(4)嬉し愛し(うれしかなし)

 ——距離を置きたい。伊月から落とされた爆弾発言のせいで、陽介は混乱の只中にいた。
 あんなにラブラブな夏休みを過ごしたというのに、一週間も誘いを断られ続け、さらにこの発言。理由も説明されず、一方的に拒絶された。これまで恋愛では大した苦労をしたことがなく、求められることが当然の環境だったせいで、プライドは大いに傷ついた。
 アルファにとってもオメガにとってもそうだと思うが、運命の出会いなど都市伝説だと言いながら、どこか憧れのようなものがある。皆が皆運命の人に出会えるわけではない。都市伝説と言われることからして、確率は低いはず。出会える者は幸運なのだ。
 オープンキャンパスで見かけた高校生が、運命の相手だと知ったとき、自分の幸運が素直に嬉しかった。だが、同時に、連絡を取る手段さえないことに大きな焦りを覚えた。奇跡的な偶然でせっかく出会えたのに、一度しかないかもしれないチャンスを逃してしまったのだ。
 しかし、彼はまた陽介の前に現れた。同じ大学、しかも同学部同学科。これはもう、神様的な存在が、再会をセッティングしてくれたように思えてならなかった。
 可愛い顔をしているくせに、他の男の匂いも女の匂いもなく、初心(うぶ)で真っさらな身体。陽介に手を出されるのを待っていたようだ。
 運命を認めるのに多少の覚悟はいったものの、受け入れてしまえば、それ以降は抵抗を感じることはなく、出会えて付き合えた喜びを噛みしめていたのだが。嬉しくて、構い過ぎてしまったか。
 振り返ってみれば自分でも思う。自分のあのはしゃぎっぷりは、少し異常だった。いつも恋人とは適度な距離を置き、干渉するのも干渉されるのも好きではなかったというのに。いくら夏休みとはいえ、毎日べったりというのはうざったがられても仕方なかっただろう。呆れられたか、嫌われたか。もしや他に気になる男が?
 ——などと悶々と悩み続けて二日が経った。その日はうっかり寝坊し、大学へ行ったのは昼休み終わりの三限目からだ。友人たちにSNSに投稿されたキス写真について聞かれた。
 写真だけならまだしも、伊月の性別をバラし、恋人のいるアルファを平気で寝取る人間であるかのようなコメントに、心底腹が立った。きっと彼はひどく傷ついているはずだ。すぐに教室から出て電話した。だが、繋がらない。すぐに連絡がほしい、とメッセージを送っておく。
 犯人は誰だ。「アルファの彼氏をお持ちの方は特にお気をつけを」というコメントから、伊月に陽介を盗られた、という含みを感じる。自分が過去に振った相手の逆恨みある可能性が大きいように思う。中途半端な別れ方をして付きまとわれた経験があるため、恋人と別れるときも、言い寄られて断るときも、相手が未練を残さないようにすっぱり切ってきた。それが恨みを買ったのかもしれない。伊月が傷つく原因を作ったのは陽介なのだ。
 あと、重要な手がかりは、犯人は伊月の性別を知っているということだ。伊月は極端に性別を人に知られるのを嫌がっていた。知っているのは陽介と両親ぐらいだと思っていたが、伊月が他に性別を明かした者がいれば、そいつが犯人の可能性が高い。
 陽介が過去に振った相手というのと、伊月が性別を明かした相手というのが重ならない気がするけれども、ひとまず伊月と話をしないことには事は進まない。
 構内を探し回り、伊月がよく行動を共にしている瀬上を見つけた。彼によると、伊月は二限が始まる前に例の投稿のこと知り、教室を出て行ってしまったという。一緒に探そうかと言われたが、こいつも敵か味方かわからない。きっぱり断った。一応瀬上の連絡先だけ聞いておき、伊月宅へ向かった。
 伊月の部屋に乗り込む前に、外からチェックする。カーテンが閉まっている。マンション一階のポストを覗く。ダイレクトメールは残ったまま。
 部屋の前まで来たが、中から物音はしない。留守だろうか? チャイムを押して静かに待つも、出ない。扉はしっかり施錠済み。ここで待っていれば、いつかは帰ってくるだろう。持久戦を覚悟した。

 暑い中粘り、結局伊月の部屋の前で一晩過ごした。彼は帰ってこなかった。
 途中、食料とモバイルバッテリーの調達、トイレのためにコンビニに行ったが、ほぼ張り付きっぱなしだった。張り込みをする刑事の気分だ。
