(4)君の指輪とホットケーキ

 亨とクリニックに行って相談し、次の発情期予定日は近すぎて間に合わないから、その次の三月頭にしようということに決まった。
 楓は予定日が前倒しになることが多いので、予定日より前に一日余分に休みを取ってもらえるよう亨には頼んだ。余分に休む一日+発情期二日間+抑制剤を打った後様子を見る一日、の計四日間だ。運良く土日がかぶったが平日にもかかるので、親戚の法事と恩人の結婚式のコンボを使い、休みをもぎ取ったらしい。楓は社長にそのままの理由を話してアルバイトの休みをもらったが、一般的に会社員がごくごく個人的な理由で休むのは難しいようだ。当然と言えば当然か。
 実琴とは職場で毎日会うので、番になる決心が付いてからは、いろいろと話を聞いてもらっている。
「月一の注射をやめてるんだから、緊急抑制剤、ちゃんと持ち歩かなきゃ駄目だよ。それから、寝るときは枕元に置いておいてね」
「うん。先生にも口酸っぱくして言われたからやってる」
 月一の注射を忘れ、うっかり外で発情期になってしまった過去もあるし、面倒がらずに実行している。
 発情期中に緊急抑制剤をちゃんと打てるか不安だということは医師に相談した。発情の強さには波があり、穏やかになる時間帯は必ず来るから心配ないということだった。そういえば前回、亨は実琴に連絡して抑制剤を持ってきてもらう余裕はあったわけだから、きっと今回も何とかなる、そう思うことにした。
「ああ、あと防水シーツは用意してる? 普通のシーツで発情期過ごすと、マットレス使い物にならなくなるよ」
 よほど楓のことが気掛かりらしい、実琴はいろいろとアドバイスをくれる。楓の母も姉もオメガだが、番がおらず発情期になったこともないので、経験者の話が聞けるのは素直にありがたい。
「そんな水浸しになるの?」
「なる。想像以上の量。もうぐっちゃぐちゃ。僕は慶人のお母さんに言われて買っといたんだ」
「慶人の親も番だったっけ」
「うん、そう。いろいろ教えてもらうよ」
「量がすごかったのは何となく覚えてる。前はマットレスどうしたんだろ。買い換えたんかな。あれからしばらくあいつのとこ行かなかったからわかんないや」
「あの時はまさかこんな日が来るとは思ってなかったねえ」
「そりゃあね」
 あの時は実琴をいじめたにっくき敵だと認識していたのだから。それが今やペアリングのデザインを話し合う仲である。世の中何が起こるかわからない。
 実琴のつけたあめ左衛門パペットの頭をつついてやると、大きく開いた口で指にかぶりつかれた。
「うわあ、やられた」
「でも、良かった。伊崎くんがいい人で。楓がすごく大事にされてるの、わかるもの。結局そういう人に望まれて一緒になるのが一番幸せなんだって」
「そうかな。うん、そうだよな。母さんも喜んでくれてた」
「挨拶に行ったんだっけ?」
「先々週ね。あいつ、うちにちょこちょこ顔出して仲良くなってたから、終始和やかムード。姉ちゃんも、私より先に嫁に行くなんて、とかなんとか言いながら認めてくれてる感じ」
「よかったねえ。伊崎くんのご両親は……」
「報告しないって亨は言ってる。事前に言って邪魔しに来たら怖いからって」
「それも仕方ないのかもね。お兄さん、なかなか強烈な人みたいだから」
「元ストーカーのエキセントリック馬鹿息子だろ。あの家、父ちゃんも母ちゃんも、忘れちゃいけない兄ちゃんの嫁も、皆どっかおかしい、というか、俺の常識から外れすぎてて怖い。俺も正直、あんまり関わりたくない」
 しかも、亨の実家は現在ものすごく険悪な状態なのだ。一昨年、エキセントリック馬鹿息子が父親の秘書を番にし、その後結婚した。その兄嫁が父親の元愛人だったことがきっかけで、母対兄嫁の争いが勃発、未だ収まる気配がないらしい。亨は極力関わり合いにならないスタンスだ。
