(4)嬉し愛し(うれしかなし)

「うちはね、兄弟が多くて、下に夏穂と双子の妹弟がいるんだけど、本当はもう一人弟がいたんだ。全部で五人兄弟。戦隊物ごっこが大好きなやんちゃな子だったけど、幼稚園の時亡くなってね。心臓の病気だった。生きたくても生きられない子もいるのに、自殺しようとするなんていうのは馬鹿だって、そういう意味で言った。君のお姉さんのような人のことを貶めたかったわけじゃない」
「……そうだったんだ」
 正直、ほっとした。よかった。この人の冷たさから、ああいう言葉が出たわけではなかったのだ。
「何が引っ掛かったのか、もっと早く話せばよかったな。姉さんのこととなると冷静に話せる自信なくて、ありのままを言うと喧嘩になりそうで怖かった。一人で悩んで混乱して、何やってたんだろ」
「話をするって大事なことだね」
「そうだな。俺もごめん。なんか、無視するみたいなことして」
 受け止めてくれると信用して話さえしていれば、突き放すようなことを言って彼を傷つけることもなかったのに。
 謝らねばならないのはそれだけではない。
「それから、突然こっち来ちゃって、心配かけてごめん」
「無事だったんだからいいよ、もう」
「性別バレて、ビッチとか書かれててパニックになっちゃったんだ。あの写真も隠し撮りされたものだったし、うちのマンションにいても誰かに見られてる気がして、怖くなって飛び出してきた」
「そういうときは、まず俺のとこに来て」
「……はーい」
 ベッドの上に置いた伊月の手に、陽介の手のひらが重なる。触れられているのは手だけのはずなのに、心臓まできゅっと掴まれたようになった。不意に泣きそうになって、唇を噛んで堪える。
 陽介は伊月の癖のある髪を撫でつつ、表情を引き締める。
「あのキス写真を上げた犯人なんだけどさ」
「心当たりあるのか?」
「心当たりというか……。僕は恋人と別れるときとか、興味のない人にアプローチされたときとか、はっきりきっぱりばっさり断ることが多くて、多分どこかで恨みを買ってたんじゃないかと。具体的に誰かは見当がつかないんだけど……、あの投稿からは、そういう怨念めいたものを感じる。もしもそうだったら、今回のことは僕が招いたことでもある。ごめん」
 おモテになるんですね、と喉元まで出かかったが、言わずにおく。嫌味を言っている場合ではない。
 昨日話したくても話せなかったことを伝えておかねば。
「投稿のことを知った前の日に、気になることを言ってた人ならいる」
「誰?」
「初めて発情期になったとき、助けてくれた人がいたって言っただろ? その人と学内で偶然再会したんだ。助けてもらったお礼を言ったんだけど、別れ際に言われたんだよ。君を裏切ることをする、恨んでくれていい、明日からきっと君はとてもつらい、とか何とか……」
「超怪しいじゃん。そいつなら君の性別も知ってるわけだし……。どんなやつ?」
「橋口さん。スーツ着てて、痩せ型、背はそんなに高くない。年は二十代半ばくらいかな。教授の知り合いで、何年か前から仕事でうちの大学に出入りしてて、真面目で物静かな感じの人。で、オメガだって……。……あ」
 陽介がついさきほど言ったばかりだ。自分がきっぱり振ったことで、犯人の恨みを買ったのではないかと。陽介はオメガが好きで、橋口はオメガ。そこから伊月が導いた仮説はこうである。
「橋口さんって、こっぴどく振った元カレとかじゃないのか?」
「それはない。君の前にオメガの男の子と付き合ったのは一人だけで、橋口なんていう名前じゃなかったし、同い年だったし、別れを切り出したのは向こうからだった。今は素敵な恋人がいて幸せいっぱいって聞いたから、あんな陰湿なことはしないはず。それから、アプローチしてくるのは主に女の子で、言い寄ってきたことのあるオメガの男の子は、その元カレだけ。付き合う前に振った男の子はいない」
 元カレの近況を把握していることにはもやもやしたが、仮説が否定されて安心はした。そうですか、とだけ返す。
 陽介は組んだ足に肘をつく。アイドルのポスターがペタペタ貼ってあるオタク丸出しの部屋でも、こういう所作が様になるのが憎らしい。
「……うーん。伊月は橋口に恨まれる心当たりは?」