 いったい伊月はどこに行った? 電話をしても繋がらず、折り返しもない。メッセージは開けてもいない。あの悪質なSNSの文面から、陽介の過去の女の仕業と察して、意図的に避けているのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。早急に話し合う必要がある。
 朝、七時になるまで待って瀬上に電話し、会う約束を取り付けた。伊月の行きそうな場所を、もう一度尋ねてみるつもりだった。それから、いったん自宅に帰り、風呂と着替えを済ませて大学へ行った。
 瀬上との待ち合わせ場所は、学内では一番早い、朝八時から営業しているカフェだ。開店時間から待っていたのに、瀬上がやって来たのは九時前だった。今すぐ来いと電話で言ったはずだが。
 向こうから挨拶してくる前に切り込む。
「遅いよ」
「実家から通ってるんで遠いんですよ。そんなすぐに来られません」
「二時間もかかるの?」
「一時間ちょっとですけど、準備とか色々……」
「ふーん、へえ、そう。ああ、そうだ。これ、ほしい?」
 憮然として向かいの席に着く瀬上に、小さなメモを差し出す。
「何ですか?」
「女の子の連絡先。待ってる間にもらっちゃった。いらないって言ったんだけど、無理やり置いてってさあ。顔はまあまあ可愛かったから、メールしてみれば?」
「……なんであんた目当ての子に、俺がメールするんですか」
「断んの面倒くさいから、君から言っといてよ。ついでにデートにでも誘えばいい」
「いりません!」
「冗談じゃないか。カリカリしないでよ」
 伊月に陽介に関するデマを流したのがこの男らしいので、ささやかな仕返しがしたかっただけだ。あとは、少々鬱憤ばらしをさせてもらった。性格が悪いのは自覚している。
 瀬上がイライラしている様子なのを見て満足すると、メモを仕舞って本題に入る。
「昨日、伊月帰ってこなかったよ。部屋の前で一晩中張り付いてたんだけど」
「一晩中……?」
「どこ行ったか、本当に心当たりないの?」
「ありません。あいつが真っ先に頼るのは先輩じゃないんですか?」
 生意気にも嫌味を言う。正直、痛いところを突かれたのだが、それで噛みつけば相手の思う壺だ。
「事情があるんだよ。ちょっとごちゃごちゃしてんの」
「……浮気?」
「あの子はそんなことする子じゃない」
「あんただよ。あの写真の投稿者と。で、二股ってわかって恨まれて反撃されたとか」
「そんなわけないだろ。こう見えて一途なんだよ、僕は」
「どうだか」
 信じていないようだが、瀬上に理解されようとされまいとどうでもいいので、話を先に進める。
「バイト先の知り合いとかは? 君は面識ある?」
「ないですよ。バイト先にはおばさんが多いって聞いたから、そっちに頼っていくことないんじゃないですか。それなら、実家の方が可能性はありそうですけど」
「実家って新幹線の距離でしょ? あんなにショックを受けてたときも帰んなかったのに」
「ショックって何ですか」
「ああ、こっちの話だから」
 変転オメガだと診断された日のことだ。少し喋ったことがあるだけの男の誘いに乗るほど、伊月は自棄を起こしていた。
 親子関係は良好のようだから、親を頼ってしばらく実家に帰ったってよかったはずだ。長いことアルバイトや大学を休むことが難しくても、数日から一週間程度なら何とか理由はつけられるだろう。しかし、そうはせず、その時もその後も伊月は陽介を頼ってくれた。それが陽介にとってはとても嬉しかった。家族以外の誰かに、こんなに何かをしてやりたいと思ったのは初めてだった。
 ——なのに、彼がとても恐れていた、性別がバレるという状況になったときには頼ってもらえず、一人で行方をくらませられる始末。プライドはさらにずたぼろになった。
 散々尽くして優しくしたのに、恋人だったの、などと言われたときは、それはもうショックだった。だが、今回はそれ以上かもしれない。
 伊月の何が恐ろしいって、無自覚で大した罪悪感もなく、ポキッとへし折っていくところだ。簡単に折れる陽介が軟弱なのか。そうではないと思う。清香に相談したときは、ひどいひどいと言って大笑いされた。傷つく陽介を笑う清香もひどいが、この際それは置いておくことにする。
 そうだ。伊月はひどいのだ。ひどいのに、構いたくなるのはどういうわけだ。彼からは助けてあげなきゃと思わせる謎のオーラが出ていて、手を差し伸べると可愛らしく懐いてくる。また構うとさらに懐く。どこまで可愛くなるんだろうと思っているうち、自分が守らないとという使命感が湧いてくるのだ。
