(4)嬉し愛し(うれしかなし)

 喋っているうちに感極まってきて、涙がぼろぼろ流れ出て止まらない。溜め込んでいた感情まで溢れてきてしまったようだ。
 陽介は伊月の頬の涙を舐め取って、抱きしめる腕に力を込める。
「初めてエッチした日も、伊月は大号泣してたよね」
「あの時とは意味が真逆。ああ、もう明日には忘れろよ。こんな恥ずかしい……」
「嫌。忘れてあげない。一生覚えてる」
「やだー」
 気が済むまでわんわん泣いて、なかなか熱の引かない身体を、彼は一晩かけてなだめてくれた。

 週明け月曜日。連れだって大学まで行った。門の内に入るなり、ちらちらと視線を感じるが、負けない。
 これから用があるのは別々の棟なので、途中まで一緒に歩きながら、陽介は先ほどから人の心配ばかりしている。
「ほんとに教室の前まで送らなくていいの?」
「いいってば。悪目立ちするじゃん。普通にする」
「意地悪されたら僕に言うんだよ。すぐに助けに行くから」
「……なんか、今すっごくお兄ちゃんだな」
「でしょ? 下の妹はいじめられっ子だったから、よく颯爽と駆けつけたもんさ。ヒーローのように」
「期待してるよ」
「任せて」
「……わっ」
 前から来た人を避け、伊月の意識が逸れた隙に、彼はさっと頬にキスしてくる。信じられない。二人で並んで歩いているだけで目立つ気がするのに、これ以上人目を引いてどうする。思い切り腕をつねってやる。
「やめろ」
「いたい。ラブラブアピールじゃないか」
「そんなんせんでいい。そういうあんたは大丈夫なのか? 意地悪されることはないかもしれないけど、なんか言われんだろ、絶対」
「ちゃんと説明するから大丈夫。振った腹いせに嫌がらせされて、あんなこと書かれたけど、実は真剣に付き合ってまーすって」
「大丈夫ならいいけど」
 伊月のことばかりで、自分が嫌な目に遭っても吐き出せないのは申し訳ないと思ったのだ。陽介にはそんな緊張はないようで、呑気にあくびを噛み殺していた。
「ああ、そうそう。今朝夏穂からメッセージが来ててさ。友達二人連れて週末うちに来たいって。彼氏さんも呼んでーって言ってる」
「夏穂ちゃん、来るの? 友達ってもしかして……」
「多分君が思ってる通りの二人だよ。どう? 今日頑張る元気出た?」
「出た! けど……、いいのか?」
「何が?」
「だって、清香ちゃんの方が好きなんだとかなんだとか言って拗ねてたじゃん」
「いいの。伊月の愛はしっかり伝わってるから」
「朝っぱらから恥ずかしいやつだな」
 週末には陽介宅にバニバニメンバーが勢揃い。どんなにひどいことを言われても耐えられそうだ。いざ彼女たちと顔を合わせたときの自分の心臓が心配だが。危なそうだと思えば、自分の家に避難すればいい話か。
 サインを求めるのは贅沢すぎだろうか、握手くらいならしてくれるかな——、途中で陽介と別れ一人になった後も、うきうきは止まらない。大丈夫、伊月は大丈夫。
 目的の棟に入っていき、二限目が行われる教室のドアを開けた。伊月が姿を現した途端、教室中の視線が集まったかのような錯覚に陥る。逃げ出しそうになるが、心に中でおまじないを唱える。——強気で、強気で、伊月は一人じゃない。それに、週末には清香ちゃん!
 強気で、を実践して、わざと一番前の席に座る。
 他の席も空いていたが、隣に誰か座ってきた。視界に入った鞄に見覚えがあり、顔を上げると、瀬上だった。彼は片手を上げる。
「おはよ」
「……おはよ」
「こんな席だなんて、めっちゃ気合い入ってんな」
「俺は真面目な学生なんだよ」
 瀬上はいつもと変わらぬ気安い態度だったので、こちらも普通に答えてしまった。彼もこの気合いに入った席で講義を受けるようで、必要なものを机の上に並べ始める。
「三日もサボったくせに、どこが真面目?」
「まだ学期の最初の方なんだから大丈夫だろ」
「ふーん。大丈夫なんだ? ノート写さなくていいのかなー。レジュメいらないのかなー」
 彼は鞄の中から、ルーズリーフのバインダーをちらつかせる。当然、あるに越したことはない。ノートに抜けがあるのは不安だ。
「……ほしい」
「え? 何ですか?」
「ほしいです」
「仕方ねえなあ。はい」
 バインダーに挟んであったノートのコピーとレジュメが差し出される。伊月に渡すために、あらかじめ用意してくれてあったようだ。気のいい男だとは思っていたが、ここまでとは。
「……ありがとう」
 チャイムが鳴って講師が現れる。講義が開始された。

