(4)君の指輪とホットケーキ

「中全部いい」
「中だけ?」
「触られたとこ全部……、やっ」
 腰骨を撫で上げる些細な手の動きにも背を捩らせる。
「中とろとろできゅうきゅうで……、ああ、もうあれだな、語彙がだいぶやられてる。ちょっとでもリラックスできる雰囲気をって思ったけど、お喋り終わりにしよっか」
 甘い鳴き声と二人分の吐息、中を掻き混ぜる水音、ベッドのきしみ。何度となく達する。いついっているのかもよくわからない。彼は中で確実に大きさを増している。気のせいではないはず。いつもより広げられて奥まで来ている。
「とーる……、とーる、なあ」
 ——言って。
「……好き、楓」
「俺も好き……。好き、好き」
 鳴き声に混じって何度も繰り返す。こうして交わりあっているときぐらいしか口にしない言葉だけれど、言うのも言われるのも、それだけで気持ちがいい。
 動きが速くなってくる。たぶん、もう近い。
 気づいていた。さきほどから亨がじっと見つめている先は。
「……いいよ。我慢しなくて」
「……ほんと?」
「うん」
 邪魔な髪を払い、首筋を晒す。彼がごくりと息をのんだのが、喉の動きでわかった。
 顔が近づいてきて、首筋の皮膚をぺろぺろ舐めたり、吸ったりしている。ときどき尖ったものが皮膚に当たるのを感じる。
「牙伸びてる……?」
「牙というか犬歯……。いくよ」
「きて」
 彼の背に腕を回し、ぎゅっと目をつぶる。恐れていたような痛みはなかった。伸びた犬歯が皮膚を突き抜け、温かいものが身体の中に流れ込んでくるような感覚になる。ほかほかのスープが食道を通って胃にたどり着く、あの時の感じに似ていると思った。それは全身を巡り、楓の身体を変えていく。途中で彼が精を放ち、中で脈打っているのを感じた。
 固く抱き合ったまま、しばらくじっとしている。彼の口が首筋から離れても、まだ射精は続いていた。
「……長くね?」
「発情期だから……」
「ほんとに出来ちゃいそう。生だし」
「薬は?」
「避妊薬は飲んでる。当たり前だろ。でも、出来たら出来たでいいかもって、今はちょっと思ってる」
「俺も」
 二度目の発情期の交わりは痛くも怖くもなかった。温かいもので満たされて、ただただ気持ち良くて幸せだった。

