(4)君の指輪とホットケーキ

 ついいつもの癖でテレビのリモコンに手が伸びる。電源を入れてすぐ、跪いた白スーツの男が、大輪のバラの花束を女に差し出すシーンが映し出された。なんだ、この古典的なプロポーズは。まったく心臓に悪い。慌ててチャンネルを変える。楓の動揺ぶりがおかしかったのか、亨が小さく吹き出したが、睨んでやると口元を引き締めた。
「ごめんごめん。今日おかしかったのってそれが理由?」
「そうだよ! あんなの見れば誰だって」
「番になるんだったら、やっぱり指輪は必要だと思うんだよね」
「要るの? ミコちゃんはつけてなかったけど」
「要るって決まってるわけじゃないけど、俺は欲しいなって」
「お前がそう言うなら、まあ。……ん?」
 聞き流しかけたが、重要な発言があった。疲れたのか足を崩した亨に、前のめりになって詰め寄る。
「番になるって……」
「前に大学卒業したらって話してたろ。事前に準備がいるんだから、今から考え始めたって早くないだろ?」
「そりゃそうだけど……。なんだ、お前だってちゃんと考えてたんだ」
 何も言わないので、実琴にアドバイスされる前の楓のように、「いつかなるだろうけど、具体的にいつかは考えていない」状態だと思っていた。
「もちろん。オメガは休み長く取らなきゃいけないから、就職前の方がいいのかなって思って、それならもう準備しないとって考えてたところ」
「そう、そうなんだよ。それ、ミコちゃんに言われて、そういやそうだなって」
「で、まずはクリニックに行かなきゃなんないんだよな? いつにする? 俺も行けるの?」
「普段はアルファ立ち入り禁止だけど、不妊外来と番外来をやってる日があって、その日なら大丈夫だと思う」
「そっか。なるべく早めの方がいいよな」
 実にスムーズに話が進む。それでいい。いいのだが、引っかかる。だって楓は一ヶ月間あんなに悩んだのに。テレビのボリュームを下げて、ザッピングをやめる。
「……いや、お前、ためらいとか不安みたいなものはないの?」
「なんで?」
「発情期、また来させることになるんだぞ。二年前は理性ぶっ飛んで大変なことになっただろ。あれと同じことになるんだと思ったら怖くないか?」
「状況が全然違うじゃん。ちゃんと事前にクリニックで相談するなら大丈夫だって」
 ずいぶん簡単に言ってくれる。発情期はどうしたってアルファよりオメガの負担の方が大きくなるから、その違いなのか。
「でも、俺は怖い」
「具体的には何が?」
「緊急抑制剤ちゃんと打てるのかって考えると怖い」
「それは医者に相談だな」
「噛まれるのも怖い。穴あいて血が出るくらい噛むんだろ。絶対痛い」
「ああ、あれ、アドレナリンがドバドバ出てるから全然痛くないって」
「疑わしい!」
「てかさあ、噛んだこと何回もあるだろ。お前も好きじゃないの? 興奮すると無性に噛みつきたくなるときがあるんだよな。なんでだろ、あれ」
「……お前な」
 何を暢気なことを、と思う。楓の不安がなぜわからない。テーブルに肘をついて、リモコンで自分の膝を軽く叩く。
「甘噛みと本気噛みは違うだろうが」
「まあな、それもそうだわな」
 楓の苛々を察してか、亨は立ち上がる。キッチンの方へ行って食器棚を開けている。マグカップを取り出しているから、きっとコーヒーでも入れるつもりだろう。小ずるいご機嫌取りのやり方を身につけたものだ。
 もう勢いで聞いてしまおう。
「すっごく疑問なんだけど、噛みたいって欲求があるなら、あのときなんで噛まなかったんだ? 二年前のハプニング発情期のとき」
「それは……、駄目だろ、人として。番関係ってまさしく一生ものなんだから。いや、急な発情期に乗じてやりまくったのも充分駄目なんだけど」
「あれは元はといえば俺が悪いんだから、言いっこなし。なあ、理性ぶっ飛んでる状態で、噛むのって我慢できるものなのか? 発情期じゃなくても噛みつきたくなるんだろ?」
「残った良心を総動員して我慢したとしか言えない。俺はほら、噛む振りして怖がらせた前科があるから、同じ過ちは繰り返すまいってことでね。自分の左腕を結構ガブガブやってたらしくて、治るまで時間かかったな」
「うわあ、痛そう……」
 穴のあいた腕を想像するだけで気分が悪くなる。彼はインスタントコーヒーの粉末を入れたカップにポットの湯を注ぎながら、あっけらかんと言う。
「それが、自分で自分を噛んでるのも意識しないくらい、全然痛くなかった。だから、楓もたぶん大丈夫」
「そうかな」
「そうそう。けど、まあ、焦らなくてもいいよ。よく考えて。別に絶対今じゃなきゃいけないわけじゃないんだし」
「うん……」
「ちょっとでも不安があるなら決行すべきじゃないよ。お互い納得してなきゃ意味ない」
 亨の声が近づいてきて、楓のカップがテーブルに置かれる。見上げると、亨は朝おはようを言ったときと変わらない笑顔だった。くだらないことに苛立っている自分が馬鹿らしく思えてくる。
「……優しい」
「そうか?」