 二限目終わり。瀬上に誘われ、貧乏の味方、学食ビッグ・マミーに移動する。
 すれ違う学生の中には、あからさまな視線を投げてくる者もいる。「あいつじゃない?」とか「あれ、彼氏変わってる」とか、瀬上まで誤解を受けている。親切にしてもらって迷惑をかけるのは、恩を仇で返すようで心苦しい。
「やっぱり購買でパン買って食べようかな」
「じゃあ、俺も」
「お前は食堂行けよ」
「孤食は栄養学上良くないんだぞ」
「子供じゃねえんだから」
「とにかく、今日はビッグ・マミーに行くんだよ。カツ丼でも食え」
「メニューくらい自分で決めるわ」
 結局、引っ張られてビッグ・マミーに行き、瀬上に横から勝手にカツ丼の食券ボタンを押された。
 端っこの方の席で小さくなって食べ始めるも、お昼時で人が多いため、どうしたって人目は気になる。
「……やっぱ見られてる」
「気にすんな。そのうち飽きるだろ。皆そんな暇じゃねえよ」
「お前、いいの? 彼女への道が遠のくぞ」
「それは大丈夫。カナちゃんといい感じで続いてるから」
「カナちゃんって誰?」
「いい加減覚えろよ。俺がお前に何回カナちゃんの話をしたと思ってんだよ」
「冗談じゃん。おめでと」
 大学入学から頑張って、ようやく瀬上に決まった彼女ができたわけか。瀬上の良さがわかるとは、カナちゃんとやらはいい女に違いない。
 彼は少し迷う素振りを見せた後、問う。
「それで、お前の方は……」
「なんか、その、心配かけたみたいでごめん」
 陽介から話は聞いていた。教室を出て行って、連絡が取れなくなった伊月のことを、瀬上が気にかけてくれていたと。
「もうだいたい大丈夫だから」
「仲直りは上手くいったみたいだな。今朝あの人からメール来てたよ。身を挺して守れとか、刺し違えろとか……」
「あのバカは無視していいよ」
「付き合ってることは付き合ってんの?」
「まあ」
「いつから?」
「ちゃんとしましょうってなったのが夏休み前の、七月初めくらい? その前からごちゃごちゃしてたけど」
「誕生日ケーキ云々のころか。ほうほう。お前のアイドル好きはカムフラージュだったってこと?」
「違うよ! バニバニも清香ちゃんも大好きだよ。男なんて考えたことなかったけど、好きになったものは仕方ないっていうか……」
「マジで気になるわ、馴れ初め。ああ、一緒にライブ行ったんだっけ?」
「それがきっかけではない。もういいだろ。この話は」
「もう興味津々丸なんですけどー」
「教えない!」
 自棄を起こして勢いで男と寝たなど言えるわけがない。いや、そもそものそもそもは、去年のオープンキャンパスで会ったときか? それなら話してもいいとも思ったが、しかし、それを言うとなると、運命の出会い云々の話もついてくる。ベータにとってみれば、運命のどうのこうのというのは、とんだお花畑的発想なので、何にしろ黙っているのが賢明だ。
 瀬上はじわじわと赤っていく伊月を、しばらくじっと観察していた。
「……何だよ?」
「真面目な話、あの人大丈夫なの?」
「大丈夫って何が?」
「ハーレム、ちゃんと解散したのかってこと」
「ああ、その辺はもう話し合い済みだから」
「そんなこと言って上手いこと丸め込まれてるんじゃない? まんまとハーレム組み込まれてない?」
「ないよ。言われてるほど滅茶苦茶な人じゃない。うちの実家で親に挨拶してたよ。母さんとめっちゃ仲良くなってた」
