(2)文化祭

(ふじ)もこんな時間からご苦労なことで」
「嫌味のつもりかしら。夜通し遊んだ帰りに寄っただけだから、ちっとも苦労じゃありません」
「随分満喫してるんだね」
「あんたもじゃない。お楽しみの後の匂いがする」
「あの後風呂に入らなかったからかな。後で入る」
「ねえ、ところで、いいの?」
「ん……、そうだね。利都、そんなとこにいないで、入っといで」
 立ち聞きに気づかれていたようだ。後ろめたい思いで暖簾をくぐり、台所に顔を出す。
「……ごめん。入っていくタイミングがわかんなくて」
「こっちこそごめんなさいねー。お邪魔してます」
 椅子に座った女がにこやかに手を上げる。
 はっと息を呑む。そこにいたのは、雑誌やテレビの中でしかお目にかかれないレベルの美人だったから。二十代前半くらいか。華やかで色香のある大人の女だ。
 また胸の内にもやもやが溢れてくる。まさか、そんなわけない。稔実は利都のことをちゃんと好きだと言ってくれたのだ。でも、今は違っても、元カノという線はあるかも。だって、この女の人と並んでも遜色ないほど、彼は見栄えがする。逆を言えば、彼女くらいでないと、彼とは釣り合わない。
 稔実はコンロの火を止め、フライパンの中身を皿に移しながら言う。
「藤、もういいだろう。帰って寝たらどう」
「そんなに邪険にしないで頂戴。お目付役としては一応様子見に来なきゃいけないのよ」
「必要ないのに」
「駄目。あんたは変なとこ抜けてんだから」
「信用ないなあ」
「ま、帰るけどね。他の子が起きてくる前に」
「とっとと帰って」
「はいはい。最後に一つだけ。あんた、ちょっと屈みなさい」
「なんで?」
「やんなきゃ帰んないわよ」
「……わかったよ」
 彼は菜箸を置き、腰をかがめて背を低くする。女はその真横に立って、何事かを耳打ちする。親密な間柄でないと許されない行動。見せつけられているような気分だった。
 彼の頰に朱がさす。
「な……! まだだから! 昨日もあいつらそんなこと言ってたけど!」
「まあ、頑張んなさいな。……さて、と」
 こちらに目を向け、ウィンクを寄越す。
「じゃあね、利都くん。またそのうちこっちにも遊びに来てね」
「……」
 レッドカーペットの上の女優のようにひらひらと手を振り、彼女は部屋を出ていく。
 稔実はその背を一瞥しただけで、また作業に戻ってしまう。
「……見送りはいいの?」
「ほっとけばいいよ」
「でも」
 お客さんなのに。気になって廊下を覗くも、すでにその姿はない。ここから見える玄関は固く閉ざされていて、開いた音も聞こえなかった。
「藤は足が速いからね」
 そういう問題ではないと思うのだが。彼の適当な説明では納得しづらい。別の出口でもあるのだろうか。
 玄関と睨めっこする利都を、魅力的な誘い文句が引き戻す。
「出来立ての肉巻きおにぎりあるよ。食べる?」
「食べる」
 ちょうど腹が減っていた。彼は大皿に盛られたおにぎりの中から、二つを小皿に取り分ける。差し出されたそれからは、まだ湯気が出ていた。涎が出そう。なんて単純な自分。
「はい、どうぞ」
「……どうも」
 箸を出してくれ、さらに冷たい麦茶も入れてくれた。藤という訪問者が座っていた椅子に腰掛け、熱々おにぎりにかぶりつく。万人受けする甘辛い味付けで、上にかかっている白胡麻の風味もいい。
 聞いてもいないのに、稔実は説明し出す。
「実家の方でお世話になった人なんだ。母みたいな姉みたいな」
「ふうん。お目付役っていうのは……、海外にいるっていう稔実さんのお父さんお母さんから頼まれてってこと?」
「そう思ってくれて構わない」
 それなら突然家に来たことも、あんなに親密そうにしていたことも不自然ではない、か? いったんそれで止しとしておこう。
「あの人が遊びに来いって言ってたのは、稔実さんの実家にってことかな」