「ない。二回しか会ってないし、発情期のあと大丈夫だったかって心配してくれて、敵意なんか微塵も感じなかった。変なことはされたけど、それだって別に……」
「え、なに、変なことって」
「あ……、ううん、何でもない!」
 全力で首と手を同時に振る。完全な失言だった。内緒にしておくつもりはないが、今言うことではない。本題から話が逸れる。
 しかし、陽介はそれで誤魔化されてはくれなかった。ぐいっとこちらに身体を近寄せてくる。
「何でもないことないよね? なに? なにされたの?」
「……ちょっとちゅってされたくらい」
「キスされたってこと? どこに? ほっぺ?」
「いや、ここ?」
 自分の唇を指す。もう嘘はつきたくなかったし、噓をついても、すぐに見破られそうだったから。
 彼の顔つきがみるみる険悪になる。
「……は? 刺し違えてでもって言ったよね、僕」
「だって、直前までそんな雰囲気全然なかったから避けられなかったんだ。キス自体、エロさの欠片もなくて、ただ触れあってるだけ、みたいな」
「でも、キスはキスだ」
 肩を突かれ、伊月はベッドに倒れ込む。陽介は親指の腹で唇を強めに押してきた。ほら、やっぱり本題から話が逸れた。
「僕のなのに」
「ごめん」
「君は嫌じゃなかったの?」
「嫌というより怖かったよ。何の脈略もなくて、何がしたいのか全くわからなかったから」
「絶対に見つけ出して痛い目みせてやる」
「喧嘩したことあんの?」
「兄弟喧嘩と親子喧嘩を少々」
 それは喧嘩は喧嘩でも意味合いが全く違うだろう。
 伊月の唇をぐりぐりと弄っている彼の手を取り、頭の重さを預けるように、その手のひらに自分の頬を置く。
「犯罪者になるのはやめとけ。刺し違えるなんてもってのほかだぞ。橋口さんの連絡先はわかる。助けてもらった後に教えてもらった。いつも持ってるリュックの中に、もらったメモが入れっぱなしになってるはず」
「それじゃあ、さっそく」
「今はリュック持ってきてない」
「なら、あっちに帰ってからだね」
 現状、最も犯人に近いと思われる男に問いたださねば。あの時の言葉の真意を。親切な恩人が自分たちを陥れようとしている犯人だとはどうも思えないが、伊月たちが知らない情報を握っている可能性もある。
 寝転んだまま推理に没頭しようとしていると、スリッパを脱いでベッドに乗り上がってきた陽介が、隙ありとばかりに口づけてきた。
「……こら」
「キスだけ」
「駄目だって。それも帰ってから……」
「やだ。最新が他の男って許せない」
 またキスをされる。触れあわせているだけだが、何と言ってもベッドの上だし、エスカレートしそうな雰囲気ではある。
 この匂いに包まれていると、ここが実家であることを忘れそうになってしまう。陽介もさすがにここで事に及ぶつもりはないだろうが、火が点きやすく変えられた身体を中途半端に煽られると、興奮を発散できずに一夜を明かすことになる。それはつらい。
 無理やりにでも新しい話題をねじ込む作戦に出る。
「待って、待って。なあ、俺さ、聞いてほしいことがあるんだ」
「なに?」
 疑問形ではあるものの、あまり聞く気はなさそうで、服の上から伊月の腰の辺りを触り始める。伊月は片肘をついて身体を起こし、彼の胸を押す。
「俺、大学やめて働こうと思う」
「はい?」
「まずは今のバイトのシフト増やして、並行して就職先探すんだ」
「……なんで?」
「たとえ犯人が見つかったって、あの投稿、かなり広がってるみたいだし、今更無かったことにできないだろ。皆に俺がオメガだって知られてしまった。だったら……」
 昨日から悩み、梅子おばあちゃんの家でやっと決心がついたのだ。「伊月ちゃんは頑張り屋さんなのが良いところだとは思うけど、頑張りすぎなくてもいいのよ」と、おばあちゃんは言ってくれたのだ。何があったのか話はしなかったが、伊月の様子から思い詰めているということを察してくれたのだろう。
 遠距離にならないように、就職先は向こうで探すつもりだ。元のように座り直して説明を続けようとすると、陽介に遮られる。
「ちょっと待ってよ。ほんとにもう、一人でグチグチ悩んだら、君はろくな事を考えないね」
「でも、他にどうするんだよ。やめるって決めたら、気持ちがすごく楽になったんだ」