 だが、本当にそれでのいいだろうか、とも思う。番関係を結ぶのに、当人以外の誰の同意も必要だとは思わないが、せめて事後報告ぐらいはしたほうがいいと、個人的には思う。関わり合いたくないと言いながら、時々かかってくる母親からの電話にはきっちり出るので、完全に縁を切りたがっているようには思えないのだ。しかし、楓が口を出すべきことなのかという迷いがあり、言えずにいる。
 飾り棚に結婚式の時の写真を見つけ、話題を移す。
「ミコちゃんはどうなの? 新婚生活は順調?」
「長いこと一緒に住んでるから、日々の生活自体はあんまり変わんないんだけどね。これから変わるかなってところ」
 意味ありげな笑みを浮かべる実琴は、パペットでそっと自分の腹を撫でる。
「もしかして……」
「発情期予定日が近づいても、何の兆候もないからさ。調べてみたら陽性。一昨日クリニックに行ったとき、おめでとうございますって言われた」
 そうだ、結婚するとはそういうことだ。いつ子供が出来てもおかしくないということだ。子供を望まない夫婦も多いだろうが、彼らはそうじゃない。
 心なしか、あめ左衛門も嬉しそうだ。
「わあ、やったじゃん! そっか、ミコちゃんがお母さんか。すごい。なんかすごい。おめでとう!」
「ありがと。まだ全然実感ないんだけどね。僕、早めに産休に入るかもしれないから、頑張ってよ、新入社員さん」
 江野玩具人気ナンバー2のあめ左衛門に肩を叩かれる。
「……あ、そうだよな。職場からミコちゃんいなくなるんだ」
 産休とはいつからなのかは知らないが、アルバイトを始めたときから世話になっている実琴を頼れなくなるのは心細い。
「また復帰はするよ。楓はもうほとんど仕事覚えてるから平気でしょ」
「就職決まってから任せてもらえる仕事は増えたけど、でも、まだまだわかんないことある。ミコちゃんが安心して休めるように、もっとしっかりしないと」
「そうそう。その意気」
 ガッツポーズをしてから、実琴はパペットを外して、楓の手にはめる。そして、軽快な足取りで、鍋の様子を見にキッチンへ向かった。
 いろいろなことが変わっていく。大変なこともあるだろうが、おそらく良い方に流れていくのだと、今はそう信じられた。

 発情期予定日二日前。木曜日。
 外出禁止期間は明日からだが、身体をいたわって早めに休みに入った方がいいと社長夫人が言ってくれたので、休ませてもらった。自分は多方面から甘やかされ、ぬくぬく生きているのだという自覚はある。
 朝一で体温を測ったところ、上がっていない。発情期直前は体温が上がる。その他の、身体がだるいとか熱っぽいとか顔がほてってくるとかいう兆候はまだないから、今日はおそらく来ないだろう。二年前のように何の兆候もなく突然来ることもあるが、あれは例外中の例外。普通は数日から半日くらい前までに何らかの兆候があってから発情期に入る。それに、今回は検査を受けた上で医師に算出してもらった予定日なので、そうそうずれることもないだろう。
 もうすぐなのだと思うと、そわそわして昨日はよく眠れなかった。出勤する亨を見送るために玄関まで出てきたのはいいものの、あくびを連発する。心配させてしまったのか、彼は顔を覗き込んでくる。
「調子悪いなら寝とけば?」
「眠いだけだから大丈夫。どうせ大してやることないし、昼寝でもする」
「ならいいけど」
「今日はたぶん来ないと思うから、心配ないぞ」
「わかった。くれぐれも無理すんなよ」
 軽くキスした後、手を振って送り出す。明日か明後日には番になっているかもしれない。そう考えるととても不思議で、なんだかどきどきする。
 鼻歌を歌いながらリビングに戻る。さて、何から片付けよう。まずは買い込んでおいた材料で夕飯の仕込みだ。それから、発情期中や発情期明けに簡単に食べられる食料品ストックの確認、ベッドサイドに置かれた緊急抑制剤とペットボトルの水の確認。防水シーツは昨日からセット済みだ。前回はどうだったのか亨に聞いてみたが、やはりあの後マットレスは入れ替えたようだ。問われるまでわざわざ言わないのが彼らしいと言えば彼らしい。
