(4)君の指輪とホットケーキ

「……え、うそだろ?」
 師走に入り、世間もすっかり年末モードになってきた今日この頃。亨の作業部屋で、楓は深まる寒さを吹き飛ばす衝撃的な物を発見してしまった。
 そもそもなぜこの部屋に入ったのだったか。そう、ハサミだ、ハサミ。アルバイト終わり、いつものように亨宅へ帰ってきてすぐ、明日は紙ゴミの日だと思い出し、新聞をまとめる作業に取りかかった。まとめるのに使った紐を切るため、ハサミが必要だったのだが、リビングには見当たらず、亨の作業部屋まで借りに行った。そこで見てしまったのだ。デスクに無造作に置かれていた、とある冊子を。
 表紙の写真の中で踊る、大きさ違いの二つの指輪、デパート一階に入っているようなジュエリーブランドのロゴと、bridalとかmarriageとかengageとかという単語。まじまじと凝視する。
 ——指輪……、marriage……。
「なんだよ、これ……」
 可能性としては、仕事の資料ということも考えられる。彼は女性向けのキラキラした商品を作っているらしいから、ジャンルは違えど関係がある気がしないでもない。しかし、恋人のいるアラサー男がこんなものを持っていることに対して、もっと自然な理由がある。
「……結婚?」
 声に出してみるとより衝撃が大きく、その場で棒立ちになる。
 番になるという約束はした。確かにした。だが、結婚のことなど、今まで彼から聞いたことはない。
 近年、番関係は法的に結婚と同等の力を持つようになったので、そういう点では番関係=結婚ではある。だが、一対一で完結する番関係と、第三者である役所に書類を提出しなければ成立しない結婚とは、やはり違うと思うのだ。感覚としては、誓いを立てる先が違う。相手に誓うのが前者、神であれ式の列席者であれ、自分たち以外の誰かに誓うのが後者。
 亨は結婚の方を望んでいるのか? それとも両方?
「あいつ、ミコちゃんと慶人に影響されやがったのか?」
 実琴と慶人が結婚式を挙げたのが先月のことだ。彼らは三年前に番になっていたものの、結婚はまだだった。実琴の両親はどちらもベータであるため、一人息子の相手が男性であることに抵抗があり、長く反対されていたという。だが、地道な説得が実り、今年に入って結婚を許可された。
 太陽の光の下でフラワーシャワーを浴びる二人はとても眩しくて、常日頃から世話になっている彼らの幸せそうな姿を見ていると、楓も温かい気持ちになった。
 正直、楓だってうらやましいとは思った。思ったが、まず、約束している番関係の方が先だろう。手続きさえ取れば何度でも変更可能な結婚より、一生繋がりが切れることのない番関係の方が、はるかに魅力的だ。とはいえ、番関係について何の不安もないわけではないのだが。
 最近、というか先月、番になることについて具体的に意識し始める出来事があった。事の発端は実琴の言葉だった。

 先月の結婚式、披露宴の後の二次会でのことだ。実琴と二人で話す時間があり、そのとき言われたのだ。
「楓は番になること、考えてないの? 結婚はまだにしてもさ」
「卒業してからいずれは、とは思ってるけど……」
 以前は番関係に何のメリットも感じていなかったが、いつの頃からか、番になって寄り添いあいながら生きる未来を漠然と思い描くようになっていた。しかし、それは全く具体的ではなく、ぼんやりと「そうなるんだろうな」と考える程度だった。
 大学四年生の十一月。就職先は実琴のいる江野玩具に決まっているので、就職活動はすでに終わり、今は卒業論文に追われている。目下の関心事は卒論のことだけで、番を持つことなど頭の隅の隅に追いやられていた。この日実琴に言われるまで。
「じゃあ、今これからがチャンスなんじゃない? 就職しちゃったらまとめて休み取るの、難しくなるよ。アルファは最低三日の休みでいいけど、オメガは一週間くらい必要なんだ。それもいつでもいいってわけじゃなくて、発情期予定日に合わせないといけないでしょ?」