「展開早くね?」
「俺もそう思う」
「黒髪美人で自分に一途で料理上手な処女は諦めたんだな」
「結構当てはまってないか? 黒髪だし、綺麗な顔してるし、俺だけって言ってるし。料理上手ではないけど、たまに頑張って作ってくれるし、処女っていうのは、まあ、そもそも女じゃないしね」
「恋は盲目ってこういうことか。お前がいいならいいんだけどさあ」
「いいんだよ。もう決めたんだ。でも、心配してくれるのはありがたい」
「そうかそうか。なら、お礼にそれくれ」
 箸がぬっと延びてきて、カツの一切れ、それも真ん中の方の大きいものがさらわれる。
「おい! ご飯の配分計算して食べてたのに!」
「ケチくさいこと言うなよ」
 瀬上の丼から取り返してやろうかとも思ったが、世話をかけた分の礼としては安すぎるくらいなので、そのまま差し上げることにした。後は盗られてなるものか、とスピードアップして食べ進める。なにか奢るにしても、次にアルバイトの給料が入ったときだ。
 ほぼ食べ終わった瀬上は、箸を置いて無料の水で一服する。
「ちょっと真剣な話をしとくと、俺のばあちゃん、オメガなんだわ」
「そうなんだ」
「昔、ひどい扱いを受けて苦労したって話、聞いたことあるよ。俺はばあちゃんっ子だったから、すごい腹立ったな。だから、性別を理由に関係変えたりしたくない」
「……そっか」
「今、すげえいいやつだなって思ったろ」
「自分で言うな。思ったけど」
 こうやってわざわざ口に出してしまうのが、瀬上のモテないところなのだと思った。カナちゃんは彼のそんなところも好きになってくれたらいい。
「あれ、なんか鳴ったぞ」
 指摘され、テーブルに置いたスマホの画面が明るくなっているのに気づく。メッセージが来ているという通知だ。チェックすると陽介からで、一言『無事?』とだけあった。『無事。昼ご飯食べてる。』と返信する。
「彼氏?」
「んー、なんか心配されてる」
 すぐにまた返信が来た。
『何食べてる?』
『カツ丼』
『僕はこれから。伊月のお弁当食べたい。』
 無理、と送りかけ、考える。手作りのお弁当、感謝を伝えるにはいい方法かもしれない。陽介だって初めから手の込んだものは期待していないだろうから、できないこともなさそうだ。時間はかかるかもしれないが、便利なレシピサイトも多いし、この間初心者二人で作ったカレーが美味しかったのが自信になっていた。何よりあまりお金がかからないのがいい。
 こう返しておく。
『いいよ。時間のあるときに。』
『ほんとに? やったー。』
 彼からのメッセージを確認して、スマホを置く。
「なんかお弁当作ることになった」
「お前が? ラブラブじゃん」
「まあね」
 そういうことになるのだろう、多分。
 今日はアルバイトが終わってから、一日の報告をするために会うことになっていて、学校ではどうにかなりそうだということを話して、あとはお弁当の好きなおかずについてリサーチしておこう。
 瀬上と幼少のころのお弁当の思い出について語り合いながら、昼休みの残りを過ごした。


【章題について】
「(1)出会い→(2)引力→(3)苦悩→(4)嬉し愛し」で、しりとりになっています。ちょっとしたお遊びです。

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