「だと思うよ。あいつに言われなくたって、そのうち連れてくつもりにしてるから。ちゃんと紹介させて」
「……うん」
 恋人として、ということ? 利都とのことは真剣だということを言いたいのだろう、多分。でも、できればもう少しだけ安心したい。
「一応、確認だけ」
「なんでしょう」
「元カノとかではないよね?」
「誰が? もしかして藤が?」
「うん」
「ない。絶対ない!」
 予想外に大きく否定された。
「そ、そう」
「ほんとにただの身内なんだ。身内で、大きな恩のある人、かな。それ以外ではありえない。天地神明に誓ってもいい」
「あんな美人だったからさ。ちょっと不安になっただけ。何もないならいいんだ」
「利都以外の子とこれまで全く何もなかったわけじゃないけど、昨日も言ったよね、今もこれからも利都だけだって」
「……うん」
 真摯に答えてくれたのが嬉しい。照れくさかったが、覚悟を決めて椅子から立つ。彼の肩を持って背伸びをし、利都からキスした。
「ありがと」
「……利都」
「ん?」
「りとぉー。かわいいー」
 感極まったのか、抱き寄せられてキスのお返しをされる。それも朝にしては重めのやつだ。止めることはできたけれど、気持ちよくて、うっとりと目を閉じ——かけている場合ではなかった。
「……!」
 台所と廊下の境で固まる友人二人と目が合う。起きてきたらしい。稔実を押しのけようとするも、思いのほか力が強い。背をばしばし叩いて、ようやく唇が離れる。
「ん? どうした?」
「あれ!」
 入り口の方を指す。彼は事前に知っていたかのように驚いた様子は見せず、平然としている。
「ああ、おはよう、二人とも。朝ご飯できてるよ」
「おう……、おはよう」
 こころなしか千田の表情が引きつっている。変なものを見せてごめんなさい。
 一方、羽島は冷やかす気満々のようだ。
「朝から熱烈だな」
「ラブラブだもーん」
「夜中に起きたとき居間にいなかったから、うわあ、やらしい!とは思ったんだが」
「そういうのを追求するのは野暮。察してくださーい」
「稔実さん、こういうのは上手く誤魔化して!」
「誤魔化す必要なくない?」
「ある!」
 やり取りを静観していた千田はなんとも辛辣だった。
「……バカップルめ」
 ごもっとも。

 十月頭の文化祭に向けて、その一週間前くらいから準備が本格的に慌ただしくなり始めた。
 その日の放課後、利都は千田と共に小道具づくりに励んでいた。今は粘土で作った手に色をつけていく作業をしており、足元の新聞紙の上には、作りかけの「呪いに苦しむ人の手」が十本ほど並んでいる。羽島はといえば、文化祭リーダーらしく、あちこち見て回って指示を出しているようだ。
 ベースの色を塗った上に赤い絵の具を慎重に垂らしながら、千田は問う。
「今日大川くんは?」
「B組の準備。今日の分が終わり次第こっちに来るって」
「はっしーが幽霊人形の出来のアドバイス貰いたいって言ってたからさ」
「喫茶の方が事前にやる準備は少なそうだし、今日じゃなくてもそのうち頼めるんじゃない?」
 見てアドバイスするくらいなら、大して時間も取らせないだろうし、引き受けてくれるだろう。一から作れと言えば断られるだろうが。
 利都が仕上げたものの横に、千田も塗り立ての手を置く。
「あれ、本当なのか? 大川くんが見える人だっていうの」
「多分。本人がそう言ってるし」
「大川くんって、結構謎が多い人だよな。この間、引っ越し前にどこ住んでたのか聞いたら、『本家は京都』だって。質問に答えてるようで答えてないんだよ。誰も本家の話はしてない」
「そういえば俺も知らないな」
 あんまりそういう話になったことないのだ。引っ越し前にどんな街でどんな友達とどんな高校に通っていたか、彼は話してくれたことがない。考えてみれば不自然なようにも思う。出て当たり前の話題なのに。意図的にその話になるのを避けてでもいるみたいだ。