「そんなの、挑みもせずにただ逃げているだけだろう。職場でだって性別がバレる可能性はある。そのたびにやめるの? バレたって案外うまくやれるかもしれないんだから、少しは試してから考えなよ。君はこれから一生オメガとして生きていくんだ。性別と上手に付き合う方法を学ばないと」
「……けど、もう大学行くの怖い」
 授業が被ることが多く、割と仲のよかった学生たちも、あの投稿を信じて伊月の噂話をしていた。あんな風に、あるいはもっとひどく、他の学生たちも面白おかしく喋っているに違いない。
 陽介には賛成してほしかったのに、彼は取り合ってくれない。
「僕が一緒に行ったげるから」
「二人で? 晒し者じゃん。俺がいなくなれば、写真の相手があんただったって事は皆すぐ忘れるよ。あんたは浮いた噂だらけなんだし、今回の件もそのうちその中に埋もれる」
「忘れてもらわなくたって構わないね。これ見よがしにラブラブアピールしてやればいい。オメガで何が悪いの? 彼氏とキスしてて何が悪いの? 堂々としてればいいんだよ」
「でも」
「だいたい、君がやめたりしたら、それこそ犯人の思う壺じゃないか。コメント見たでしょう。奴は君に嫌がらせしたいんだよ。犯人を喜ばせるのは癪だから、こんなのに負けないって幸せオーラ全開にして、犯人を見せつけてやればいい。頑張ってみよ。嫌なこと言う奴がいたら、僕がシメに行くから」
「家庭内の喧嘩しかしたことないのに?」
「背後から奇襲すればいけるんじゃない」
「なにそれ、めっちゃ卑怯」
 ふっと笑いが漏れる。伊月は一人で戦わなくていいのだと言ってくれているのだろう。
 抱き寄せられるのには、素直に身を任せた。
「とりあえず、早く犯人捕まえようね」
「……うん。ありがと」
 どちらともなく唇をあわせる。
 このときは、邪魔が入るとすれば母親で、彼女はノックをするくらいのデリカシーは持ち合わせているだろう、と思い込んでいた。だが、迂闊だった。この家の住人はもう一人いた。
 ガチャッとドアが開く。一拍遅れでそちらを見ると、そこにいたのは棒立ちになったスーツ姿の父だった。そういえば、もうそろそろ帰ってくる時間だった。
「……父さん?」
「あ……、ああ、いらっしゃい」
 ドアが閉まる。バタバタと廊下を走る音に、階段を駆け下りる音が続く。かなり動揺しているようだ。
「……見られた」
「そうだねえ。でも、晶子さんは僕らのこと気づいてたみたいだよ」
「え、なんで?」
「君、僕のこと晶子さんに話してたんだろう? で、それっぽいやつが、わざわざ何時間もかけてこんなド田舎まで君を追いかけてきたら、そりゃわかるよね」
 確かにそれもそうだ。母に彼のことを話したのは、頼りにできる人がいるから心配しなくていいと伝えたかったからだ。
 気づいていた割には、母の態度は普通だったように思う。後から問い詰めるつもりなのだろうか。父はどう出てくるだろう。
「どうしよう……。もうこのまま皆で夕飯食べる流れだよな?」
「七時だしね。伊月はこのままここに泊まるよね? 僕は帰った方がいいのかな」
「泊まってけって言うだろ、多分。今から食べてたら八時回るし。ああ、絶対、食卓お通夜状態になる。気が重い。下に降りたくない」
「でも、将来のこと考えたら、僕もご両親と仲良くなっとかないと。行こう」
 不思議なことに、陽介は全く気まずがっている様子がない。見られたのが自分の親でもばつが悪いのに、相手の親なら余計にそうだと思うのだが。何事もなかったかのように、彼は率先して部屋を出て行った。

 びっくりするほど何の躊躇いもなく、陽介はすたすたと居間に入っていく。このメンタルの強さはどこから来るのだ。
 台所から父と母の会話が聞こえてくる。
「でも、あの子はウサギのアイドルが好きだったじゃないか。サヤコちゃん?」
「清香ちゃんね。アイドルが好きなのと恋愛は別なのよ。陽介くん、すごくいい子よ? 五人兄弟の一番上のお兄さんというだけあって、すごくしっかりしててねえ。ご両親は実業家でいらっしゃって、礼儀正しいし、爽やかだし。こんなおばさんにも優しくて、私のこと晶子さん、なんて呼んでくれるのよ。うふふ」

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