(4)嬉し愛し(うれしかなし)

 親子だけあって、彼女と伊月の顔立ちはどことなく似ていた。伊月本人はコンプレックスにしているらしい癖の強い髪も、母譲りらしい。
 案内されたのは、田んぼと田んぼの間に立つ一軒家だ。田舎の家らしく広い庭があり、母屋の他に離れや倉庫らしき建物もある。なかなか立派だ。いくら立派でも、こんな田舎に住むのは勘弁だが。
 鍵のかかっていない引き戸を開け、彼女は陽介を中へ招き入れる。さりげなく匂いを嗅ぐと、この家独特のものであろう匂いの中に、ほんの微かだが伊月の匂いを感じることができた。確かに来てはいるようだ。
「さあ、上がって。暑かったでしょう」
「お邪魔します。これ、つまらないものですが……」
 新幹線を降りたとき買っておいたゼリーの詰め合わせを、手土産として渡す。年配の女性に気に入られるために、こういうことはとても大事だ。不躾にならない程度に、玄関の置物や壁面飾りもチェックしておく。後で話題に使えるから。
 彼女は紙袋を受け取り、スリッパを出してくれる。
「あら、どうもありがとう。気を遣わなくたっていいのに」
「当然のことですから。ところで、伊月くんは……」
「お墓参りよ。その後ちょっと近所ぶらぶらして帰ってくるって。探しに行ってこようか?」
「いいですよ。待ちます。待たせてください。勝手に来たのは僕なんで」
「ごめんなさいねえ。どうぞどうぞ。クーラー入れるわね」
 昔の家らしく天井の低い廊下を歩き、居間に通される。食卓前に座ると、冷たい麦茶とお茶菓子が出てきた。
 伊月の母も腰を下ろし、麦茶を飲む。
「あの子、昨日突然帰ってきてねえ。聞かれたくないみたいだから、詳しく聞かなかったけど、やっぱり何かあったの? あったのよね。お友達がわざわざ会いに来てくれるくらいだもの」
「……僕の口からはちょっと。すみません」
「そうよね。口の堅い子はいいわ。信用できる。ええと、誰くん?だっけ」
「ああ、すみません。堂島陽介です。伊月くんの一つ上ですが、学部学科同じで家が近くて、それで仲良くなったというか」
「そうなのね。都会に出たら、こんなハンサムな友達が出来るのねえ。あ、スイカ食べる?」
「いただきます」
 こういうのは遠慮せずに食べた方が喜ばれる。スイカは種が多くて食べづらいので、自分の実家なら断るが。
 彼女が台所に行った隙に、室内を観察する。物は多いが使いやすく整頓されているところは、自分の実家とも共通している。あとはたくさんの写真が飾ってあるところも。
 おそらく伊月であろう小さな男の子が、この家の前で遊んでいる写真。幼い伊月と、彼より少し年上の女の子が、真新しい制服に身を包んで笑っている写真。中学生くらいの伊月、高校生くらいの女の子、母親、父親であろう中年男性が、桜の前で並んでいる写真。他にもたくさん。両親と姉弟、幸せな家族がそこに生きていた。
「伊月くんってお姉さんがいるんですね。こちらにお住まいなんですか?」
「……ええ。ああ、聞いてないかしら。亡くなったのよ。三年前に。伊月は今、お姉ちゃんのお墓参りに行ってる。伊月は甘えん坊で、お姉ちゃんにべったりの子でねえ」
 初耳だった。頼られていると思っていた。伊月は人には言えない不安や不満を、陽介にはよく話してくれていた。兄弟の話題になったことだってあったのに、彼の人生にとって大きかったであろう出来事を、なぜ話してくれなかったのだろう。やはり信用してもらえていないのか。——いや、話していなかったのは陽介も同じだ。
 食卓に置かれた瑞々しいスイカを、じっと見つめる。あれも夏のことだったか。
「知りませんでした。僕の末の弟も小学校に入る前に亡くなって……。心臓の病気だったんですけど」
「そうなの。それはなんて早い……。あの子は病気じゃなかったわ。気の優しい子だったから、性別のことで色々虐められて、それで自分から……」
「……オメガだったんですか?」