「優しい。お前はいつも優しい。変なプレイしてるときも、ずっと気を遣ってくれてて、やっぱり優しい」
「変なプレイって」
「それなのに、発情期になって豹変したみたいになるの、すごく嫌だ。前の発情期の最中は全然そんなこと思わなかったけど、あの時のこと思い出したら怖くなってきて……。乱暴だし、目とかすごく冷たかった。噛まれるよりそっちの方が……」
「……」
 返事がない。すぐ隣に座ってきた亨に目をやると、カップを片手に驚いたような顔をしていた。
「なんだよ。情けないって思ってんのか」
「いや、素直にそういうこと言ってくれるようになったんだなあって。訳もわからず強制的に発情状態になるのと、万全の準備を整えた上で自ら望んでそうなるの、全然違うよ。そりゃあ、いつも通りにはいかないだろうけど、俺は俺だし、楓は楓だよ」
「……うん」
 目が合うと、匂いがわずかに変化する。不意に空気が甘くなる瞬間にも、もう慣れた。こんな時はどうすればいいか、楓はもう知っている。
 亨がカップを置いて身体を寄せてきたので、目を閉じる。頭に手が添えられ、唇が触れあった。目を開けると、吐息が届くくらい近くに彼がいる。そっとその手のひらの上に自分の指を重ねる。
「……番にするの、俺でいいの?」
「もちろん。楓は?」
「お前がいい。もうずっと前から……」
 わかったのだ。楓は亨でないと駄目だし、彼もそうだって。
 流れでもう二度、三度とキス。——いけない。このままもつれ込んでしまう前に離れる。
「……先に風呂行かなきゃ」
「一緒に入る?」
「それは嫌」
「今ならいけると思ったのに」
「だってお前、じろじろ見るから」
 これまで何度も誘われたが、毎回断っている。理由は、裸に自信がないから、でずっと通している。
 断られるとわかっているだろうに、亨は不満げだった。
「そりゃ見るよ。ベッドでも見てる。舐めるように隅から隅まで」
「薄暗けりゃいいの」
「毎回言われてるけど未だに理解できないわ。明るいとこでも結構してない?」
「あれは仕方なく」
「仕方なく風呂にも付き合ってよ」
「なんで一緒に入りたがるのか、俺はそっちの方が理解できない」
「風呂というシチュエーションがすでにエロい。わくわくする。テンション上がる」
「ばーか」
 絡みついてくる腕をどけて立ち上がる。
「行っちゃうの?」
「ああ」
「わかった。一緒に入らなくていいから、のぞいていい?」
「駄目に決まってんだろ! 変態」
「楓は自信ないらしいけど、俺は好きだよ。楓の……」
「具体的な部位まで言ったらぶっ飛ばすぞ」
「じゃあ、全部好きって言っとく」
「やっぱりバカ」
「バカはバカかも」
 そうだ、バカだ。バカが可愛い楓もバカだ。
 リビングを出て行く前に、そもそもの話題に戻す。
「……一回、クリニック行こう、一緒に。土曜日午前ならいい?」
「うん。今月はたぶん大丈夫。予約しといてくれる?」
「やっとく」
「あと、指輪どんなのがいいか考えといて」
「ほんとに買うのか?」
「言いだしっぺの俺が出すから。もらえるものはもらっとけよ。女避けにもなるだろ」
「避けなきゃならんほど寄ってくるのか?」
「俺じゃなくてお前だよ。新社会人のフレッシュな感じがお姉様方に大受けとかいう事態に」
「うち、既婚者のおばちゃんしかいないぞ。ずっとバイトしてたから、皆俺の性別知ってるし」
「そうじゃなくて取引先とか」
「お前のとこみたいに華やかな世界じゃねえよ。でもまあ、そんなに心配ならつけてやらんでもない」
「ありがと。あのカタログ、また見といて」
「わかった」
 いざ話してみると、一人で悩んでいたときよりずっと気持ちが楽になった。何とかなるだろうと思えてくるのだから不思議である。できることから始めよう。まずはそこから。

 時は瞬く間に過ぎる。年が明けて一月に無事卒論を提出、そこから楓は長い春休みに入った。以降、アルバイト先兼四月からの就職先には、週五フルタイムで勤務している。卒業式は三月半ばだが、行くかどうかは決めていない。おそらく行かないだろうとは思う。これまでしつこくされたアルファ男も大勢出席するだろうから、顔を合わせるのは嫌だ。
 そして、今日、二月末の平日。実琴と材料費を折半して一緒に夕飯を作ろうという話になり、仕事先から買い物に寄って帰ってきた。本日のメニューはおでんだ。実琴宅のキッチンで黙々と作業する。楓も具材の下ごしらえを手伝ったが、実琴が倍のスピードで手際よくこなしていくので、あまり役には立てなかった。
 大鍋で具材を煮ている間、食卓に座って休憩する。夕飯までお腹をすかせておくため、おやつは無しだ。つまみ食いのおかげか、ぺこぺこで我慢できないというほどではない。
 実琴は新商品のあめ左衛門パペットを手にはめ、動かしながら問う。
「もうあと一週間ぐらいじゃない? 準備は終わった?」
「うん。だいたい終わった」
 新聞のテレビ欄をチェックしつつ答える。

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