?」
 彼の部屋へ行ってどうするか。多分、先週居間でしたようなことをする。それもいい。キスは嫌いじゃないし、怖くない。

 二階にある稔実の部屋は八畳の畳敷きだった。大きな家具は勉強机と本棚のみでベッドがないため、実際より広く感じた。
 彼は部屋に入ってすぐエアコンをつけてから、押し入れを開く。
「布団敷くね。寝ながらちゅっちゅってしよ。いい気分で眠りにつけそう」
「えー、それってなんか……」
 ただ抱きあってキスするより性的な意味合いが強くなる気がする。
「利都がやなことはしないよ。約束する。嫌われたくないからね」
「……うん」
 むしろ、何をされても嫌だと思えなくなりそうだから怖いのだ。
 先週稔実は『今日はまだキスだけ』と言った。キスのその先も、恐らく彼は望んでいるのだろう。その先というのが何なのか、うっすらと察しはつくものの、具体的には上手く想像できない。求められたらどう答えよう。ああ、もう、こんなことを考えていたらますます目が冴えてしまう。
 布団は旅館の仲居さん並みに手際よく用意された。利都が手伝う隙さえない。
 天井照明から伸びた紐を引いて豆電球のみになると、ますます『そういう雰囲気』に思えてくる。敷いたばかりの布団に寝転び、向かい合う。橙色の仄かな明かりに照らされた小さな世界では、間近に迫った彼の笑みも、髪に伸びてきた指も、いつにも増して淫靡に感じる。
「まずはぎゅーってするね」
 包み込むようなハグ。彼の高い体温と匂い。どうしようもなく鼓動がうるさい。
「次はキスね」
 額、両頬、鼻の頭、耳元、それから唇へ、口づけが落ちる。いとも簡単に全てを委ねたい気持ちになるのを悟られたくなくて、可愛げのないことを口にしてしまう。
「……この前も思ったけど、やっぱり稔実さん、慣れてるよね。こういうこと」
「慣れてるってほどじゃ……」
「でも、初めてじゃないよね?」
「まあ、うん」
「小っちゃい頃、俺に一目惚れしたって言ったくせに。そうだよ。それにももやもやしてたんだ。どういうこと? 一目惚れしたのに他の人と付き合ったの? それとも、一目惚れっていうのは嘘?」
 彼の頬を軽くつねる。ドキドキしすぎて利都はこんなに困っているのだから、この人も少しは困ればいい。
 図った通り、彼は慌て出した。
「一目惚れは本当! その後君のこと見守っているうちにもっと好きになった。君と出会ってからは誰とも……、いや、これじゃおかしい? なんて説明すればいいんだろう」
「さては何か誤魔化そうとしてる?」
「違う。けど、なかなか話しづらいこともありまして……」
「俺はないのになー」
「ごめん」
 赦しを乞うように額に頬を擦りつけてくる。利都とて別に謝罪が欲しかったわけではない。少しだけ困らせたかっただけ。
「……いいよ。過去のこといちいち突っついてたら、どちらも不幸になりそうな気がする」
「今は利都だけだし、これからも利都だけ」
「これからのことも言っちゃっていいの?」
「うん」
 まるで誓いのような、丁寧な口づけ。
「再会する前から好きだったけど、こうやって一緒に過ごすことができるようになって、好きがもっと高まっていくのを感じる。利都が俺から離れてっちゃったら、祟っちゃうかも」
「……怖いこと言わないで」
「それくらい好きってこと」
 祟るほど、なんてどれほど深いのだろう。小さな頃に一度会ったことがあるとはいえ、利都が覚えていないということは、そう大きな出来事は起こっていないはず。その後何年も引きずるような恋心を生むきっかけになったとは、どうにも考えにくい。再会してから日も浅いし、どうしてそこまで好きになれるんだろう。
 利都に執着する理由がわからなくて、時々怖くなる。彼の得体が知れない部分が怖い。瞳の奥に引き摺り込まれて、二度と出てこられなくなるような、そんな錯覚。しかし、なんとも不可解なことに逃げる気など露ほども湧かないのだ。知らぬ間に囚われてしまっているのかもしれない。もうすでに。
「一緒にいればそのうちわかるかもよ」
 より強く抱きしめられ、繰り返されるキスは、そのうち深くなっていく。あったかくて柔らかくて気持ちよくて、大好き。

1 2 3 4 5 6