「……今これから? 今……、今?」
「正確には、卒論提出して卒業が確定してから就職するまでの間かな。いや、いいんだよ。君たちのペースで。僕らの場合は二人とも社会人になった後だったから、なかなか休むの大変でさ。経験者としてのアドバイスってだけだよ」
「うん……、ありがと。ちょっと考えてみる」
「今のうちから二人で相談しておくといいよ。番になろうって言ってすぐになれるものじゃないから」
「そうだね」
 そう返事はしたものの——、もうあれから一ヶ月経つが、いまだ亨には切り出せていなかった。
 何と言っていいかわからないので、後回しにしているうち、時間が経ってしまった、というのは表向き。実のところはまた発情期が来るのが怖いのだ。
 番関係を結ぶことができるのは発情期中だけだ。以前予期せず発情期になってしまったときは、心身が欲に支配され、完全に理性を見失ってしまった。自分が自分でなってしまうのは、とても恐ろしい。情けないと自分でも思うが、怖いものは怖いのだ。
 自分を安心させてくれる情報を求め、色々とネットで検索してみた。その中で、番関係の成立させ方についての基礎には詳しくなった。健康を害さないよう、安全に番関係になるには、いろいろと準備がいる。
 まずは、掛かりつけのオメガ専門クリニックで相談する。自分たちの判断だけで行ってしまうと、最悪の場合オメガが外で発情期になってしまうかもしれず、無関係のアルファに襲われる危険があるのだ。
 クリニックでは最初に検査を受け、発情期予定日を正確に予測してもらう。番になるために来させる発情期予定日が確定したら、直近の月一の注射をやめる。発情抑制剤は一ヶ月に一回の注射と、発情期予定期間中の錠剤の服用でセットだが、やめるのはまず注射の方だ。
 発情期予定日の一日前からオメガは外出禁止。予定日はずれることがあるから。発情期の兆候があれば、それより前でも外出禁止。
 発情期予定日。アルファはここから仕事を休む。オメガの発情期が早まった場合、可能な限り合わせる。妊娠を望まない場合、オメガは事前に避妊薬を服用しておく。これも医師と要相談。スキンをつける余裕はないし、つけたとしても精液量が増えるため役に立たないことが多い。
 発情期の最中、アルファがオメガの首筋にある臭腺のあたりを噛むことで、番が成立。その後、落ち着いたらオメガは緊急発情抑制剤を注射。注射をしないと、二人とも五日から一週間部屋にこもりきりになるため、ろくに食事も出来ない。オメガの発情期が終わるとアルファも終わる。アルファの発情期はオメガに誘発されて起こるものだから。
 一日様子を見て、その翌日からアルファは外出可。オメガは最低二日は様子を見る。調子が悪い場合は休みを伸ばす。無理は禁物。……とこんなところか。
 元はといえば安心するために検索し始めたのだが、逆に不安要素を見つけてしまう。
 例えば、落ち着いたら緊急発情抑制剤を注射、とさらっと書かれている箇所。そんなに上手くいくものか? 我を忘れて交わって、疲れたら寝落ちして、起きたらまた……、とエンドレスになって、注射する隙なんてなさそうだ。身近にいる経験者に聞けばいいのだが、気恥ずかしくてできない。
 それに、発情期になったアルファは噛み跡をつけるための牙が伸びるという話もある。痛そうで嫌だ。毎月の注射だって痛くて億劫なのに。前回はどうだったんだろう。牙なんて伸びていたっけ。覚えていない。
 そういえば、前回なぜ楓は噛まれなかったのだろう。発情期のアルファの性衝動は、オメガを噛んで自分のものにしたいという欲求と密接に結びついているらしい。お互い申し訳ない思いになるので、あの時の話はあまりしたことがなく、理由はよく知らない。
