(4)君の指輪とホットケーキ

 もう一度電話をかけてみる。出ない。リダイアルを繰り返すが出ない。
「どうしよう……」
 無意識のうちにズボンの前に手が伸びかけ、引っ込める。駄目だ。触ってはいけない。自分の頬を張って言い聞かせる。
 ふと思い立って、寝室から掛け布団を引っ張って持ってくる。包まると、亨の匂いがして少し安心した。
 でも、それだけでは足りなくて、亨のクローゼットをあさり始める。洗剤や防虫剤のにおいが強いものはよけて、気に入った服を持って行き、今着ている服の上から袖を通したり、包まったりする。まだ足りない。もっともっとと運び出しているうち、部屋は泥棒に入られたように荒れたが、後片づけが大変だとか、しわくちゃになるとか、今はそんなことどうでもいい。本物に抱きしめられたい。抱きしめて、早く奥までほしい。
 そのとき、救いの声のように電話の着信音が鳴った。急いで取る。
『もしもし、先輩? 今いけます? 次の日曜日のことなんですけど』
 声の主は求めていた男ではなく、やたらめったらテンションの高い藤谷だった。どうせまた桜に関する恋愛相談だろう。くだらない。普段なら聞いてやっているが、今は間が悪すぎる。
 頭にカッと血が上る。
「うるさい! 紛らわしいんだよ! 二度と架けてくんな!」
 腹の底から怒鳴って切る。その後、メッセージが来たが無視をした。
 苦しくて涙がにじむ。布団と服に埋もれて、ひたすら耐えるしかない。もう緊急抑制剤を打ってしまおうか。でも、せっかくここまで二人で準備してきたのに。
 不安に押しつぶされそうになりながら、このリビングで亨を待ったことは、これが初めてではない。確か以前にもあった。ただ、以前と違うのは、格段に状況が切迫しているということだ。

 どれくらい時間が経っただろう。もう時計を確認するのも億劫だった。体内で膨張を続ける行き場のない熱が、正常な思考と体力を奪い去っていく。したい。早くしたい。それしか考えられない。
 これはもうただの兆候ではないだろう。発情期に入ってしまったのだ。しかし、助けてくれるはずの男はここにいない。
「何やってんだよ、バカ……。役立たず」
 荒い息をこぼしながら、恨み言をつぶやく。それに答えるかのように、着信音が鳴った。また藤谷だろうか。手を伸ばしてスマホを取り上げ、確認する。画面に表示された名前は亨だ。
「やった……!」
 慌てて応答しようとするも、汗で湿った手が滑り、スマホを床に落としてしまう。すぐさま拾うが、切れてしまっていた。
「どうしよう、どうしよう……」
 もうまともに頭が働かず、狼狽えるばかり。また泣けてくる。スマホを握りしめながら鼻をすすっていると、幸いなことにすぐ二度目の着信があった。今度はちゃんと出られる。
『楓、ごめん。電話もメールもくれてたのに。どうした?』
「……」
 何も言葉が出ず、嗚咽が漏れるだけだ。今すぐ帰ってきて、と言いたいのに。
『……まさかもう来たのか?』
 メッセージに書いただろう。読んでいないのか。通知だけ見て架けてきた? 楓がこれだけ助けを求めているのに、なぜ見ていない。なぜ気づいてくれなかった? こんな状態の楓を放って、いったい全体どこで何をしている?
「どこだよ! どこ、なあ、どこ!?」
『まだ会社。これから帰る。あと三十分くらいで』
「迎えに行く」
『やめろ。絶対に外には出るな!』
「だってもう待てない! 五分だって待てない!」
『泉田呼ぶか?』
「なんだよ、ミコちゃんとやれってこと!?」
『違う! ああ、もうお願いだからおとなしく待ってて。三十分だから』
 電話が切れる。一人の部屋の静寂が、孤独感をさらに煽る。
 ぐずぐず泣きながら、幾重にも包まったままで玄関に移動する。ここで待つつもりで冷たい床に座り込む。頻繁にスマホで時間を確認するも、遅々として進まない。
 約束の時間まで、あと二十分……、十分……、五分……、三分……、一分。もうそろそろ三十分。ようやく三十分。しかし、まだドアは開かない。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき!」
 包まっていた服を四方八方に投げ散らかす。無くなると寂しくて、またそれをかき集めると、抱きしめて匂いを嗅いだ。
「……あ」
 着信音が再び亨からの電話を知らせる。おそらく、もうすぐ帰るという内容だろう。そうに決まっている。だって、確かに三十分で帰ると言っていたのだから。
 震える指で出る。
『ごめん。人身事故で電車が——』
 皆まで聞かず、返事もせず、壁に思い切りスマホを投げつける。壊れたって知るものか。
「ひどい、ひどい」
 熱い、熱い、熱い、苦しい。涙が止まらない。
 纏った衣類を引きずって、寝室へ這っていく。ベッドサイドの緊急抑制剤——、透明なパッケージに入った、薬剤入りの注射器。手に取ってまじまじと見つめる。
 打ってしまおう。そうすれば楽になれる。こんなにつらいのなら、もう番になんてならなくていい。——本当に? ここまで耐えたのに?
「……あれ?」
 視界がかすみ、ふっと意識が遠のく。そのとき思った。——助かった。これで打たなくて済む。