「ええ。私たちはどちらもベータだから、オメガの子の苦しみを、本当の意味でわかってあげられていなかったのかもしれない。もっと踏み込んで寄り添ってやっていればって、今でも後悔しかないわ」
 彼女の表情に暗い影が差す。
 伊月の姉はオメガであるという理由で虐められ、自ら命を絶った。やっと腑に落ちた。オメガに性別変更しなければいけないとわかって、なぜ伊月があんなに怯え、自棄になったのか。
 それに、距離を置きたいと言われた理由も理解できた気がする。自殺しようとするやつなんて馬鹿だと、陽介は彼に言ってしまったのだ。伊月の様子がおかしくなったのは、ちょうどあの頃からだ。そういう意味ではなかったのに。
「……実は、僕は伊月くんにひどいことを言って怒らせてしまったみたいで。話をしたいんです」
「お盆の時にもあの子帰ってきたんだけど、言ってたわよ。沈み込んだ時も側にいて励ましてくれる人がいるって、嬉しそうに。あなたのことでしょう。だから、大丈夫よ。伊月はあなたのこと、必要だって思ってるはずだわ」
「……はい」
「さて、陽介くんが持ってきてくれたお菓子、お仏壇に供えさせてもらうわね」
「僕も行っていいですか」
「ええ、ぜひ」
 奥まった和室に移動し、安置された仏壇の前で手を合わせる。手を合わせることの意味がわかったのは、大切な家族が亡くなったときだ。
 伊月が帰ってきたのは、夕方になってからだった。

 姉の墓参りと掃除を済ませた後、伊月が次に行ったのは、近所で一人暮らしをしている梅子おばあちゃんのところだった。小さなころからたくさん可愛がってくれた人で、両親の帰りが遅いときは、よくご飯を作りに来てくれた。実の祖父母がどちらも遠方住まいのため、おばあちゃんというと梅子おばあちゃんの方を先に思い出す。
 畑仕事を手伝った後、おやつをご馳走になり、しばらく縁側でごろごろさせてもらった。そろそろ日が沈みかけたころお暇することにし、お手伝いのお礼だと野菜をたくさんもらった。
 地元はやはりいい。昨日はこの世の終わりのような気分で実家に帰ってきたが、梅子おばあちゃんのおかげもあって、だいぶ落ち着いた。今後どうするかの答えも、ぼんやり浮かんだ。
 穏やかな心持ちで、ガラガラと実家の玄関の戸を開ける。
「ただいまー。梅子おばあちゃんのとこで野菜もらったよ。キュウリとナスとピーマン」
 母親が居間から顔を出す。
「遅いと思ったらお手伝いしてきたの?」
「うん。おばあちゃんまだまだ元気でピンシャンしてるよなー。もうすぐ九十だとは思えない」
「そうねえ。ところであんた、お客さん来てるわよ」
「誰? コタちゃん? 帰るって誰にも言ってねえんだけど」
 コタちゃんとは三軒隣の小谷のことだ。小学校から高校まで同じで、仲が良かった。
 母は首を振る。
「大学のお友達よ」
「……え」
 廊下の向こうから現れたのは——。
「なんでこんなところに……」
「あんたのためにわざわざ来てくれたんでしょうが。ちゃんとお礼言いなさいよ」
 伊月の頭を軽く小突き、母はまた居間に引っ込む。
 何も言わずに置いてきてしまった恋人からは、一見して怒りも苛立ちも感じなかった。こちらを見る彼の表情から感じ取れるのは、何だろう、安堵か。
「……あの、住所教えたっけ?」
「宅配便の送り状から突き止めた。あんなことがあったのに、自分のマンションにも帰ってこないし、電話でもメールでも連絡取れないし、いてもたってもいられなかったんだ」
「……ごめん。スマホ、家に置いてきちゃった」
「は?」
「慌てて出てきちゃったもんだからさ」
「わざと無視してたわけじゃ」
「しないよ、そんなこと。別れたわけじゃないんだから」
「僕のこと嫌いになったんじゃないの? ベタベタしすぎてうざくなったりは」
「ううん。全然」
 どうしても引っかかることを言われたのは事実だが、陽介が伊月にしてくれたことは消えて無くならないし、彼のことが好きな気持ちは変わらない。それに、べたべたと構われることは嫌ではない。傍でずっと好きな人の体温を感じていられるのは、とても幸せなことだと思う。