「利都もなの? 知られたくない理由でもあんのかね。黒歴史的な」
「さあ……」
 確かに稔実は謎の多い人かもしれない。他には例えば。
「そういえばさ、稔実さんの家にいつ行っても、家の人がいたことないんだよね」
「そうなのか? ああ、泊まりに行ったときもいなかったな」
「うん。平日も土日もいないんだ。いったいいつ休んでるんだろ」
「いくら忙しいって言っても毎度毎度じゃ不自然だよなあ」
 そう、不自然。絶対におかしいとは言えないけれど、不自然。
 他にもある。些細なことだが、夏祭りで出会ったとき、稔実のことは二十歳過ぎの大学生だと思った。しかし、次に学校で再会したときは高校生に見えた。夏祭りの時は浴衣で大人っぽく見えただけかもしれないが、ずっと心のどこかで引っかかっている。
 極端に肉ばかりを食べるところも不思議だ。学校という噂の広がりやすい場所で、男と付き合っているのを簡単にカミングアウトしてしまったのも、小さい頃に一度話しただけの利都を未だに好きでいるのも。
 彼からは秘密の匂いがする。たくさんの不思議の背後には、きっと大きな秘密がある。——勘でしかないが。
 作業状況をチェックしに来た羽島に、稔実の謎について、話せることだけ話してみる。
「これは調べてみるしかねえな!」
「調べるって?」
「家の近所の人に聞けば、じいちゃんばあちゃんのことは知ってるんじゃね? 何の仕事してて、どうして全然家にいないのか聞けるかも。引っ越し前のことは……、家の前で張って、帰ってきたじいちゃんばあちゃんに聞くとか?」
「いい案だとは思うけど……、勝手に調べ回ってたら、稔実さんが気を悪くするかも」
「でも、気になりすぎるだろ。俺が思うに——」
 独自の推理を語り始めようとする羽島を、千田がストップをかける。
「はいはい、そこまで。まあ、調べるなら文化祭が終わってからだな。やることが山積みすぎる」
「そうだそうだ、そうだった。大川くんに夢中になってる場合じゃなかった。やるぞー!」
 お化け屋敷の完成はまだまだ遠い。

 こそこそ調べ回るより、本人に直接聞いた方がいいに決まっているのだ。それなのに、聞きづらいのはなぜだろう。おそらく、利都が立ち入るべきではない場所に立ち入ってしまうのが怖いからだ。特に家庭の事情に関しては。
 利都の家庭は『普通』には当てはまらない。母親が二人で父親はいない。それを恥ずべきことだと思ったことはないが、理解されないことも往々にあるため、積極的に誰かに話そうとは思わない。稔実にも、何かそういった、人には言いづらい事情があるとしたら、聞かずにそっとしておいた方がいい。
 引っ越し前の住まいに関する諸々の謎についても、その話題にならないよう気をつけていたり、聞かれてはぐらかしたりするのなら、それもまたそっとしておいた方がいいように思う。口にしたくないほど嫌な思い出があるのかも。
 その他の謎は、わざわざ改めて問うほどのことでもなく、尋ねる機会を見失ってしまっている。
 無邪気で明るく見えるが、人には言えない秘密が多くあるということは、案外影のある人なのかもしれない。その影の部分に謎の答えがある気がする。
 人間、裏表があって当然だ。裏にある影を見せてもらえるようになるには、きっと時間がかかるだろう。心の扉は無理にこじ開けようとしても開かない。知りたいけれど、我慢。扉の中に招き入れてもらえるまで、待つしかないのだ。そのためにできることは——、二人の時間を大切にして、信頼関係を築くこと、か? それくらいしか思いつかない。

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