 もうそんな面倒なことをしてまで番になる必要があるのか、とさえ思えてくる。しかし、一対一の堅い結びつきを求めるのは本能的なもので、番などいらない、今の関係のままで充分だと思い込もうとしても、考えれば考えるほど繋がりたい欲求が強くなる。結局どうすればいいのかと言えば、自分が腹をくくるしかないのだが。
「……一人で悩んでたって仕方ないよなあ」
 聞いてみよう。それから相談しよう。番になるにしろ、結婚するにしろ、話をしなければ始まらない。

 亨はいつもの時間に帰宅して、ともに夕飯を取る。なかなか切り出せないまま食べ終わり、キッチンの片付けも済んでしまった。
 さて次は風呂かというときに、亨の母親の時子氏から電話がかかってきた。漏れ聞こえてきたところによると、また嫁の愚痴のようだった。長くなることもあるが、今日は五分で終わったようだ。
 引き延ばしても仕方ない。聞くと決めたからには聞かなければ、と自分を奮い立たせる。今だ。今聞こう。楓から強い視線を向けられ、亨は遠慮がちに尋ねる。
「えっと……、風呂、先行く?」
「お前、ちょっとそっちに座れ」
「なに?」
「いいからとりあえず座れ」
「……はーい」
 リビングのカーペットの上に向かい合って座る。この冬からホットカーペットを導入したので暖かい。 亨はなぜか正座して畏まっていた。
「どうしたんですか」
「俺、見ちゃったんだけど」
「何をですか」
「なんで敬語なんだよ」
「だってまたなんか怒ってんだろ」
「は? 怒ってねえよ。てか、またってなんだよ。俺がしょっちゅう怒ってるみたいじゃん」
「程度の差はあれ、よく怒ってる。今日は口数少ないし難しい顔してるし、匂いがピリピリしてるし、これはまたなんかあるなって思って」
 確かに緊張して黙り込むことがあったかもしれないが、それはいつ話そうかタイミングを見計らっていたからで、断じて怒っているからではない。
「違う。聞きたいことがあって……」
「夕飯の間中引っ張るくらい言い出しにくいこと? 怖い、怖い怖い」
 大げさに肩を縮める仕草をされ、ついカチンとくる。
「お前なあ、怒られるようなこと何かやってんのか!」
「心当たりはないよ。なんで怒られるのかわかんないから、余計に怖い」
「だから、怒ってねえっつってんだろ!」
「お願いだから落ち着いて」
「お前のせいだ!」
 思わず立ち上がりかけたが、手で制せられる。
「まあまあ。で、なんでしょう?」
「だから……、お前はけっ……したいと思ってんのかってことで……」
「え? なんて?」
「見ちゃったんだよ! お前の部屋のデスクに置いてあったやつ……。中まで見てないぞ。でも、表紙見たらだいたいわかるだろ。あれ仕事の?」
 楓としては相当勇気を振り絞って言った。だが、反応は意外なほどあっさりしていた。
「ああ、あれ? いや、仕事じゃなくて個人的なやつ。マリッジリングのカタログ、何冊かもらってきた。参考にしようかと思ってさ」
「参考って何のだよ」
「大学の同期でジュエリー職人やってるやつがいるんだ。どうせならそいつに頼んでオリジナルを作ってもらおうと思って、オーダーの参考に。でもさあ、会社につけていくとなったら、どうしてもシンプルなデザインになるし、それなら既製品買ってもいいのかな、とも思ったり」
 仕事の進捗状況でも話すようにさらっと説明されたが、どれもこれも初耳だ。要は指輪を作るつもりらしい。
「指輪って、それはその……、あの、けっ……こん指輪的な?」
「そこまでは考えてなかったけど」
「ないのかよ!」
「ペアリングくらいあってもいいかなって」
 ペアリング、一気に受け入れやすい言葉になった。お揃いの指輪を付ける恋人同士なんてめずらしくない。楓の理解が追いつく範囲に充分収まる。後ろに両手をついて息を吐く。
「ただのペアリングか。びっくりさせるんじゃねえよ。あんなの置いてあるの見たら、もしかしてって思うだろ」

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