 お次はベランダに出て洗濯物干し。じっとしていられなくて掃除もした。これで午前中が終わる。
 昼ご飯にチャーハンを作って食べ、片付け終わった後は、もうやることがない。暇なので、テレビゲームでもすることにした。面白そうな中古ソフトを見つけて買ったはいいものの、ずっとやらずに放置していたのだ。
 しばらく熱中していたが、スマホが通知音を鳴らして手を止める。亨からのメッセージだ。
『大丈夫そう?』
『大丈夫。異状なし。』
『残業してきていい? 明日から休みだから、色々やることが多くて。』
『どうぞ。今日は来ないだろ。』
『わかった。』
『がんばれ。』
 スマホを置く。ゲーム中に猫背になっていたせいか腰が痛い。疲れを感じてソファに横になると眠気がじわじわとやってくる。そのまま寝入ってしまった。
 目を覚ましたのは暑かったからだ。すでにだいぶ日が陰ってきており、部屋が暗い。明かりをつけよう。起き上がろうとすると、身体が重い。暑い、というか熱い。風呂上がりのようにほてっている。これはもしや……。
 違ってくれと念じながら、体温を測ってみる。上がっている。まずい。これは非常にまずい。
 落ち着け。気を動転させて良いことなんてない。まず部屋の明かりをつけて、それから——。
「そうだ!」
 ベランダに干してある洗濯物を取り込みに走る。発情期で動けなくなれば、ずっとそのまま干しっぱなしなってしまうからだ。洗濯物をたたんで仕舞って……、とこんなことをしている場合ではなかった。
 亨に電話するも、通じない。仕方なくメッセージを送っておく。
『やばいっぽい。急に来た。連絡ちょうだい。』
 仕事中はなかなかスマホが見られない状況もあるらしい。気づいてもらえるだろうか。まだ兆候が出てきただけだが、本格的に発情期に入るまで、あとどれくらい時間があるのだろう。まだ時間はある、はず。気合いで発情期を遠ざけてやる。来ないと思えば来ない。
 気を紛らわせようと、ゲームの続きをすることにした。だが、集中できず、すぐに負けてしまう。
「うわあ、もう……」
 直前でセーブするのを忘れていたから、かなり戻る羽目になる。面倒になって、別のことをすることにした。
 ネットの動画配信サービスの番組をテレビに飛ばして見る。性欲が減退しそうなので、あえて苦手なホラー映画を選ぶ。しかし、動悸が激しくなるわ気分が悪くなるわで、完全に裏目に出てしまう。
 子供向けのアニメはどうだろう。性欲の対極にあるものだし、心臓に悪そうなものも出てこない。適当に再生してみるが、つまらなさすぎて気を紛らわす効果は一切なかった。
 そうこうしている間にも、どんどん下半身に熱が溜まってくる。腹の奥が疼いて苦しい。いっそ自分でなだめてしまいたいが、一度すると歯止めが利かなくなって余計に苦しいらしい。この熱は腹の奥でアルファの精を受けないと止まらないという。残業してきていいなどと言った、数時間前の自分を恨みたい。
「一応勃ってはくるんだよな……」
 使わないのに、と考えて少しむなしくなる。
 発情期がアルファとオメガの子作り期間だとすれば、妊娠できないアルファ男にオメガがこれを突っ込むことなんてないはず。相手がアルファ女の場合に必要なのか? いや、でも、アルファ女も突っ込むものを持っている。その場合はどちらがするのだろう。アルファ女とオメガ男の場合、オメガ男の方が妊娠率が高いと聞いたことがある。オメガはとにかく出来やすい。ということは、突っ込むのはアルファ女? それで妊娠したとしたら、父親が女で母親が男になる。ややこしすぎる。
 ……とまあ、余計なことを考えても、あまり熱を下げる効果はない。水風呂にでも入るか? いや、夏ではないのだから風邪を引く。

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