「じゃあ、せめてこの家の電話から行き先ぐらい知らせてくれてもよかっただろう。僕がどんな思いで——」
 陽介は伊月の両肩を掴む。その強さで、彼がどれだけ思い詰めていたかがわかる。また伊月は失敗してしまったようだ。陽介のこととなると伊月は失敗ばかりだ。
「あんたの番号覚えてなくて……。ごめん。本当にごめん。明日には帰るつもりだったから、それから連絡するつもりだったんだ。でも、すぐ頼るのは駄目かなって思ったり」
「なんで駄目なの」
「だって、まだ一週間経ってないだろ。自分から距離を置きたいなんていったくせに、ピンチになったからすぐ頼るって、虫が良すぎる」
「頼ればいいんだよ。というか、二人の問題だろう、あれは」
 確かに写真に写っていたのは二人だったが、書かれていた文面からして、犯人が攻撃したいのは伊月だけのように思うのだ。
 しかし、ここでこれ以上具体的な話をするのは憚られる。母親に聞かれるかもしれない。余計な心配はかけたくない。
「うん……。あのさ、ちょっとここじゃあれだから、上に行かない?」
「いいけど」
「飲み物もらってくるな」
 トレイに麦茶を乗せ、二階の伊月の部屋まで行った。

 自分の部屋に陽介を入れた瞬間、伊月はそれを後悔した。
 伊月の部屋は、高校を卒業して家を出た時のままだ。ということは、バニバニのポスターが壁に四枚も貼りついた状態なのだ。今の住まいの倍の数だ。
 陽介は部屋を見渡し、一言こう言った。
「うわあ……」
「皆まで言うな! 自覚はある」
 呆れてすぐには言葉が出ないという感じだ。ポスターでさえこの反応なのだ。棚や押し入れのバニバニグッズの数々は、絶対に見られてはなるまい。バニバニうさぎグッズ、メンバーが掲載された雑誌、出演番組の録画を焼いたDVD、ファイルに収納されたブロマイドなどがぎっしり詰まっている。
 危険な場所に近づこうとするのをいつでも阻止できるよう、麦茶のトレイを勉強机の上に置いて両手を空けておく。
 だが、警戒するまでもなかったようで、彼はあちこち開けて回ろうとはしなかった。
「妬けるなあ。伊月が高校生の時の元カノに会った気分」
「またそんなこと……。清香ちゃんは俺が突然いなくなっても、探して駆けつけてくれたりはしないだろ」
「ま、それもそうだね」
「……わっ」
 背後からぎゅっと抱きしめられる。首筋に顔が埋まり、鼻先をぐりぐりと押しつけられる。毛先が肌に当たってくすぐったい。
「なんだよ、もう」
「こういう流れだと思ったんだけど」
「やめろって。ここ、俺の、実家。親いる」
「もうちょっと。匂いちゃんと嗅ぎたい」
 すーはーと思い切り深呼吸している。畑仕事でたくさん汗をかいたというのに。
 前に回された彼の腕を掴んで引き離そうとしてみるものの、匂いを感じて安心したいのは伊月も同じだ。二日前の苦味のある匂いは消え、蕩けそうになるくらい甘い匂いが全身を包み込む。
 以前、彼は、オメガであることのいい面に目を向けるといいという話をしていたが、オメガであるからこの匂いを感じられるのだとしたら、それは特別にいい面だろうと思われた。
「……もう」
 困った顔をするだけでは、当然離れてくれない。
「大丈夫だって。突然ドア開けて乱入するタイプじゃないでしょ、晶子さん」
「そうじゃなくて、俺がゾクゾクしちゃうから」
「……エッチな子だねえ」
「いいから離れろ。このままじゃ真面目な話ができない」
「はいはい」
 何とか彼を押しのけ、ベッドに並んで座る。
 こうすると、ちょうど前を向いた時の目線の高さに、棚の写真立てが来るようになっている。両親と姉と伊月、家族で遊園地に行ったときに撮ったものだ。陽介もそれに目が行ったらしい。
「お姉さんの話、聞いたよ」
「……母さんから?」
「うん。君を待っている時間にね。君が怒るのはもっともだよ。無神経な発言だったと思う。ごめんね。ただ、少し誤解があるんだ」
「なに?」

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