「……楓、楓!」
 ぺちぺちと頬を叩かれる。求めていた匂いに包まれ、心から安堵して目を開ける。マスクを付けた亨が、楓を抱き起こしている。
「待たせてごめん。ほんとに……。今打ってやるから」
 亨は楓をそっとベッドに寝かせる。枕に顔を半分うずめながらぼんやりと見ていると、彼は楓がずっと握りしめていたはずの抑制剤を手にしていて、封を切ろうとしている。何を考えている。全てを台無しにする気か。重い身体を無理やり起こす。
「やめろ。打たなくていい」
 抑制剤をひったくって床に投げる。こんなもの必要ない。熱を鎮めてくれるはずの存在が、今は目の前にいるのに。しかし、亨は首を振る。
「でも、もう限界だろ。気を失うほどだなんて……。もういいよ、番とか。今までと同じで充分——」
「お前がもういいとか言うな! 何のために俺が頑張ったと思ってんだよ……。こんなもんはずせ」
 膝立ちになると、亨のマスクを奪い、これも床に落とす。発情期が誘発されることを防ぐ目的で付けていたのであろうが、必要のないものだ。
 一瞬にして匂いの質が変わったのが、はっきりわかった。濃くて、甘ったるくて、いやらしくて、最高に美味しそうな匂い。彼も同じような匂いを感じているのだろうか。
「マスクしてても、家中にすごい匂いが充満してるのはわかったけど、これは……」
「早く抱け、バカ」
 両手で頬を挟み込んで強引に引き寄せ、キスをする。拒否などされるはずもない。フェロモンの力は絶対だ。
 やっと、やっとだ。やっと中に入れてもらえる。
 いそいそと服を脱ごうとするも、無理に着込んだ服からなかなか腕が抜けない。焦るので余計にだ。癇癪を起こしそうになる。
「なんだよ、もう!」
「じっとしてろよ。取ってやるから」
「とっとと自分の脱げよ!」
「もう脱いだ」
「……」
 見慣れたはずの裸体を目にすると、さらに熱が上がる。もどかしくて泣けてくる。早くほしいのに。
 結局助けを求める。
「とって、とって」
「うん」
 一枚一枚脱がされ、少しずつ肌が露わになっていくのを見られている、というこの状況にも、過敏になった肌を指がかすめるのにも、いちいち興奮した。
 ようやく服から解放される。自分からベッドに押し倒し、腹の上に乗って下肢をこすりつける。挟まれて硬さを増すものの形まで、はっきりと感じられた。亨はしばらくされるがままになっていた。
「はしたなくて最高だね」
「とーぜん……」
「これはこれでいいんだけど、位置逆でもいい? これじゃ噛むとき首に届きづらい……」
「何でもいい。早く」
 腹の上からどかされ、組み敷かれる体勢になる。
 だらしなく足を広げて誘うと、手が尻に伸びてくる。穴に潜り込んできたのは指——。
「もう太ももまで垂れてきてるし、めっちゃやわっこくなってる」
「それじゃなくて……。やだ、やだぁ」
 焦れて両足をばたつかせる。すぐに襲いかかってこないなんて、ずいぶんと余裕ではないか。目眩がしそうなほど強い匂いをさせているくせに。
「わかってる」
 彼は指を抜いて、あやすように楓の頭をくしゃくしゃと撫で、髪に口付ける。普段のセックスみたいで、パニックになりかけていたのが少しだけ落ち着く。
「……あ」
 楓の両足を持ち上げ、ゆっくりと入ってくる。穴の口は彼の形に容易く広がる。
「うれしい……」
「絞めすぎ。まだ先だけだぞ」
「おく、おく、もっと」
「……うん」
「なあ早く、おく」
「わかってるってば」
 めずらしく苛立ったようにもらしたかと思うと、一気に奥まで突かれる。
「ひゃあっ!」
 不意の強烈すぎる刺激に、腰が跳ね、溜め込んでいた欲が早々にはじける。中が激しく収縮するのが自分でもわかる。
「あっ……、はぁ……」
「……ごめん。やっぱいつも通りやる余裕ない」
 絶頂感が続く途中で始まった抜き差しの動きは、理性も本能も、互いの身体の境目も、区別が付かないくらいぐちゃぐちゃに溶かしていく。
「亨、とーる……。あぁっ……や」
 声が抑えられない。防音は割としっかりしているマンションらしいから、今までもあまり気にしたことはない。求めていたものは空いた箇所を満たし、熱は鎮まるどころか次々と新たな熱を生む。
 いつもより少し低くなった声が、鼓膜を震わせる。
「……すげえな。そういや前もこんな感じだったわ」
「前と同じ……?」
「前よりずっといい」
「普段のに戻れなくなりそう……?」
「いや、カルピスって原液で飲むより、ちょっと濃いめぐらいで飲みたいじゃん」
「……今が原液?」
「そう。フェロモンの原液がぶ飲み。過剰摂取は身体に悪そう……、ってか、頭悪くなるな、これ。いろんなことどうでもよくなる」
「同感。……あ、やだぁ、だめ」
「何が駄目?」
「喋りながらとか無理……」
「ここ好きだもんね」

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