 最近ではすっかり世話を焼く喜びに目覚めていたから、かなり重症だ。自分は尽くすより尽くされるタイプだと思っていたのに。
 考えてやっているのだとしたらかなりの小悪魔ね、と清香も言っていたが、伊月の場合無意識だから、さらに厄介なのだ。
 ちなみに、その使命感は現在も継続中である。何度ポキッとやられても、我ながら懲りないものだと思う。
「他に行き先が思い浮かばないんだったら仕方ないな。行ってみようか」
「実家に?」
「そう。住所わかる?」
「さすがに知りませんよ」
「だよねえ。どうしようかな」
 しばし考える。実家の住所の分かるもの。実家の両親から伊月に宛てられた手紙とか? 伊月の部屋を家捜しできれば見つかるかもしれないが、現状、部屋に入る術がない。何か他には——。ああ、そういえば。
「……わかるかも。まだ捨ててなかったはず」
 善は急げだ。立ち上がる。
「君、伊月から連絡あったら、すぐに知らせてよ」
「伊月がいいって言ったらね。あんたいまいち信用できない……」
「つべこべ言わずに、とにかく知らせて。ああ、あと、これ」
 財布からこのカフェのコーヒー回数券五回分を取り出し、テーブルの上に置く。
「なんですか」
「お礼っていうほどのものじゃないけど、あげる。残ってるのそれだけしかなくて悪いね」
「こんなのいらないですよ。伊月は友達だから、必要と思えば何もなくても協力します」
「いいからいいから。じゃあ、よろしくねー」
 飲み終わったカップを乗せたトレイを持ち、さっさとその場を離れた。
 絶対に逃がさない。

 自宅に戻って、まず陽介がしたことは、紙ゴミをまとめてある袋をあさることだ。
 夏休みの終わり頃に、伊月の実家からリンゴの詰め合わせが送られてきて、ここで開けて一緒に食べた。その箱の包み紙に宅配便の送り状が貼ってあったはずなのだ。新聞をとっていないため紙ゴミはそう溜まらないので、一ヶ月に一回程度しか捨てない。だから、まだ残っているはず。
 底の方から目的のものを発見した。住所はわかるが、電話番号はかすれていて読めない。一か八か行くしかないということか。
 送り状をスマホで撮影し、さっそく出発した。遠いので泊まりになるかもしれないが、必要なものが出てきたら、現地で買えばいい。
 最寄り駅から電車に乗り、車内で新幹線のチケットを予約しておく。そう時間の空かない便に乗ることができた。昨日は一睡もしていないため、新幹線の車内ではほぼ寝て過ごし、到着二十分前に弁当をかき込んだ。
 昼過ぎに新幹線を降りる。ネットで路線検索し、葛城家の最寄り駅まで着いたのは、そこから二時間半後。辿り着いたのは、電車が一時間に一本という無人駅だ。駅前にはコンビニさえなく、個人経営の小さな商店があるだけ。想像以上のド田舎だった。お腹を空かせて山を降りてきた熊にばったりと出くわしそうだ。
「秘境駅だ、秘境駅……」
 必要なものが出てきたら、現地で買えばいいと思っていたが、調達できるか怪しい。
 地図アプリを頼りに歩き始めるも、田んぼと畑ばかりで目標物が少なすぎる。人に聞こうにも、誰も通りかからない。あっちでもない、こっちでもない、とうろうろしていると、第一村人が前方から歩いてきた。自転車を押した五十代くらいの小柄な女性だ。
 彼女は陽介に気づいたようだ。
「お兄さん、どうかしたの?」
 余所者を怪しむという感じはなく、気さくな様子であった。彼女を逃せば次がいつになるかわからない。爽やかで人好きのする笑みを意識して浮かべ、一歩彼女に近寄る。
「葛城さんのお宅を探していて……」
「葛城昭一かしら。それとも和郎さん? もうちょっと行ったところに梅子おばあちゃんのお宅もあるけど」
「大学生の息子さんがいらっしゃるお宅です。僕は伊月くんの大学の友人で」
「ああ、それならうちだわ。もうすぐそこよ。あの子に会いに来てくれたの?」
「ええ。突然来てしまってすみません」
「いいのよ。私のパートが休みの日でよかったわ」
 ビンゴだ。やはり思い切って来てよかった。あの子に会いに、ということは、伊月は今こちらに帰っているということだ。見た感じの年齢からして、彼女は伊月の母親だろう。第一村人が伊月の身内とは、なかなかついている。

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