 薄明るい優しい光が、楓の眠りを覚まさせる。そこは寝室のベッドの上で、隣の亨はすでに起きてスマホをいじっていた。身体はひどくだるいが、頭はすっきりしている。
「……今何時?」
「土曜日の朝五時過ぎ。はい」
 ペットボトルの水を渡される。うつ伏せで肘をつき、一口飲むと、喉の渇きが自覚され、ごくごくと一気飲みする。
 発情期が来たのは木曜日で、今日は土曜日。どうもおかしい。
「……金曜日はどこに?」
「そりゃまあ、やって眠ってでつぶれたんだろ」
「あれ? 俺、抑制剤打った? 記憶が……」
「お前が先に落ちたから俺が打った」
「そうか。よかった。……あ、鏡、鏡ある?」
「んー、これ、はい」
 亨はウェブメールの受信箱を閉じ、スマホのカメラ機能を立ち上げて、インカメラにしてから渡してくる。画面の中の自分は、ボサボサの髪だし、目は腫れぼったいし、涙の跡がひどいし、隈も浮かんでいるし、ぼろぼろの状態だった。
「うわあ、すごいブス……、じゃなくて、なにこれ」
 首筋に白いガーゼが貼ってある。
 亨は世話焼きの母親のように、楓の蹴った毛布をかけ直す。
「一応消毒しとけって先生に言われただろ。さっきやった」
「跡見たかったのに!」
「風呂入るときはずすだろ。そのとき見れる」
「ちゃんとついてた?」
「そりゃもうくっきり。でも、もう襟の無い服着らんないな。泉田も襟付きのシャツよく着てるもんな」
「そうだな。どうしようかな」
 実はあまり服のことまで考えていなかった。今の季節だと襟付きの服を着るかストールで隠すか、ぐらいしか思いつかない。上にTシャツ一枚というのは難しくなったわけだ。
 いっそのこと隠さないという手もある。しかし、番に関する知識が乏しいベータが人口比率的には大多数で、噛み跡など見せて歩けば、犬にでも噛みつかれたのかと驚かれてしまう。番関係について知っている者からすると、性別を大声で宣伝しているようなものだし。やはり隠すのがベターか。
 まあ、どうにかなるだろう。楓はたいがいどんな服でも似合うから。こんな悩み、些細なものだ。後回しでいい。
 スマホを返してから、すり寄って、くんくんと亨の匂いを嗅ぐ。番になったからといって、匂いが特別変わったりはしていないようだ。
 正真正銘、楓のものになったのだと思うと、嬉しくてたまらない。それが当然なのに、亨は意外に思ったらしい。
「……ご機嫌の時の匂いがする」
「この状況で機嫌悪いんだとしたら、お前、俺に嫌われてるってことだぞ」
「昨日、じゃない、一昨日だ。すごい待たせたじゃん」
「そうだ……、そうだった!」
 言われて思い出した。木曜日、発情の熱に耐え続けた苦しみの数時間を。
「どれだけつらかったと思ってんだよ! 一生恨んでやる」
 彼の腕をつまんでつねる。「軽く」と「渾身の力を込めて」の真ん中くらいの加減だ。抵抗はされない。
「存分にやってくれ。木曜日な、急な打ち合わせで呼び出されて、そこはスマホ使えないとこでさ。チェックできなくて。早く切り上げるつもりだったのに、向こうの担当者がものすごくしつこい人で、予想以上に長引いちゃったんだ。ほんとにほんとにごめん」
 亨だって遊んでいたわけではないのに、そこまで申し訳なさそうにさせると可哀想になってくる。つねる手を少し緩めてやる。
「まあ、残業していいって言ったのは俺だし、別に……」
「別の電車で人身事故があったとかで、二駅手前で止まるしさあ。何とかタクシー拾って帰ってきたけど、お前電話で泣いてたし、言うことおかしいし、生きた心地がしなかった。無事で良かったよ、ほんと。苦しかったのに、抑制剤打たずに待っててくれたんだもんな。がんばったなあ」
「そうだぞ。がんばったんだ。もっと褒め称えろ」
「えらいえらい、ありがと」
 ぎゅっと抱き寄せられて、寝乱れた髪を撫でられる。それだけで胸がいっぱいになる。あの時のつらさも不安も、この時のためだったのだと思うと、全て許せる気がするのだ。
 温かな手の感触が心地よく、力が抜けてふにゃふにゃになっていると、派手に腹の音が鳴り響く。
「……腹減った」
「俺も」
「昨日何も食ってねえから、いきなりがっつり食うと胃に悪いだろ。雑炊のレトルトパウチ、あっためて食おう」
「……その前に」
 亨はもぞもぞ動いてベッドから降り、隅の棚に置かれた紙袋の中から、何かを取ってくる。何かとは何なのか察しはつく。起き上がってベッドの上に座り、待機する。
 彼はまたベッドに上がってきて真向かいに座る。ひとつ咳払い。
「マダム、お手を」
「誰がマダムだ」
「じゃあ、ムッシュ」
「ほれ」
 甲を上に向けて左手を突き出す。彼は恭しくその手を取ると、握りしめていた指輪を楓の薬指にはめる——、のかと思ったが、第二関節あたりで首を傾げて外した。指輪の内側を確認している。
「こっち俺のだった」
「お前な、そういうとこはきっちり決めろよ」
「ごめんごめん。サイズは違うんだけど、見た目にはそんな変わんなくてさ。では、改めまして」
 仕切り直して、指輪をはめ直す。
 自分の指を飾る真新しいそれは、朝日に照らされて煌めいている。細いプラチナリングにダイアモンド一石が埋め込まれた、いたってシンプルなデザイン。石がついていると引っかかりそうで嫌だったのだが、「埋め込めば邪魔にならない」と亨が言うので了承した。
 相談されていたため、大まかなデザインは知っていたものの、実物を見るのは初めてだ。サイズも事前に測っていたのでぴったりだった。
 そわそわとこちらを窺っている亨に、何か気の利いたことでも言いたかったが、口について出てきたのは率直な感想だった。
「……これさ。ド直球でマリッジリングじゃね」
「お前がこれでいいって言ったんだろ。会社に着けていけるようなシンプルなペアリングっていったら、こんな感じになるよ」
「それもそうか。刻印入れたの?」
「うん。イニシャルをね。ほら」
 自分の分を渡してくる。裏側を見て、刻印より先に目に付いたもの。青い小さな石が埋め込まれている。
「裏にも石入れたのか?」
「うん。ブルーダイヤ。ありきたりだけど、サービスだって言うから」
「サムシングブルー? すごくマリッジリング……」
「もうそれでいいんじゃね。先取り先取り。作ってくれた友達も、最後までマリッジリングだと勘違いして、おめでとうって何回も言われたよ。一応訂正はしたんだけど」
 考えようによっては、いかにも結婚指輪というものの方が、彼が望んでいた「女避け」用にはいいのかもしれない。
 青い石の横には「K&T」と入っている。
「うん。Kが先に来ているところがすごくいい」
「だろ」
「これなに? この横に彫ってあるやつ」
 イニシャルの横に、一文字分くらい空いて、アルファベットのVのようなものが刻印されている。ただ、イニシャルとはフォントが違うし、上にずれているので、おそらくVではない。
 亨は手のひらを差し出す。
「ちょっとお前の貸してみ」
「えー。はずすの?」
「またつけてやるよ」
 しぶしぶはずして渡す。彼は楓の方を上にして、二つの指輪を重ねる。
 上の指輪には角の丸いMのようなものが入っていて、下にはV、合わさると——。
「げ、ハート? だっせ」
「ださいって何だよ。どうせそう言われると思って、極力控え目にしたのに。幅太めにしたら結構複雑な絵も入れられるんだぞ」

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